第70話 揉め事の種


 ずっと座って待っているのに、ロインがなかなか戻ってこない。こんなに遅いとわかっていたら、寝台に横になって休んだのに。あてもなく待つって、疲れるのね。

 窓の外に見える狭い空は、ほんのり赤く染まりはじめている。山の方から、鳥がギャアギャアと鳴く声も聞こえてきていた。もう、じき夕刻になる。小さくため息をついて、ただ開いて膝に乗せていただけの本をそっと閉じた。


 カラルが部屋に入ってきたのは、ちょうどその時。軽く膝を折ったこの召し使いは、私の手元のあたりをじっと見つめながら口を開いた。


「至急お伝えしたいことが。シファードの騎士が負傷し、魔術師塔に運ばれておりました」

「負傷?」


 聞いてすぐ血の気の引くのがわかった。立ち上がると足がよろけ、慌てて肘掛けをつかむ。本が床に落ちる音がした。


 ロインの剣の腕は一流よ、それにラスティとジーンもいたのに傷を負ったなんて。


「なにがあったの、ひどい怪我を?」


 声が震えるのを止められなかった。驚く私を見たカラルが、目を細め嘲りの滲む笑みを口元に浮かべる。


「お忘れですか、魔術師が同行を。傷は治癒を施され癒えております」

「なら、さっさとそうおっしゃい!」


 いくら有能な魔術師でも、手足が落ちれば治せない。そういう取り返しのつかない怪我をしたのかと思ったのに。違うのなら良かった。


「ただ、魔物による咬み傷ですので。念のため魔術師塔で追加の処置を受けておられまして、こちらにいらっしゃることが出来なくなりました」

「魔物が出たのね……花など頼まなければよかった」


 ぽつりとつぶやいて、また椅子に腰掛けた。やけに鳥が騒ぐなと思っていたのよ。


「狼の魔物の群れに囲まれたのだとか。城に入り込まれる前に始末でき幸運でした」

「私の……故郷の者が傷を負ったのに幸運ですって?」


 失礼にもほどがある。むっとして責めたのにカラルは謝りもせず、そ知らぬ顔で小さく肩をすくめて見せてきた。


「屈強な騎士が居合わせてくださって幸運だ、と申し上げました」

「そうは聞こえなかったわ」


 カラルはこれ以上この話を続ける気がないようだ。彼女は黙って床に落ちた本を拾うと、埃を払う仕草をしてから、手近な棚の上に置いた。どこか気詰まりな沈黙が流れる。


 それを破ったのは突然の犬の声。外から風に乗って、何匹もの犬の吠え声が響きはじめ、耳に届いた。


「血のにおいに寄ってくる獣や魔物に警戒が必要でしょう。兵士たちが出るようですね」


 獣や魔物。不穏な響き。


「私がガウディールに来てから、物騒なことばかり」

「ちょうど、あれらの動きはじめる時節でございますから……もうご婚礼まで日も近いのです。揉め事の種がひとつ取り除かれた、と思えば、お気持ちも明るくなられるのではございませんか?」


 揉め事の種……確かに。


「そうね、城の近くに魔物がいたままだったなら、お父さまたちの道中が危険になっていたのだもの。あとでみなを労ってあげて」

「イルメルサさまにお褒めいただければ、みな喜びます」


 喜ぶなんて。私もカラルもちっとも思っていやしないのに、私たちはほんのしばらく視線を合わせ微笑み合った。


「そういえば、ロインを案内させた魔術師は戻ったの? 魔術師と――彼の犬は」

「はい。かすり傷ひとつなく戻って参りました」

「そう」


 安堵感を悟られないよう短く返事をしてから、ふと思いついて言葉を足した。


「その者をここへ呼べて?」

「魔術師ラスティをでございますか?」


 カラルが少し驚いた声を出した。そんなに突拍子もない頼みだったかしら。


「ええ。それと彼の犬をね。ロインを救ってくれた礼を言いたいの」

「平民の魔術師にイルメルサさまが礼など……」


 あまり食い下がると変に思われてしまいそう。あと一度言って駄目なら諦めないと。


「本当はね、聞きたいのよ。あの男は司祭さまとお話できたようだから。フラニードが亡くなったでしょう、司祭さまがどんなご様子なのか知りたくて」

「まあ……」

「お前は今日、司祭さまには」

「いえ、今朝は広間にも来ておられなかったそうですのでなにも」


 そう答えるカラルの気持ちが、ラスティを呼ぶ方に傾いているのが手に取るようにわかった。オースン司祭さまがどういった心境でおられるかわかれば、バルバロスさまに伝えられるものね。私や、バルバロスさまに恨みを募らせておられるかもしれないのだから。


 ひとつ取り除いても、またひとつ揉め事の種。そう思ってから、自分がフラニードを揉め事の種と感じていたのだと実感した。

 もしかしたら、バルバロスさまもそう思われたのかもしれない。


 私が女主人となったあと姿をあらわさなくなれば、フラニードの思い上がりは際限なく膨らみ続けそうに見えたもの。ガウディールの秘密、私の手を見たともなればなおさらだ。

 その考えはなんというかとても、腑に落ちた。婚礼の前に揉め事の種をひとつ取り除いた、バルバロスさまにとってはそれだけのこと。邪魔と思えば司祭の姪でも殺す男、じきに私はそんな男の妻になるのね。



 ◆◆◆



「どいつもこいつも、あっちにこっちにと人を呼びつけ何様のつもりだ」


 うんざりした顔のラスティが部屋にあらわれたのは、彼を呼びに行かせてからいくらもたたないうちだった。珍しく疲れた顔をしている。


「じきここの女主人になる者のつもりよ。さ、そこに座って。お茶と食べ物を用意させたの。ジーンはこちらにいらっしゃい、あなたには肉があるのよ」


 来てくれないかとも思ったのに、来てくれた。それが嬉しくて、カラルもいるのについ軽口をたたいてしまった。

 足元に置いた皿を手で押すと、ジーンは小さく息を吐く音を立ててから足取り軽く近づいてきてくれた。私を見上げてから皿の肉にかぶりつく。撫でるのは、まだよしておこう。


「ロインを助けてくれたとききました。感謝します、魔術師ラスティ。花のことで迷惑をかけたわ」


 ジーンを見下ろす目の端に、近づいてきたラスティが小さな組み立て式の円卓を挟んで座るのが見えた。ぎし、と椅子が音をたてる。体の大きな彼にはここの椅子は小さいかもしない。


「あの男は、この犬を庇って咬まれた。治療するのは当然だ」

「まあ、そうだったの。ジーンを助けてくれたのね、ロインは。ロイン……彼は無事なのでしょう?」

「肉体は。ただ魔物の牙が腕の深くまで達していた。俺の見たところ問題はなさそうだが、深夜近くまで魔力の濾過を受けさせることになった。客人だからな、念のためだ」

「そう……」


 そう聞いても、元気な姿を見られるまでは心配だわ。


「治癒の得意だというシファードの魔術師もついている。心配ない」

「エマリィが? それなら安心ね」


 顔を上げ明るく答えると、ラスティと視線がまっすぐにぶつかった。彼が部屋にいてくれている。嬉しくて微笑みかけたいのに、ラスティの背後にお茶を用意するカラルの背中が見えて。彼女がいつ振り返るかわからない。それにきっと聞き耳も立てている、気は抜けないわ。


「みな無事でよかった。そういえばさっきあなた、あっちにこっちにと言っていましたね」

「ああ。領主にモルゴー、続けてここだ、馬番にも呼ばれている」


 卓の上に湯気のたつお茶の注がれた器がふたつ置かれた。香草の香りが漂う。脇にはたっぷり蜂蜜の入った器もある。それに、干しいちじくにぶどう、パンとチーズ、くるみを使った焼き菓子。


「馬番ならそう急ぎの用でもないわね。昼を食べ損ねたでしょう、ここで食べてお行き」

「助かる」


 ぼそっと言うのと同時にラスティは皿に手を伸ばしてきた。空腹だったのね。と、チーズを掴んだ彼の手が止まった。


「毒味の子供には食わせなくていいのか」

「あの子には先に与えて下がらせたわ。あれはお前が怖いのよ」


 話していると、ラスティを呼んだと知った時のあの子の顔を思い出し、ふ、と口から笑いが漏れた。途端ラスティにじろりと睨まれる。


「で?」


 ラスティは蜂蜜の入った器に指を掛け自分の方に引き寄せると、木の棒で蜜をすくい上げながら低い不機嫌そうな声を出した。


 で、って?


 なんのことかわからず、黙って彼を見つめ返す私に痺れを切らしたのか、彼は言葉を続けた。


「本当は、なんの用で俺を?」


 そう言ってラスティは、垂れるほどたっぷりの蜂蜜を乗せたチーズを口に放り込む。空いた手はすでにパンに伸びていた。肉も用意してあげればよかった。


「礼を言いたかったのが一番なのは本当です。でも――司祭さまのご様子についても聞かせてもらいたくて、お前を呼びました」

「またその話か」

「また?」


 ラスティが大きく口をあけパンをかじった。話して欲しくても待つしかなくて、私も熱いお茶を一口飲む。美味しい。濃い草の香りが広がって、ラスティの庭を思い出した。


「領主に呼ばれたのもその話だったからな」

「バルバロスさまが……」


 お茶を眺めながらラスティの口が空になるのを待っていたら、急に話が進み出して驚いた。


「そこの女が、早速領主にたれ込んだんだろう。戻るなり呼びつけられた」


 お茶の器を手に取りながら、頭を動かして後ろのカラルを示している。当のカラルはいつも通りの無表情で、蓋を持ち上げ水挿しの中を確認していた。


「たれ込むなどと、人聞きの悪い。私はただ、知り得た事実をご報告申し上げているだけです」


 つんと澄まして悪びれる様子もない。口を挟むな、と注意しようと口を開きかけたけれど、ラスティに呼ばれ視線も意識も彼に引き寄せられた。


「イルメルサさま。自分が恨まれているかと気にしているのだろうが、心配はない。むしろ司祭は、お前たちが自分への心証を悪くしているのではないかと気に病んでいた」

「私が司祭さまを?」


 司祭さまとは婚約式以来、ほとんど交流はない。どう悪く思えというのだろう。


「気がついていないのか」


 首をひねって考え込む私を、ラスティは呆れた様子で目を細めて見てきた。それから茶器を卓に置くと、おもむろにローブの袖口に手を入れなにかの包みを取り出した。柔らかそうな質のいい亜麻布に包まれている。ラスティの私物とは思えない。


「司祭にこれを渡された」

「なんです?」

「今朝司祭に呼ばれ、花と香油を頼まれたほか、内々にこれを埋めてこいと言われていた」


 包みを乗せた手をぐいと差し出された。中を見ろというのね。なにかしら。少し怖い。ごくりと唾を飲み込んでから、恐る恐る布の端を指でつまみ、包みを開いた。

 一番に目に入った色は銀。銀色の、葡萄の髪飾り。


「この髪飾りはフラニードにやったものよ」


 脅し取られたも同然だけれど。司祭さまはこれを副葬品に選ばれたの?


「これらは、あの女の私室にあったものだそうだ。では、他のものに見覚えは?」

「ほか……?」


 言われよく見ると、髪飾りの下にさらに他の色が見える。


 髪飾りを持ち上げると、小さく畳まれた淡い桃色の薄い絹の布が出てきた。金糸の刺繍の施されたもの。これは私のだわ。夏に身につけるものだから無くなっていると気がつかなかった。布の上には見慣れない金の指輪がひとつ、それに装飾用の濃い青の硝子玉がいくつか。金の縁取りがあって質がいい。この色合い、これには見覚えがある……。


「イルメルサさまの靴を飾っていたものではありませんか?」


 近寄ってきたカラルが、眉間に皺をよせ、品物を睨みながら言った。


「靴……? そういえばそんな飾りを縫いつけたものがあったかしらね……」

「ございましたとも。飾りが取れているので修理に出すようにと、私がフラニードに言って職人の元まで運ばせましたもの!」


 珍しく憤慨するカラルを横目に、更にラスティは桃色の絹の間に指をいれ持ち上げて見せてきた。いびつな形の、小さな白い玉がひとつそこに隠されていた。薄暗い部屋の中でも淡く滑らかに輝いて見える。真珠。


「これもお前の持ち物か?」

「真珠は……シファードから持ってきた薬箱にいくつか入っていたはずです」


 答える唇が震えた。盗まれていた。どれも、そうたいしたものではないけれど、私から盗めると思われたのが無性に腹立たしい。ここまで侮られていたなんて。


「指輪は私のものではありませんが」

「モイラさまのもので間違いございません」


 カラルが力強く言い切った。


「少し前に、モイラさまの部屋付きの女中がひとり、盗みを働いたと指を落とされ城を出されているのです。あのときなくなったのは、内側に紫水晶の埋まった金の指輪と聞いています」


 全員の視線が指輪に集まった。ラスティは空いた手で指輪をつまみ上げると、それを私の目の高さまで持ち上げ見せてきた。内側に、暗く濃い紫の石。


「フラニードは城を去る女に声を掛け、手ずから作った焼き菓子を持たせておりました。まさか、こんな。お仕えするご一族の品に手をつける者だったとは、なんという恥知らずな」


 私に毒入りの菓子を運んでおきながら、フラニードの盗みに怒りを向けるカラルはひどく奇妙に見える。


「仕える主人の婚約者に手を出す女だ、主人の荷にも手を出すだろう。盗人と知っていながら目を光らせておかなかったお前が愚かなだけではないか」


 ラスティが静かに言う。

 愚か、と指摘されたカラルの耳がさっと赤く染まった。恐ろしい目つきでラスティを見ている。


「お前、お前のような生まれの者に侮辱されるいわれは」

「およしカラル。これは私が呼んだ客人。それに、司祭さまの姪に盗まれたものを並べた前で人の生まれを断じるなんて、馬鹿げている。そうは思わなくて?」


 私の言葉に反応したのはラスティだった。くくく、と押し殺した笑いを低く響かせながら、包みを卓の上に置いた。

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