第81話 だれ
「ついて来い」
バルバロスさまは怒りの滲む声で短く言い残すと、暗い階段を降りていった。視界から男が消える。しん、と、突然自分のまわりが静かになった。時折パラパラと、上から砂が降ってくる音が聞こえるだけ。
私、今、ひとりだわ。
おとずれた幸運に、胸に静かな喜びが広がった。階段をゆっくりのぼりながら、手首を擦りあわせる。痛い。一体どのくらい強く縛ったの。恨み言を呟きながら、強く縛られた布に魔力をこめた。
落ち着いて、できるわ。
焦り出そうとする心をなだめながら魔力を一点に集めると、腕を堅く縛り付けていた力が少し弱まった。結び目の一部を崩せたみたい。これでもういつでも、力を入れれば腕を自由にできる。
ラスティの助けになれる、魔石を渡せる。
バルバロスさまを追って薄暗い階段に足を下ろしながら、かすかな希望の光が差した気がした。生きていて、ラスティ。
通路は暗かったけれど、階段がぼんやり見えた。バルバロスさまは下まで降りてこちらを見上げている。私の姿を確認したからか、無言でエーメの部屋に消えた。そこから届く光に、私の足元が薄く照らしだされている。
前はラスティが明かりをつけてくれるまで、ここは真っ暗だった。エーメでなければ開けられないという、木製の扉が閉じていたから。今は開いているあれ。
「え……」
視線を向けた扉が壊れて見え、目を凝らした。やっぱり、ボロボロだわ。
扉は乱暴に開かれでもしたのか、鉄製の蝶番にかろうじてぶら下がっている状態だった。でも乱暴にって、あれはエーメの、魔術師長の魔力で制御されている扉なのよ。バルバロスさまが壊したの? でもそんな音はなにもしなかった。
賊に押し入られでもしたみたい。あれもラスティが? 思った瞬間、下からひんやりとした風が吹いてきた。
「……う」
生臭い、血のにおい。気づいて肌が粟立つ。また人が死んでいるの。行くのが恐い。見たばかりのカシュカの顔が脳裏にちらつく。倒れているのが知った顔だったら。ラスティだったら――。
ごく、唾を飲み込んで、震える足を無理矢理階段から引き剥がし一段降りた。行くのよ、ラスティは死なない。彼がどんなに強いか知っているでしょう。でもきっと今彼は、困っているわ。だから行くの。奥の部屋がどんな状態だって、歩いて進むのよ。
階段は急で、狭くて、ただでさえ降りにくい。そこを手を使わず行くのだからどうしたって動きは緩慢になる。それが助けになった。心の準備ができたから。
下の部屋の床が見える範囲が少しずつ広がっていく。鼻につくにおいも強くなる。床に倒れた誰かの指先が見えた、と思った次には、部屋を見渡せる場所まで降りてきていた。
「遅い」
部屋の中央に立つバルバロスさまの声が耳を通り抜ける。下は血まみれで、大勢が倒れているのだろうと覚悟していたのに、そうではなかった。なかったけれど……。
「……っ」
目を閉じ、横の壁に肩と頭をつけ急にこみ上げてきた吐き気をこらえた。こらえながら、今見たものの記憶を無理やり引き出す。ラスティではなかったわよね? 違うはずよ。でもどんなに思い出しても、顔も髪の色も、体の大きさもわからなくて。
「恐ろしいか?」
黙って震えるだけの私に、嘲りを含んだ声がかけられた。
「戦場で幾度も見た光景だが。城内でエーメのこのような姿を目にしようとはな」
「エーメ……?」
ラスティではないのね。飛び込んできた名前に、どこかほっとしながら目を開け、見てしまった。バルバロスさまが腰をかがめ、床に落ちた千切れた右腕を拾い上げているところを。持ち上げられた腕の、手首から先がぐらりと動くのを見て慌てて目を閉じた。
エーメ、あれが? バラバラになって部屋に散らばっていた誰かの体は見た。それが誰かなんてどうしてわかるの。服はあったかしら、エーメはいつも、なにを着ていた?
「指輪を見ろ」
どさ、と音がした。なにかを足元に投げられた。見なくてもわかるわ、腕よ。エーメのものだとバルバロスさまがおっしゃるのなら間違いない、エーメの腕。あちこちにあった人の体らしきものも、このにおいもすべてエーメの。
見たくなくて首を横にふると、聞こえてきたのはため息だった。
「それでわからなければ頭をさがせ、隅にでも転がっておるだろう。来い、行くぞ」
「先へ?」
そっと目を開け聞くと、バルバロスさまがなにを馬鹿なことを、と言いたげな視線を私に向けてきた。この男は、どうしてこんなに平然としているのだろう。不思議だわ。私はこの先にラスティがいると知っている。でもバルバロスさまはなにもご存知ないはずなのに。
「魔術師長を殺した者が潜んでいるかもしれないのに、兵も待たず先へ行くとおっしゃるのですか?」
「誰がやったかはわかっておる」
返ってきた答えに息をのんだ。
「だ、だれが、だれがこんなことを」
お願い、違う名前を言って。強く願いながらも私は、塔に駆け込んだジーンの姿を思い出していた。バルバロスさまもあの時近くにいたわ。犬か、と聞いてきたじゃない。あれで感づかれたかもしれない。
バルバロスさまから目が離せなかった。男の唇が開く。
「モルゴー」
モルゴー? 思いもかけない名前に、バルバロスさまを見たまま思考が止まった。私を見るバルバロスさまの顔に皮肉げな笑みが浮かぶ。
「驚いておるな、誰の名があがると思いおったのか」
いけない。さ、と血の気がひいて自分が青ざめるのがわかった。
「そんな、私は、誰のことも……」
「白々しい。逃げ出す隙を与えたのについて降りてきたのはなぜだ。この先になんの用がある?」
気が付けば、いつの間にか私が詰問されている。
さっきのはわざとだったの。私をひとりにして、どうするか試したのね。ここで怯んではいけないと本能が叫んだ。震える唇を一度引き結び、顎をあげ男を睨み答えた。
「ついてこなければ父を射ると脅したのをお忘れですか? それにあの揺れ。バルバロスさまこそ、私が誰を探していれば、このような不気味な場所に望んで足を踏み入れるとお考えなのです」
楯突けば前みたいに殴られるかもしれない。心臓がどくどく音をたてた。ふたりでにらみ合う。バルバロスさまの灰色の目は嘲りの色を浮かべ、私を映していた。
目をそらしては駄目。背中で拳をにぎり、同じ塔にいるだろうラスティとジーンの姿を思い浮かべて恐怖に耐えた。しばらくそうしているとバルバロスさまは鼻にしわを寄せ、不愉快そうな表情をしてみせたあと、私から顔を背け、奥の壁の方を向いた。通路を隠していた壁板が外れ、入り口が見えている。
「おおかたゲインが、シファードの騎士をここへ送り込んだのであろう」
私がロインを追ってここに来たとお考えなのね。ロイン、ロイン、ロイン。みな、彼と私を結びつけ考える。ラスティと私の関係は疑いもしないで。
「ガウディールの秘術は誰にも渡さぬぞ。犬ども、今頃モルゴーに四肢をひき千切られておろうよ。惨状を目にするそなたの顔を見るのが楽しみでならぬわ」
歩きながら言い捨てると、バルバロスさまは壁板を脇に蹴り倒し道をあけ、中に入っていった。エーメの部屋から続く秘密の道。あの研究に使われていた部屋へ続く通路。粗末な部屋、拘束具のある台。獣のにおいが強く届く通路……。恐ろしく、孤独だった記憶が蘇る。
「あ!」
下からの衝撃音と同時にまた部屋が揺れたのはその時だった。まだ狭い階段の通路にいた私は、肩と頭を石を積んだ壁に打ちつけた。体に力が入り、手首の布が更に緩んだ。取れはしなかった、よかった。
天井から吊された鉄製の集合灯が揺れ、ガチャガチャと大きな音を立てる。いくつかの火が消え、部屋が少し暗くなった。怖い、なぜ何度も揺れるの、なにが起きているの。
「行かないと……」
つぶやいて、エーメの部屋に足を踏み入れた。まだ床が微かに震えている。集合灯、落ちてこないかしら。視界の端に暗く赤い色で染まった壁が入り込んだけれど、意識して見ないようにした。床に落ちているものも見てはいけない。柔らかいものを踏んでもなにか考えては駄目。心を殺して足を動かすのよ。
◇◇◇
体が思うように動かない。
温かなラスティの魔力はすでに尽き、取り込まされた闇の魔力が体の内側にはりついて気力を奪い、足を重くしていた。胸の魔石に手を伸ばすこともできないまま、ただバルバロスさまとの距離が開いていく。
バルバロスさまは迷いない足取りで、奥へ奥へと緩く下る長い通路を進んでいった。その途中にも何人もの魔術師たちが倒れ息絶えている。そのほとんどが、明らかに何者かの手によって命を奪われていた。塔の一階にいた者たちとは違い、体に傷を負っている。エーメの死に様よりもカシュカのそれに似ていて。
ラスティ、あなたもここを通った?
壁にはところどころ、焦げあとや砕けたところ、血のついた指で触れた汚れがついていた。誰の指のあとかしら、彼が怪我をしてはいませんように。一定の間隔で置かれた壁の明かりが魔力を帯びてぼんやりと光り、行く先々で私たちの影を伸ばす。
その影がひとりの男の足先に触れた。横に向いた顔には見覚えがある。カシュカとよくふたりでいた男だわ……緑の髪をした……お前も死んだの。男の体には傷は見当たらなかった。倒れた体の周囲に、魔法陣が描かれた羊皮紙が丸まって何本も散らばっている。奥へ運ぼうとしていたみたい。見下ろし恐る恐る歩いていると、男の背が急に動いた。
「ひっ……!」
驚き退くと、男の胸の下から太った鼠が這い出てきた。瞳が赤い、魔物だわ。懐の魔石を探っていたのね。鼠は一度小さく鳴いて髭を揺らすと、私には目もくれず、どこかへ走り去っていった。
「魔物か」
「は、はい。鼠の」
「鼠、ねずみとは」
立ち止まったバルバロスさまが、私の答えを繰り返しながらこちらを向いた。呆れの滲む物言いで、小さな魔物に怯える私を笑ったのかと思ったけれど、続く言葉で違うとわかった。
「尽きたか」
尽きた? なにが。
そんなことを聞けるはずもなく。眉根を寄せなにか考える素振りを見せたバルバロスさまを、黙って見た。
「それとも迷い込んだのか」
独り言のようにつぶやいたバルバロスさまが、道の奥へ顔を向けながら鼻を動かす。におい?
そういえば、強く香っていた甘い匂いがいつの間にか薄れている。塔に足を踏み入れたときが一番強かった。あれがなんなのか、バルバロスさまはご存知みたい。だから迷いなく、私に塔へ入れと言えたんだわ。
「まだ、遠いのですか」
「なに?」
「目的地は」
言って、ため息とともに顔をあげ道の先を見た。下り坂で先は見えない。時折、風が吹き抜けていく。この下で道が別れていたはず。私が閉じ込められていた場所へ通じる方とは別に、魔法陣が刻まれ封じられた木戸があるのを前に見た。でもここを通ったのは数度で、そのほとんどで私は意識がなかったから、ひどく曖昧な記憶だ。
きっとラスティがいるのも、これからバルバロスさまが向かうのも魔法陣の向こうだと思う。私はあの扉の先を知らない。そこまで歩けるだろうか。
「少し休ませてはいただけませんか」
先へ急ぎたいはずよ。バルバロスさまが嫌がるのをわかって、あえてそう言った。私から癒やしの力を欲してみせるなんて決してするものか。
「立ち止まることは許さぬ」
「……では歩きましょう、倒れ伏すまでの短い間」
灰色の目をしっかり見据えた。また風がきて、私たちの間にある明かりが揺れる。
沈黙のまま時が過ぎ、折れたのはバルバロスさまだった。
「忌々しい、歩くことすらまともにできぬ生意気な娘が我が妻とは」
ぶつぶつ呟きながら鎖製の手袋を片方だけ外し、大股でこちらに歩いてくる。私は表情を変えず、バルバロスさまを見つめ続けた。まだ妻ではないわ。今はまだ。
近づいたバルバロスさまは右腕をあげ、私の目を塞ごうとするかのように大きな手をこちらに向けてきた。男の顔が消え、視界が手のひらでいっぱいになった瞬間たまらず目を閉じた。
間を置かず額に硬い手が触れ、熱い魔力が放たれるのを感じた。身の内がじりじりと焼けるのに似た不快な熱。それでも癒やしの魔力で、悔しいけれど体は楽になっていった。
「は、魔力を喰らいおる。浅ましい体」
ふいに投げつけられた屈辱的な言葉に頬が熱くなった。否定できない自分がひどく卑しい人間な気がする。
「腹は膨れたか?」
しばらくして額から指を離しながらバルバロスさまが私に聞いてきたけれど、返事はしなかった。かわりに黙ったまま膝を折り、形だけの謝意を送った。
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