第77話 合流
狙いどおり、城壁の上の兵士は私が姿を見せると矢を射るのを止めた。領主の婚約者であり、シファード領主の娘である私に傷を負わせるかもしれないのだもの、できるはずがない。
「構わん! 射れ!」
でも騎士ノースの怒鳴り声に、いつ気が変わらないとも知れない。
「イルメルサさま、お下がり、ください!」
ロインの声に振り返ると、ふたりは剣を交えたまま顔を突き合わせるほど近くで睨み合っていた。ノースもロインも顔を赤くして、力比べをしているみたい。刀身が小刻みに震えているのが、加わっている力の強さを伝えてきた。
今なら私の魔術でロインに加勢できるかもしれない。そう思ったのに。
「うおお!」
低く唸る獣のような咆哮と共に、突如額をロインにぶつけたノースが膝を上げた。蹴りを察知したのかロインは剣を引くと、握る柄でノースの胸を殴り相手を突き飛ばす。土埃が舞う中、私もふたりと距離をとった。
騎士たちはすぐにまたどちらからともなく近づくと、剣を交えはじめた。動きが速い。加勢するなんてとても無理だわ。邪魔にならないところで離れ祈ることしかできない。
なにか他にできないの。
考えようとしたとき、ジーンが吠えはじめた。まさかまた、兵士がロインを狙いはじめた?
「えっ?」
不安から城壁に視線を向けると、壁を這う黒いものが見えた。黒い石を使ったガウディールの城壁よりなお暗い影に似たそれは、伸び縮みして進み、兵士の立つ回廊に消えていく。そして……。
突然悲痛な叫び声をあげた兵士が、城壁の内側に倒れ消えた。ジーンはなおも吠え続けている。今のは、闇の魔力を注がれた生き物の最後のかたちに似ていた。大きさこそ小さかったけれど、ラスティと庭で見た小熊の。なぜあんなものがあそこに?
「ああ!」
叫んで手を口にあてた。黒い影が再び姿を見せたから。それは城壁の上に這い上がると、苦しみ悶えるようにぶるっと体を震わせ、音もなく下に落ちてきた。
ジーンは腰を引き尾を丸め、かわいそうに恐ろしいのか、狂ったように吠えている。その声は城壁にぶつかって反響し、あたりに広く響き渡った。
「魔物、魔物が」
つぶやきながら、血の気が引いていくのが自分でもわかった。もしあれの魔力がここまで流れて来たら。私は逃げられる、でも体の大きなロインが動けなくなれば、私には運べない。
「ロイン! ロイン! ここにいてはいけないわ!」
後ずさりしながらロインに顔を向け叫ぶと、そのせいでロインの意識が逸れ、彼に隙ができてしまった。ノースが素早く距離を詰める。
「ロイン!」
的確に喉元を狙い突き出された剣を、ロインはすんでのところで体を捻ってよけた。下から振り上げた剣でノースの剣を弾き離れ、体勢を整える。そんなロインに、ノースは片方の口角をゆっくりとあげ、侮りの見える笑みを向けた。
「戦場で気を散らすとは。長生きできんぞ」
「イルメルサさま、すぐに片を付けます。しばしお待ちを!」
「は! 片付くのは貴様らの方だ!」
ふたりともまだ気が付いていない。あれの魔力を感じているのはきっとまだ、ジーンだけ。けれど感じ取ってからでは遅いのよ。
「恐ろしい魔物がいるの! 争っている場合では……」
そこまで言った時だった。ジーンが突然吠えるのをやめた。息をのんで振り返る私の足元を、見えない霧みたいなひんやりとした冷気が撫でていく。
「ジーン!」
なおも戦い続けているふたりの音を背に、城壁の方を見つめたまま動かなくなった犬の名を叫ぶ。動けないのかもしれない。急いで近づき首に触れると、びくりと体を震わせ飛び退いて私から離れた。
「いいのよ、逃げて、ジーン」
困惑の滲む黒い目が私を見上げている。わき腹には、ほとんど治りかけているとはいえ、傷あとがまだはっきり残っていた。かわいいジーン。大好きよ。
ぎゅっと下唇を噛んで、足元を這う魔力を体に取り込んだ。馴染みの魔力は、布が水を吸うように私の中に入ってくる。ああ、気持ちの悪い冷たい魔力。ラスティの魔力と大違いだわ、大嫌い。ジーンが嫌うのも当たり前ね。ほら、もう身を低くして唸りはじめて。
唸られるのは悲しかった。でもジーンを失うかと思ったとき、とても恐ろしかったから。この子を生きて逃がすためなら耐えられる。自分の心に言い聞かせながら、身の凍る冷たい魔力を身のうちに取り込んだ。
「お行き」
手を伸ばし大きく一歩近づくと、ジーンは怯えた様子をみせ素早く駆け出し去って行った。姿は追わずすぐにうしろを振り返る。時間がない。
「ロ……」
ロイン! 呼ぼうとして言葉を飲み込む。さっきはそれで危うく彼の喉を突かれるところだったのだ。
ロインは額から血を流しながら、それまで私に見せたことのない鋭い目をして戦っていた。
敵の腹部を狙い横に振られたロインの剣は、後ろに大きく跳んだノースに避けられた。あの男、きっと風の魔力を纏っているのだわ、年齢に見合わない身軽さだもの。
恐らく剣の腕は互角、そして魔力は明らかにノースの方が勝っていた。だからかもしれない、
「……なんだ」
最初に異変に気が付いたのはノースの方だった。剣を構え顔はロインに向けたまま、戸惑いの表情を見せ視線をあたりに彷徨わせている。
「なんだ、これは」
「どうした老いぼれ、戦場で気を散らすな!」
ロインはその隙を逃さない。剣を打ち込み続け、ノースを追い込んでいった。
「くそ、っ、体が……!」
流れてくる魔力が濃くなるにつれ、ノースの動きが目に見えて鈍くなっていく。それなのに、ロインの動きはさほど変わらなかった。彼はラスティの洞窟の中でも平気な顔をしていたもの、魔力に影響を受ける力がノースより鈍いんだわ。
最後の瞬間、長剣を振りかぶったロインを前に、切っ先を地に向けていたノースには、もうそれを持ち上げる力がないように見えた。足元を流れる魔力はますます濃度をあげていた。きっともう、あれは近くまで来ている。
咆哮をあげ剣を振り下ろすロインから、顔を背け目を閉じた。なにかを殴りつける鈍い音に、重い物が倒れる音が続いた。はあ、はあと大きな呼吸音、これはきっとロインの。
「終わりました」
声と同時にガシャリと重い音が聞こえ目を開けた。そこにはうつ伏せに倒れたノースを前に、片膝を地面につき、剣を地に突き立て体を支えるロインの姿があった。
「ロイン!」
「……急に、力が……」
「魔物よ、魔物がいるの」
同じ言葉ばかり、馬鹿みたいに繰り返していると思いながらロインに駆け寄りその腕に触れた。倒れているノースを一度だけ間近で見る。首が不自然な方向に曲がっているのがわかって、すぐ視線をそらした。
「向こうの城壁の方にいるわ、さあ、立てて? ここから離れましょう」
「魔物? こんな、こんな魔力はこれまで経験がありません」
「それは、こ……」
ここ、ガウディールで生み出された。そう口にしかけた瞬間、左足の小指が疼き、鈍い痛みを感じた。気がついて青ざめる。バルバロスさまと交わした魔術契約書。
“シファードのイルメルサがガウディールの魔術研究についての一切を領外に口外せぬこと”――一切を。
「イルメルサさま?」
「なんでもないわ、とにかく、ここを」
早く。ぐい、と腕を引いてもロインは動かない。どうして。
「ロイン、さあ、立って」
「イルメルサさま、力が入りません、私を置いてお逃げください」
「なにを言うのロイン、いやよ」
否定しながらも、背後から濃い霧のように魔力が迫ってくるのがわかった。とても冷たい。冬が戻ってきたみたいだった。
振り返ると、奥で茂みが揺れていた。そのたびにはらはらと、常緑のはずの葉が落ちていく。もうあんな近くまで。どうしたらいいの、ロインを置いては行けない。
「私に捕まって」
言って体を近づけてみたものの、鎧を着たロインの体を支えるなんてできるはずがないのは自分でよくわかっていた。
「は、情けない。ようやくイルメルサさまを見つけられたというのにこれでは、あの魔術師になにを言われるか」
と、顔のそばで自嘲じみたロインの声がした。顔を上げると目があった。あの魔術師というのは、ラスティ? そんな疑問が顔に浮かんでいたのかもしれない。ロインが小さく頷いた。
「近々ゲインさまが来られるのはわかっておりました。それに合わせあの魔術師が騒ぎを起こすので、私がイルメルサさまをお守りすると、そういう手筈に。まさか今日に限って自室におられないとは」
「騒ぎ? これはラスティが起こした騒ぎなの?」
魔物を放つなんて……こんなひどいことを彼がするとは思えない。彼は生き物が好きなのよ。怪我をした動物を放っておけない人なのに。
「わかりません。火を使うつもりだ、とは聞いておりましたが」
「火なんて……」
戸惑いながら空を見た。幾筋かの黒い煙は見えたけれど、大きな火災が起こっている様子はない。胸騒ぎがする。予期せぬなにかが起こってしまったのでは?
「ラスティやエマリィとは、どこかで合流する予定はあるの? さ、少しでも離れましょう」
肩をロインの胸の辺りにあて、両腕を腰にまわした。ぐ、と、力を入れてもロインの体はびくともしない。重いわ。とても重い。
「それぞれが、ゲインさまを、目指すと……」
いつの間にか、彼の声からも覇気が失われている。
「お父さま……もう近くまでいらしているかしら」
「イルメルサさま、どうか、ゲインさまのもとまでご無事で……」
「あっ!」
ロインが剣から手を離した。支えられない。がちゃ、と重い音をたてロインは地に臥してしまった。
「ロイン! 駄目よ、私ひとりでは行けない」
どうしよう、どうしたら。なにか助けになるものはないかと辺りを見回した……なにもない。倒れたロインに息絶えた騎士、そして近づいてくる魔物の気配――。一番近くの茂みが揺れる。魔物が、来る。
ロインを背中に庇い、前に出た。と。
「イルメルサさまおさがりを!」
聞き覚えのある、懐かしい声がした。女の子の声。それと同時に、私の近くになにか黒いものが投げ込まれ、地面に激しくぶつかって硬い音をたてた。そこから、熱い魔力が広がって辺りを包む。これは、これはラスティの魔力だわ。
茂みの向こうの気配が薄くなった。ラスティの魔力が、冷たい魔力を押し返していく。
「ロイン! しっかり!」
振り返ると、いつの間にかガウディールの召使いの衣服を身につけたエマリィがそばにいて、ロインの頬を叩いていた。ロインは呻きながらゆっくり首を振って、意識を取り戻した。
「イルメルサさま、もし私たちがここを去る前に魔力が薄れたら、もう一度これを地面に叩きつけ割ってください」
ロインが身を起こそうとするのを手伝いながら、エマリィが私に手を差し出してきた。そこに握られているものがなんなのか、見なくてもわかる。
「ええ、わかったわ」
受け取り強く握るとじわりとあたたかい。ラスティの魔石。
「それが最後のひとつなんです」
ラスティがエマリィに持たせたのね。彼の優しさが形になったみたいで、胸が痛くなった。
「ラスティに会ったのね? 彼は無事? すぐ近くにいて?」
ロインを支えるエマリィを手伝うために近づきながら立て続けに聞くと、エマリィは小さく首を横に振った。
「わかりません。この石は何日も前に渡されていたもので、今日は姿を見てはいないので」
「でも、お前は魔術師塔から来たのでしょう?」
「ほとんど閉じこめられていたので……これまでお役にたてず、申し訳ありません」
視線を下に落として弱々しく謝罪するエマリィを、元気づけたいと思った。彼女の顔をのぞき込んで目を合わせ、口角をあげ笑って見せる。
「なにを言うの。お前がガウディールにいてくれると思うだけでどれだけ心強かったか」
「イルメルサさま……」
「さあ、早くここから離れましょう。ラスティにも会えるといいのだけれど」
ロインの腕に手を添え言うと、脇にいたエマリィが困惑した顔で私を見た。
「魔術師ならば私がおります、イルメルサさま。ロインも、この魔力から離れればすぐに回復いたしますから」
「お前たちでは不安だと言ったのではないのよ」
話している間にも、あたりに満ちていたラスティの魔力が少しずつ薄れていく。それにつれ、私の中の不安が増していった。
「ただ……心配で。いやな予感がするの……」
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