第82話 魔法陣


 ◇◇◇


「これは……」


 魔法陣が刻まれていたはずの扉が、粉々に打ち砕かれている。バルバロスさまは驚きの声をあげ、足を止め沈黙した。しばらくして、無言のまま破損した扉に近づき地面に片膝をつく。その背中を、私は少し離れたところから見ていた。

 二枚の扉のあわせ目に、大きく複雑な紋様の描かれていたはずの木戸のほとんどの部分が、大きく砕かれ割れている。エーメの部屋へ通じる木戸と同じ、力ずくで誰かが中へ入ったみたい。


 きっとラスティだわ。この向こうにいる。思った瞬間、砕けた扉の奥から風に乗って男が短く叫ぶ声が聞こえた気がした。思わず足を一歩進めると、突然バルバロスさまが鋭い目をこちらに向けた。


 どき、と心臓が鳴る。


「モルゴーであれば当然、ここを破壊する必要などない」


 魔法陣の一部が彫られた、ささくれ立った木片を手にしたバルバロスさまが、視線で私をとらえたままゆっくりと立ち上がった。


「卑しい盗人め、ミケラーディオンの犬が!」


 国王の御名を吐き捨てるように発音したバルバロスさまに驚いた。なんて不遜な。ガウディールに謀反の企みが、と言っていたロインの言葉が頭を掠める。


「王に尻尾を振るだけでは飽きたらず、獲物を咥え得意顔を見せに行くつもりか」


 父のことを言っている。屈辱で血の気が引いた。バルバロスさまは手にしていた木片を手のひらの上で弄びながら、目を細めて私を見た。きっと青ざめているわ、私。


「息子を人質に取られ、命ぜられるまま娘を差し出してきたかと思えばその上これか。シファードの領主が犬であったとは。忠心に果てがないのも頷ける」

「弟は騎士見習いよ、人質ではないわ! お父さまを侮辱するなんて――」


 続く言葉は紡げなかった。腕を伸ばしたバルバロスさまに、木片で顎を上向けられたから。ささくれが首に触れる。


「どうすると?」


 嘲りを含んだ問いかけと同時に、木片の触れる力が強まった。押しつけられている。刺して殺すこともできると脅しているんだわ。


「なにもできまい」


 怒りに、侮られる悔しさが足され、胸がチリチリと熱くなった。逆に指先は冷えていく。体に残っていた闇の魔力が集まってくるのを感じた。


 それに、向こう。


 ふ、と、なにかに導かれ視線を動かした。バルバロスさまの背後に暗い穴が開いている。割れた扉の向こうの明かりは消えていた。この暗闇のずっと奥、そこで指先にあるのと同じ魔力がこごっている。あれを、この身に、


「イルメルサ!」


 叱責するように名を呼ばれ、首に痛みを感じた。首筋に熱いものが一筋流れる。横に薙いだ木片を、バルバロスさまが床に放り投げた音に意識を引き戻された。


「来い」


 二の腕を強くつかまれ、ほとんど引きずられながら砕けた扉をくぐった。同時に、バルバロスさまの頭の上に大きな光の球がなんの前触れもなく出現した。


 一気に周囲が明るくなる。

 

 眩しさに目を細めながらも、照らし出された壁面の美しさに目を奪われた。なんて色鮮やかな。四角く切り出された、色とりどりの陶器や石を埋め込んで描かれた絵の数々がそこにはあった。青に黄色、そして緑。絵を縁取る複雑な模様も精巧で。どれも随分古いものだわ。剥がれているところもある。

 なにかの物語が、順を追って描かれている。バルバロスさまの魔力に反応しているのか、私たちが進むのに合わせ、絵のところどころが淡く白い光を放つ。


 壁画には、黒髪の赤子が護られながら育っていく様子が描かれていた。成長するにつれ、子供の肉体に黒い部分が増えていく。司祭服に似たものを着た人物に祭壇にのせられた子供は、もうほとんどの部分が黒く塗りつぶされていて……。自分の指先を思い出し寒気を覚えた。


「眺めても構わぬがなにも考えるな」


 声をかけられびくりと肩が揺れた。バルバロスさまの声は大きくはなかったのにやけに音が響いている。腕を強く引かれながら視線を走らせると、穹窿天井の連なる通路は長く、私たちの影が滑るように移動していた。


 ここはどこ。私は今どこにいるの。魔術師塔の壁から階段を降りて、おりて……ガウディールの地下にこんな場所が隠されていたなんて。

 美しい壁面の装飾は天井まで続いている。魔力を秘めていそうな紋様があちらこちらに描かれていた。どれも初めて目にする形だった。古い魔術の跡なんだわ。


 自分たちの足音と息遣いだけが聞こえていた。さっき聞いたかと思った男の声は、あれから一度も響いて来ない。ラスティの声や、ジーンの声、そんなものの気配もない。


 ジーン! 


 叫べば来てくれるかしら、それともあの子はこちらに来てはいないのかしら……。


「あっ!」


 ぼんやり物思いに耽っていたせいで、突然立ち止まったバルバロスさまの腕に体をぶつけた。失礼を、と言いかけ思い直して口を閉じる。こんな扱いを受けている最中よ、謝罪なんて必要ない。

 でもどうして止まったのかしら。まさか魔物の気配があったとか……? 怪しまれない程度に頭を動かし辺りを探り、気が付いた。バルバロスさまの進路の少し先に小さな泥の山がいくつもできている。あれは闇の魔力をもった魔物の成れの果てだわ。あんなにいくつも。


 バルバロスさまは無言のまま、私の腕から手を離し、床に落ちていた陶器のかけらをひとつ拾い上げた。青い色がいやに目につく。シファードの色に似ている、と思った瞬間、バルバロスさまがそれを無造作に前に放り投げた。


「!」


 空気が震えるような衝撃が起こり、火花がはじけた。同時に目の前に魔法陣の壁が姿をあらわす。きれい。まるで花が開くみたい。濃い橙色の魔法陣がいくつも生まれ重なり合い、揺らめき、そして消えた。


「小賢しい真似を」


 バルバロスさまの視線を追い床を見ると、さっき投げた陶片が粉々に割れて私たちの足元に散っている。弾き返されたのね。


「魔法陣……モルゴーの……?」


 驚いてつい口を開いたけれど、冷たい目で睨まれてしまった。失敗した、黙っていればよかった。


「違う。あれならばこのような回りくどい構造のものは描かぬ」


 なら、ラスティの術なのかしら。闇の魔力を持つ魔物が外に出るのを防ぐために、彼がこれをここに置いたとか。そう考え、胸の奥がじわりと温かくなった。そうならいい。だってそれは、今日のこの惨事を彼が引き起こしたのではない証拠みたいだから。


「ここを通ることは、もう……?」

「いいや。短時間で何度も作用したのであろう、術に揺らぎがある。とはいえ私も魔力は温存したいからな。あと一度大きなものを通せば楽に崩せよう」


 言い終わるが早いか、バルバロスさまが私の腕を掴んで引き寄せた。大きなものって、まさか。


「案ずるな死にはしまい。傷もすぐに癒してやる」


 私を。


「っ、いや……!」


 足に力を入れる抵抗も虚しく、私は小石みたいに放り出された。勢いが強い。手首の拘束が千切れ、自由になった腕が空を掻く。火花、砕けた陶器。あんな風になるの。見たばかりの光景が頭をよぎり、痛みと衝撃を予感して体が強張った。


「なに?!」

「いっ……!」


 地面が近づいてくる。なんとか手のひらをつくことができたけれど、ひどく無様に床に倒れ込んだ。すぐ近くに泥の山があって慌てて身を引く。あちこち擦りむいたのか、動かすと痛かった。


「なぜだ」


 でも、それだけだわ。擦り傷の痛みだけ。どうして。体を起こしながら振り返っても、呆然と立ち尽くすバルバロスさまがおられるだけだった。魔法陣は浮かび上がっていない。普通に通れたの? さっきので魔法陣が壊れていたのかしら。


 同じ疑問を持ったのか、バルバロスさまが右腕をあげた。こちらに向けられた手のひらから、小さめの火球が浮かび上がる。と。


「っ!」


 火の中の木の実が弾けるのに似た音が鳴り、目の前にまた魔法陣があらわれ眩しく輝いた。術は生きている。生きた人間は通れるのかしら、でもそれならさっき魔法陣を見たバルバロスさまにはわかるはず。


 さきほどと同じく、しばらくすると魔法陣はゆらめき薄れていった。発光がおさまるにつれ、バルバロスさまの表情が見えてくる。バルバロスさまは、眉根を寄せ厳しい顔で魔法陣に目を走らせ、その中に秘められた術を読んでいるようだった。


「……そうか、そういうことか」


 魔法陣が消えた時、ぽつりともらされたつぶやきになぜか恐怖を感じた。


「無駄に複雑な術だとは思ったが」


 早く立ち上がるのよ。はやく。冷静な自分が声をかけてくる。その声にすぐに従った。


「これで隠したつもりか……“貴き稀なる魔女”……犬の娘にずいぶんと大仰な呼び名を与えたものだ」


 魔女? バルバロスさまがなにを話しているのかはわからなかった。それでも声の中の怒りが増しているのは手に取るようにわかる。馬鹿みたいにここにいてはいけない。


 じり、と後退りすると、魔法陣が消えたあとの虚空を睨んでいたバルバロスさまの視線が、私に向けられた。灰色の瞳が怒りで暗くなっている、恐ろしい目だった。殺される。


「イルメルサ、貴様、我がガウディールの魔術師をたぶらかしおったな……?」


 最後まで聞かず踵をかえし、力を振り絞って暗闇に向かい駆け出した。背後でまたなにかの弾ける音がして、明るい光が輝いたけれど、その明るさは恐怖でしかなかった。あの曲がり角まで、早く。


 魔法陣がそれまで保ちますように。

 ラスティ、私を守って。


 耳の横を風の切る音がする。そんなに早く走れているわけもないのに。奥から風が吹いてきているんだわ。冷たい。顔を上げ先を見て、光の消える直前に曲がり角に飛び込んだ。あたりがふたたび闇に包まれる。


 その暗闇の先、続く道の終わりに、明かりの漏れる扉があった。


 息をついて呼吸を整え、また足を踏み出した。急いで。バルバロスさまが追ってくる気配はまだない。それが余計に恐怖心を煽る。塔の外で捕まったとき、バルバロスさまの足音はしなかったもの。今も静かに追ってきているかもしれない。確かめたいのに、恐ろしくて振り返れない。暗闇の先の柔らかな光から視線を外せなかった。


 ああ、希望みたいな橙色の、あたたかな炎を思い起こさせるあの光。ラスティ、あなたの魔力みたい。そこにいる? 私、あなたに会いたいの。



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