第76話 騎士たち
風に乗って、城内の喧騒が遠く届いていた。あちらこちらで混乱が起きているのがわかる。
「私を殺せばバルバロスさまはお怒りになるわ!」
あの塔での研究を知らない者には理解できるはずがない。ノースには伝わらないとわかっていても、言わずにはいられなかった。
案の定、ノースは唇を歪めて声もなく笑う。私の言葉なんて、まともに取り合っていない顔だった。
「戯れ言を抜かすな」
音もなく静かに剣が抜かれた。その先が真っ直ぐ私の首に向けられる。距離はあった。でもそれがなんになるというのか。よく手入れされた細身の剣の刀身は、魔力を帯びて薄く輝いている。
武器を軽く感じさせるという風の魔力かしら。とても避けられるものではない。ジーンが一度、大きく吠えた。
「ジーン、およし……お逃げなさい」
声をかけそっと背に触れるとジーンは驚いて跳ね、私から離れた。振り返った黒い目が、戸惑いの色を滲ませ私を見つめているのが悲しかった。
“諦めるのよ”
同時に自分の内側から声がする。もがけば恐怖が長引くだけ。それよりも諦めて、ただ立っていればいい。
“この男が終わらせてくれる”
あの剣を見て、両刃とも鍛えられとても鋭い。きっと痛いのは一瞬。塔に幽閉され死を待つより辛くない。
ああ、どうかそうでありますように。
ノースが剣を握る手に力を込める気配を感じた。小さく剣が鳴る。体は凍りつき、自分を殺そうとしている男から視線を外せなかった。怖い。諦めたって受け入れたって、死ぬのは恐ろしい。
「苦痛を長引かせたくなければ動かずにいろ」
その言葉に恐怖が頂点に達して、たまらず目を閉じた。
ラスティ。
心で強く呼んだのは彼の名前。ラスティ、ラスティ、ラスティ助けて、どうして来てくれないの。思った瞬間、胸の石が熱を持った気がして、思わず手を当てた。震える指が硬い石に触れると、心の中を吹き荒れていた恐怖は不思議と勢いを弱めていった。
マントの中、服の襟元から魔石を引き出し握ると、すぐに熱い魔力が流れ込んでくる。ラスティが手を握ってくれているみたい。私が死ぬのは百年後だって彼、言っていたわ。そう思うと、いっそう恐れは遠くなっていった。体に魔力が満ちるのを感じながら、ゆっくり目を開ける。
「最後の祈りは済んだか」
ノースは目を細め、ほんの少し腰を落とした。来る。心臓がどくどくと音をたて鳴る。できるかしら、使ったこともない魔術を見よう見まねでなんて。迷う時間なんてない。やるのよ。真似事は幼い頃母に何度もさせられた。それにラスティが私を、偉大な魔女だと呼んでくれたじゃない。
体を巡る魔力を水の力に変え、それを冷やす。凍える魔力の冷たさは、私の指先が覚えている。ノースが踏み込んで来る気配を感じた瞬間、両手を前に出して氷の壁を作り出した。
「なっ!」
水面が一気に厚く凍りつくような音と、それが破壊される重い音が一度に鳴った。割られた、恐らくノースの剣で。それを確かめるより早く、水を研ぎ澄ました刃を作り上げ二度、闇雲に放った。放ったものがどうなるかは見ない。
「魔術だと?! 貴様、イルメルサさまではないのか!」
その声を背に私は駆け出した。ジーン! と叫ぶとジーンもついて来る。わたし、逃げ切れるかしら。
「逃げられると思うな!」
魔力の気配を感じて振り返り、もう一度氷の壁を作り出した。
壁は即座に、風の魔力を受け斜めに断ち切られる。あの男、魔術の技も放てるなんて。ずるりと滑り地に落ち砕ける氷の音を聞きながら、奥から怒りに顔を赤く染めた騎士ノースが、軍衣を翻し走ってくるのを絶望を抱いて見た。速い。滲んだ涙で視界が歪む。これ以上どうしたらいいのかわからない。戦い方なんて知らないわ。ラスティ。彼の名を叫びたいのを必死でこらえながら、また前を向き走った。
「あっ!」
魔物の死体につまずいて足がもつれる。倒れ込む私の横から、黒い影が躍り出た。ジーン。私とノースの間に立ったジーンが激しく吠えはじめた。それに速度を緩めたノースだったけれど、怯んだ様子は見られない。
剣先をぶらりと下に向けたまま、ジーンを睨みゆっくりこちらに歩いてくる。あの子、殺されてしまう。なにかしなければ、なにか、なにかを。体を起こしながら必死で考えた。でも頭が混乱していて。攻撃を。水の刃、あれをさっきどうやって作り出したのだった? わからない。それよりジーンを逃がさないと。私が撫でれば、さっきみたいに怯えて離れてくれる?
「駄目!」
背に手を伸ばしかけたのに、触れる直前、ジーンはノースに向かって駆け出してしまった。私の叫び声があたりに響き渡る。その子を傷つけないで!
剣を構えるノースの右腕目掛けて無我夢中で魔力を放った。でも間に合わない、ノースの動きの方がずっと早い。
ノースが突き出した剣がジーンのお腹を貫くのを、止められなかった。甲高い悲痛なジーンの声が聞こえる。聞きたくない。
「ジーン!」
どさ、と重い音をたてて物のようにジーンが地面に落ちた。地面を這い進んでジーンのところまで行った。呼吸のたび、お腹が激しく上下して動いている。生きているけれど酷い怪我だわ。体の下から赤黒い血が流れ出し地面を濡らした。
「大丈夫、だいじょうぶよ」
震える手でジーンの体に触れると、びく、と熱い体が強張ったのが手のひらごしに伝わってきた。嫌よね、私に触られるのは。ごめんなさい、ジーン。
必死に、妹アリアルスの優しい癒やしの魔力を思い出す。ジーンに同じものを流し込み続けていると、次第に強ばりが緩んで術を受け入れてくれたのがわかった。
「貴様何者だ」
ほっと体から力を抜いた私の視界の端に、騎士の鉄靴の先が踏み込んできた。
「シファードのゲインの娘、イルメルサ」
ぼそりと答えると、剣の先が顎に当てられ顔を上向かせられた。目を細め検分するように私を眺めるノースの視線を、正面からしっかりと受け止める。
「確かに間違いなく、シファードで見た娘の顔。あのときから我々は欺かれていたというのか」
独り言のように男が呟く。今のうちにジーンの傷を癒やすのよ。ジーンの血に濡れた硬い剣先を顎の下に感じながら、必死で体の中の魔力を練って指先から送り込む。この子を治すの。
「ではお前を殺すになんの躊躇もいらなくなったというわけだ。魔力を持つお前がイルメルサさまであるはずがないのだからな」
怖い。ジーンを助けられないかもしれないことが。この男に、こんな場所で殺されてしまうことが怖い。恐怖に震えながら、必死でノースを睨み上げ口を開いた。
「お前がどう思おうが、私がイルメルサよ」
声が震えるのは隠せなかった。悔しくて、ぎゅっと唇を引き結び男を見ていると、ノースが鼻に皺を寄せ、苦々しげな笑みを浮かべた。頬の古傷が歪んでいる。
「気位の高さだけはまさしく姫君然としているが……真実がどちらにあろうがその命、ここで尽きることに違いはない」
顎に当てられていた剣が離れた。魔力はジーンの治療に使っている。ふたつの魔術を同時に扱うなんて、ラスティみたいな真似は私にはできない。ジーンへの癒やしの力を止めて、防御のための魔術に切り替える、それから、それから……考える私の目の前で、ノースが剣を掲げた。とても静かな動きだった。
「手加減はしない。抵抗したければするがいい、氷の盾ごと貫いてやろう」
そう、この男にはそれができるだろう。私に抵抗する術はない。なら、一刻でも早くジーンの傷を癒やしてこの子を逃がそう。思い、送る魔力を強めた。手袋ごしの手に、ジーンの呼吸が安定してきたのが伝わってくる。生きて。祈るように願って、ただ癒やしの力を生み出し続けた。
ノースの私を見下ろす目から感情が消える。
終わる。覚悟を決め体が強張った、その瞬間だった。
「っ!」
突然、ノースが仰け反り私から離れた。さっきまでノースのいたあたりを何かが通り過ぎていく。なに? 混乱しながら考えている間も、ノースは腕の小盾で更に飛んできたなにかを弾いていた。弾かれたものが地面に落ち硬い音をたてて回転する。あれは、短剣だわ、どこから誰が……。
「貴様!」
答えにたどり着くより早く、私の斜め後方から騎士がひとり狼のような素早さで駆け込んできた。私とノースの間に立ち叫ぶ。青の軍衣が目の前で、風を孕んで揺れた。
「この方がどなたかわかっての行動か!」
シファードの騎士。私の味方。怒気を含んだロインの声を聞きながら、涙が頬を伝う熱さを感じた。なにごとか、といいたげに重そうに頭を上げるジーンのあたたかなお腹を撫でながら、空いたほうの手で涙を拭う。
「無論。その女はシファードの送り込んだ刺客」
「なにを馬鹿げたことを」
「シファードのイルメルサさまといえば、魔力なしとして有名だ。だがその女は魔術を使う。ゆえにイルメルサさまではない」
その言葉を聞いたロインが、ノースへの警戒を解かぬままちらと振り返り私を見た。
「間違いなくこの方がイルメルサさまだ」
鎖頭巾を被った彼の顔はすぐにノースの方に戻っていく。
「ではなぜ魔術を?」
「わからない」
答えながらロインは、腰に吊った剣の柄に指で触れた。“わからない”……彼はこの間会ったとき、魔力を持つ私の手に触れている。でも事情は話してはいない。正直な言葉だわ。
「剣をおさめてくれ」
続けてロインは言ったけれど、戦わずにすむと思ってはいないみたいだった。全身で警戒をしている。ノースは納剣せず、細身の剣をゆらゆらと揺らしていた。ロインの手が柄を握る。
「あちこちで魔物が出ている。こんなところで小競り合いをしている場合ではないだろう?」
「バルバロスさまからお前を捕らえてこいと命じられている」
ノースは低い声で言って、片方の口角を上げると腰を落とした。剣身の根元に片手を添え刃を持ち上げると、切っ先をまっすぐロインに向ける。
「生死については言及されなかった。それは即ち“任された”ということだ」
口元は笑っていても、恐ろしいほど冷たい目をしていた。鎖製の手袋に包まれたノースの指が、ゆっくりと刃を包み込み握る。怖い。後ろに下がろうと私がジーンを抱えるのと、ロインが剣を抜くのは同時だった。
「イルメルサさま、動かず、お待ちを」
「その男は風の魔術を扱うわ」
伝えると、両手を使い、肩に担ぐように大きく長剣を構えたロインから、魔力が滲み出るのを感じた。刃と防具が魔力を帯びて一度淡く光って、消えた。更に足で地面に真横に線を引く動きをしてから、彼は半歩前に進んだ。それに合わせ、ノースが後退る。私はロインに言われた通り、ジーンを抱いたままその場でじっとしていた。
先に動いたのはノースだった。真っ直ぐ、ロインのお腹のあたりを狙って切っ先を突き出してくる。それを叩き落とすように振り下ろした剣で受け止めたロインは刃を合わせながら素早く距離を詰め、肩をノースの胸に打ちつけた。大きなものがぶつかり合う重い音がする。
「ぐっ!」
ノースの苦しげな呻き声。それの消えぬ間に、ロインの体がノースの胴体の下に潜り込み、相手を持ち上げ地面に投げ倒す。即座に剣を構え突き刺そうと下ろしたロインだったけれど、それは避けられてしまった。
倒れたままの状態から、ノースが私に手を向ける。魔術。風の。防御を。思った時にはすでに魔力の刃は放たれてしまっていた。
「動くな!」
ロインの声にびくりと体を震わせ固まると、地面からなにかの魔力が噴き出して現れ、風の刃を遮ってくれた。さっき、ロインが足で線を引いたところから。
「以前同じ技を見た。土の呪術か、姑息な真似を」
いつの間にかノースが立ち上がっていた。
「だがそれは一度きりの術だろう。次は守れるかな、若造」
「黙れ、老いぼれ」
緊張したロインの声に、胸の魔石を握った。次は、自分でなんとかしなければいけないんだわ。二人の騎士はふたたび剣を構え向かい合う。と、私の膝の上で寝かせていたジーンが耳をぴくりと動かし、よろめきながら立ち上がった。
「ジーン?」
傷は塞がっても、内側まできちんと治療できているかわからない。心配で見ていると、ジーンが頭を上に向け大きく一声、吠えた。上。城壁。まさか。
ぱっと目を向けると城壁の上、高く遠いところから兵士がひとり、弓を引いてロインを狙っていた。
「ロイン! 兵士が!」
私の叫びと同時に、とっ、と軽い音と共に地面に矢が突き立った。場所は的外れ。腕はあまりよくないみたい。ああでも、当たらなくともいいのね、ロインの集中力を削げれば。ただでさえ、彼は私のことも気にかけなければいけないというのに。
思った通りロインは、先ほどまでと違って今度は斬り込んできたノースの剣を受け止め、私に近づけないようにするだけで精一杯になっている。あの兵士を私がなんとかするしかない、でも遠すぎる。水の刃を作り出せても、あんなに遠くまでは……。
考えている私の前で、また兵士が矢をつがえた。
そうだわ。
ひとつだけ、攻撃を止めさせる方法を思いついて立ち上がった。うまくいくかしら。ジーンが不思議そうに私を見上げる気配を感じながら、城壁の上の兵士を見た。向こうも私に気が付いたのだろう、引き絞っていた矢をこちらに向け、誰だ? と問いたげな様子をみせてくる。
あそこからではきっと、私の顔までは判別できていない。長い、私の目印みたいな髪も、今はほとんどこのマントの下に隠れているのだ。
私は兵士の小さな顔を見つめたまま、みすぼらしい魔術師のマントを外し地面に落とす。そうして、自分を見せた。領主の婚約者である自分の姿を。
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