第75話 人目を避けて


 魔術師塔に近づくにつれ、嗅ぎ慣れないにおいがあたりに漂いはじめてきた。薬品のような、熟れすぎた果実のような奇妙なにおい。ジーンが平気な顔をしているから嗅いでも大丈夫とは思うけれど、魔術師たちのところでなにかあった証拠のみたいで不安になる。


「こっちに行っていいのかしら……あら?」


 慌てて逃げる誰かが落としたのだろう、道の真ん中に古びた焦げ茶のマントが落ちていた。逃げ惑う人たちに何度も踏みつけられたのか、汚れた足跡がいくつもついている。


 そっと持ち上げ軽く叩くと、土埃と枯れ草があたりに舞って、咳き込んだ。かすかに薬草の香りがする。魔術師の持ち物だったみたい。身を隠すのにちょうどいい。


「裾が破れてる……贅沢は言えないわね」


 文句を言いながら身にまとった拾いものでも、フードを被ってすっかり頭を隠すと安心できた。魔術師塔の方から逃げてくる人の気配がまだ時折あって、見つかってしまうのが一番怖かった。今バルバロスさまの前に連れて行かれたら、なにをされるかわからないから。でもこれを着ていれば、遠くからなら見られても私だとはわからないはず。


 持ち主は小柄だったのね、ラスティのマントより小さくて私にはぴったり。あの夜、彼が私に羽織らせてくれた大きくて暖かなマント。あれを思い出すと胸が緩く締め付けられた。ラスティ、どこにいるの。


 物思いに耽りかけたそのとき、ふす、とジーンが鼻を鳴らした。呼びかけるような音に、意識を引き戻される。遠くからまたひとり、魔術師が走ってきていた。しきりに背後を気にして、振り返りふりかえり走ってくる。ジーンに導かれるまま、手近な小屋の脇の、薪の積まれた棚の陰に身を潜めた。


 気づかれたかしら。


 大丈夫。これまでだって、みな逃げるので精一杯で、魔力が尽きている私に気づいた者はひとりもいなかった。それにこの古びたマントがある、見られていたとしても私とは思わないはずよ。

 ああでも怖いわ、ジーンに触れたい。すれ違う瞬間はいつも怖い。


「おい、お前が逃げてどうする魔術師!」


 ぴったりと壁に身を寄せ、走ってきた魔術師をやり過ごそうとしていると、思いがけなくどこかから声だけが響いてきて驚かされた。近くにもうひとりいたのに気が付かなかった、危なかった。そっと見れば、魔術師がすぐそこの脇道から飛び出してきた兵士に止められている。


「ただ事ではない! お前も離れた方がいい!」


 魔術師が殺気立った様子で叫んだ。


「なんだと?」

「命が惜しければ逃げるんだ、まっ、魔物が塔の一室から溢れ出てきている、じきにここにもやってくるぞ」


 魔術師の声音は恐怖に震えていた。魔物が、塔から。思い出したのはあの部屋での日々。何度も体に注ぎ込まれた暗く冷たい魔力を思い出して、背筋が凍る思いがした。


「はっ、魔物程度、俺が斬り伏せて手柄を立ててやるさ」

「中に奇妙なのが紛れているんだ! 魔力の弱い者がそれに触れもう何人も倒れた、兵士では太刀打ちできん!」


 最後のほうを半ば叫び言い切って、魔術師の男が駆け出す素振りをみせた。すぐに兵士が腕を伸ばし男を遮る。


「おいそう急ぐな。シファードの騎士を見なかったか? 探している」

「見た、向こうでだ、イルメルサさまの所在を聞かれた。これでいいか! 他領の騎士など放っておけ、そいつだって無事でいられるかどうか。お前も行けば死ぬぞ!」


 魔術師と兵士の危機感の温度差は激しくて、それがかえって現実感を与えてきた。なにかが起こっている。なにか、恐ろしいことが。


「俺は臆病者じゃない。魔術師とは違う。目当ての男を目前に尻尾を巻いて逃げられるか」

「好きにしろ!」


 今度こそ、魔術師は兵士を振り切って走り出した。こっちに来る。壁にぴったり身を寄せ、息を殺してじっとした。そうしながら頭の中で、今の話を整理する。


 ロインが私を探している。なぜ魔術師塔の方へ行ったの? まさか、私がたびたびあそこへ連れられて行くと知っていた? それとも私がここに導かれたみたいに、人を避けたら足が向いただけ……?

 考えていても仕方がない。怖いけれど、ロインが近くにいるのなら行かなければ。騎士ノースが追っていると教えて……それにエマリィも塔にいるはず。


 シファードの者がふたりも。


 く、と顔を上げ空を見た。午後の柔らかな光を含んだ青い空が暗い城の間から覗いていた。同じ空を今頃父も見ている。確信に近い気持ちでそう思った。


 胸の石を服の上から握る。ラスティ、力を貸して。

 歩き続けられる程度の魔力を魔石から補充した。最低限でいい、魔物がいるのなら魔力はないほうが見つかりにくいから。


「行ったみたいね……いきましょう、ジーン」


 人の気配が消えてからもしばらく待って、それから足元のジーンに語りかけた。ジーンはぶるぶるっと体を震わせて、なんでもない顔で歩きはじめる。いつもの散歩に行くみたいに。


 この子がいてくれて良かった。ひとりだったら、この安全そうな暗がりから永遠に一歩を踏み出せなかったかもしれない。


 ◇◇◇


 魔術師塔に近づくにつれ、道は不穏な様相を帯びてきた。魔物の遺体があちこちに落ちている。鷹、犬、兎……だらりと舌を伸ばして倒れている二匹の狼の横を通るときには、怖くて顔を背けた。その側には血の跡が点々と続いている。これと戦った者は傷を負ったのかもしれない。


 ひとが倒れていないだけいいわ。ひとが死んでいるのは見たくない。そう思った時だった。ジーンが突然駆け出した。


「ジーン!」


 思わず叫んでから、手を口で押さえた。誰かいれば気づかれる。がさ、と音をたて茂みのひとつに飛び込んだジーンの、なにかと格闘してあげるうなり声が、私のいるところまで響いてきた。恐怖で足が竦む。なにがいるの。

 声に合わせ、濃い緑の葉の茂みが大きく、ときに小さく揺れた。怪我をしないで、お願いよ。


 しばらくすると静かになった。うなり声も、茂みの揺れも今はない。私はなにもできず、馬鹿みたいに立ち尽くしていた。握る手のひらに汗が滲む。行かないと、行ってジーンが無事か確かめるのよ。思った瞬間茂みが揺れた。


「……よかった」


 口に大きな焦げ茶色の蛇をくわえ、その尾を地面に引きずり出てきた黒い犬を見て、ほっと息をついた。足早に近づくと、ジーンは誇らしげに口を開け蛇を地面に落とし、私を見上げる。


「それ、もう動かないわね? 偉いわ、ありがとう」


 ほめると、ジーンは嬉しそうにぱた、としっぽを振った。でもほんのひと揺れでやめてしまう。視線も私からそらして――。


「魔物か、仕留めたか」


 後ろから声が。体が硬く強張った。まだ距離はある。


「魔物だろう、その種の蛇はこの辺りでは見かけない――その黒い犬は」


 がちゃ、と鎧を鳴らし近づいてくるのが騎士ノースだと、振り返らなくてもわかった。ついさっき声を聞いたばかりだもの。

 ノースも犬がジーンだと気が付いたようだった。足音が止まる。つまり、私にも。


「顔をこちらに」


 ほら、声色が少し変わった。不遜なものから、疑いが滲んではいたけれど丁寧なものに。私の胸の鼓動も速さを変える。


「こちらを向いていただけるか」


 まだ距離はあるわ、でも走って逃げたところで、すぐに追いつかれてしまうに決まっている。ジーンが時間を稼いでくれても……万が一この子を斬られでもしたら耐えられない。ジーンを逃がして、それから……それから。


「イルメルサさま」

「お父さまの騎士は見つかって?」


 つん、と顎をあげマントのフードをおろしながら振り返った。怯えているのを悟られたくない。本当は耳の中に心臓があるみたいにどくどく音をさせているのに。


 ノースは、深く皺の刻まれた頬をぴくりと動かして凄みのある笑みを浮かべた。


「何故おひとりでここに? ご覧の通りここは魔物がおりますゆえ、バルバロスさまのところまで、お――」

「質問に答えなさい」


 騎士の言葉を遮って冷たく言った。気弱な様子を見せては駄目。そうは思ったけれど、誰もいないこんな場所で、私をよく思っていないだろう騎士に楯突くには、ありったけの勇気をかき集める必要があった。


 ノースはぎゅっと口を閉じ、表情の読めない顔で私をしばらく見つめた。男がなにも言わないので、私も黙って彼の目を見返す。暗い、探るような目。私を疑っているんだわ、ガウディールの、バルバロスさまの害になる者なのかどうか。


「後ろ姿だけ。あの素早さはまるで狐だ」


 なにも面白くないのに、ノースはそう言って目を細め笑った。そう、ロインはまだ捕まってはいないのね。


「ご安心なさいましたか? ではよろしければこちらの問いにもお答えいただきたい。なぜおひとりでおられるのか」

「どこへでも行け、とバルバロスさまがおっしゃったからよ」


 じっと顔を見つめ嘘をついた。この男は信じないだろう、けれど私の言葉を嘘だとも言えないはずだわ。


「それは、ここまでご不安でおられたでしょう。しばらくすればバルバロスさまのお怒りもしずまるはず。それまでお守りいたします」

「必要ありません」


 男の強い視線から目をそらし短く答えた。先へ足を進めようとした私の耳に、低い声が届く。


「この道より先では既に何人も事切れている、ご覧になられない方がよろしいかと」


 嘲る声の調子だった。悔しいのに、人が死んでいると聞いた私の足は、凍りつき動かなくなる。


「この先に向かわれなにをなさるおつもりで……あの騎士となにか示し合わせておいでで? まさか、この魔物の群れはシファードの者が領内に放っ」

「お黙り!」


 かっ、と頭に血が昇り叫んだ。シファードを疑うなんて、しかもそれを私に向かって口にするなんて。


「これほど多くの魔物を連れ歩く術など聞いたこともない。もしお父さまが知っていたなら、必ず国王陛下にお伝えし、臣民の知るところとなっているはず」


 声が屈辱で震える。脳裏に浮かぶのはこれまでガウディールで見聞きした色々なことだった。付近で近ごろ急に増えたという熊の魔物。研究にと用意されていた可哀想なたくさんの生き物たち。私の胸の上で崩れていった中に、鷹も蛇もいた。


「さっき魔術師が言っていたわ、魔物が魔術師塔から溢れてきている、と。魔物を生み出しているのはガウディールよ。寄り集まって汚らわしい魔術を繰り返しているのはお前たちじゃない!」


 言い終わってからやっと、ノースの視線が恐ろしく冷たいものに変わっていると気が付いた。息をのんで一歩下がる。ジーンが低く唸る声も聞こえてきた。


「汚らわしい? 汚らわしいのは魔力も持たぬ魔物以下のその身だろう。それをバルバロスさまの奥方と迎え守らねばならぬこと、どれほどの屈辱を持って耐えねばならぬと思う。いっそ病に倒れてはくれぬかと」


 独り言のように呟きながら、こちらに足を踏み出してくる。


「止まりなさい」

「夜毎天に祈り……その結果の今であるのか」


 男の視線が地に倒れた魔物のいくつかの上を走った。その考えは手に取るようにわかった。混乱の中ひとり出歩き、何者かに殺された哀れな姫君。

 ノースの手が上がり、腰の剣の柄に触れる。それに反応したように、ジーンの唸り声が迫力を増した。ちらと見るとジーンは身を低くして、いつでも飛び出せる体勢になっていた。駄目よジーン、斬られてしまう。

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