第66話 あと百年


「していない」


 私の足元に跪いたまま、ラスティが言った。


「俺はおれの意志でここにいる」


 はっきりとした嘘のない声の響きに、ずっと心に飲み込んで蓋をしていた重い気持ちが消えていくのがわかった。森に不法に住んでいると知られたうえで父に命じられたのだ、嫌でも断れなかっただろうと、ずっと気になっていた。


「ほんとうね?」

「ああ」

「私も同じよ、後悔なんてしていない。嬉しいの、は、はじめて……初めて口付けされたのが、あなたで」


 はじめて、と口にするのは恥ずかしかったけれど、ラスティに伝えたかったから頑張って喉から声を絞り出した。ただ顔は見られなくて、言ったあと手に持った布ばかり見てしまって。刺繍、ほつれてないわ。良かった。急いで刺したけれど、今みてもうまくできている。


 ふっとその刺繍に影が落ちて、反射的に顔をあげると立ち上がったラスティがいた。眉根を寄せ、私を見下ろしている。


「婚約式を済ませているんだろう?」

「バルバロスさまは私に触れなかった」


 今まで誰にも言わずにきた秘密。それを彼に教えた。


「口付けるふりだけ。司祭さまはお気づきになられたかもしれないわね。ほっとしたけれど悔しくもあった。目を閉じて開けたら、私をまるで汚いものを見る目で見ていたの。私こそ、そうしてやりたかったのに」


 話していると、あのときの気持ちが蘇ってきた。ほんの少しの安堵と、屈辱、怒り。あの夜、聖堂はとてもとても寒かった。バルバロスさまは薄着の私を気遣いもせず、暖かそうな毛皮を羽織り横に立っていた。惨めだったわ。


「イルメルサ」


 ラスティに手を握られ、意識を引き戻された。指の痺れを感じて見ると、指先の色がまた少し濃くなり黒い範囲が広がっている。慌てて彼の手を振り払い、布から手を離し立ち上がった。椅子が床を擦り不快な音を立てる。


「触っては駄目」

「大丈夫だ、手を」


 なだめるように言ったラスティの差し出した手はとても温かそうで、見ているだけで泣きたくなる。ラスティはゆっくり手を伸ばし、胸の前で握り込んでいた私の指に触れ、開かせた。彼の手、やっぱり温かい。


「魔力を送ろう。今夜ならありったけお前に俺の力を詰め込んでも誰にも文句は言われない」


 私たちは向かい合って、手を握りあった。上向けた彼の両手に私の手を乗せて。熱い魔力が流れ込んでくる。まるで川の流れに身を浸しているみたい。


「私でも魔力を持てると、知られてしまうわね」

「どうかな、魔術師たちは誰もお前に触れたがらないだろう……俺以外」


 思わせぶりな言葉に彼の顔を見上げると、ラスティと目が合った。その彼の赤銅色の目が、迷うように揺れた。


「初めて触れさせたのが俺で、後悔していないか」

「してないわ」


 どうして信じてくれないのだろう。疑問を抱いた瞬間、ラスティの表情が答えを教えてくれた。


「そうか」


 小さく呟いた彼が、ほっと頬を緩めたから。不安だったのかしら。誰かに近づくだけで不快だ、化け物だと言われてきたみたいだもの。

 彼と出会ってから、そんなやり取りは何度も目に、耳にしている。今夜だけでも、さっきの小屋でのカシュカの態度に、その前のフラニードの発した酷い言葉、二度も聞かされた。

 私だって、自分が影であれこれ言われていると知っている。けれど面と向かって罵られることはほとんどないわ、でも彼は違う。今までどのくらい、心無い言葉をぶつけられて来たんだろう。

 きっと、森の中に隠れ住みたくなるくらい頻繁に。


「あなたの魔力、好きよ。今もとても心地いいの」


 そんなことを考えていたら、口が勝手に言葉を紡いでいた。ラスティを慰めたかったのだけれど、どうしよう、言ってから恥ずかしくなってきた。さっ、と視線を少し下にずらした。ラスティの首のあたりを見る。あそこからまたリスが出てきてくれたらいいのに。


「さっきの口づけも嫌じゃなかった」


 顔が熱い。ラスティはどんな顔をして私の告白を聞いているのだろう。気になったけれど、視線を上げられない。ただ、ラスティの手のひらの上に乗せていた私の指が、彼に握られて。それに勇気をもらって少し顔を上げた。

 ラスティはいつかみたいに照れた顔をしているのだろうと思ったのに、違った。ぎゅっと唇を引き結んで、まっすぐ私を見下ろしている。まるで私の心の全てを知ろうとしているような目。


「ありがとうラスティ。あなたが触れてくれて、嬉しかったわ」


 魔力なしで生きた死体と陰口を叩かれ、手首まで気味の悪い魔力に侵されていた私に、彼は優しく触れてくれた。


「一生忘れない。私いま、幸せよ」


 誰にも求められず死ぬのだと思っていたのに、想いを寄せる相手に口づけてもらえたのだもの。彼から受けた優しい口づけを思い出して微笑むと、ラスティはぴくんと眉を動かし、私の指を握る力を強めた。


「そうだ、一生忘れるな。あと……百年」

「ラスティ」


 真面目な顔で冗談を言われ、吹き出した。不意打ちすぎる。あと百年も生きるなんてとても無理だわ。


「笑うな、ふざけて言ったわけではな――」


 くすくすと笑う私を、今度こそ照れの覗く顔で諫めていたラスティがふと言葉を切った。彼の目が閉じた鎧戸の方を向いたのですぐにわかる。リュイが近くに来たのね。彼との時間はこれでもうおしまい。

 短いため息をついて彼から一歩離れた。指が彼の手のひらから離れる瞬間、ちくと胸が痛んだけれど、気が付かないふりをした。


 ラスティの顔を見るのが寂しくて、床に落とした視線で下に落ちた布をみつける。拾って手渡すと、彼は小さく頷いてそれを服の下にしまった。


「あなたのマント、見つかっていないといいけれど」

「気にせずお前はゆっくり休め。夜が明ければ故郷の者に会えるんだろう?」

「そうだったわね」


 忘れていた。ロインとエマリィの顔を思い浮かべると、自然と背筋が伸びた。しゃんとしていなくては。今ならラスティの魔力が満ちているから、そんなに不健康そうにも見えないはず。


「……待ち遠しいか?」

「えっ?」


 顔を向けると、ラスティは私の視線を避けるようにふいと入り口の方を見た。待ち遠しいかって、ロインと私の噂話をまだ気にしているの?


「そりゃ会えるのは嬉しいわ、でも」

「今夜のことを俺は誰にも話すつもりはない、心配するな」


 私の話を遮って放たれた一言に、言葉を失った。心配するなですって? 私がロインを想っていてなお、ラスティに口づけを許したと思っているの?

 驚いて言葉が出ない。だのに、ひたひたと小さな足音が近づいてきている。誤解を解けないままラスティが行ってしまう。


「ラス……」

「い、イルメルサさま、遅くなりました」


 はあはあと息を切らせたリュイが部屋に飛び込んで来て、呼び掛けた名前を飲み込んだ。赤い頬のリュイは、私の靴を大切そうに胸に抱えている。薄い黄色の革の靴。明かりも持たず闇の中走ってきて転んだのか、緑色の髪にも服のあちこちにも、枯れ葉が散っていた。


「ああ、リュイ、ご苦労でした。靴をありがとう」

「来たな。では俺はこれで失礼する」


 こちらに近づくリュイと入れ違いに、いつもの不機嫌そうな顔になったラスティが部屋を出て行こうとした。このまま行って欲しくないのに。なにか言わないと、なにか――。


「お前、さっきの話、バルバロスさまには黙っておおきよ」


 リュイが屈んで私に靴を差し出した。その靴に片方のつま先を入れながら、ラスティの背中に声をかけた。


「話?」


 ラスティは、私の願い通り立ち止まり振り返ってくれた。怪訝そうな彼の顔をまっすぐみつめ、何気なさを装って言葉を続ける。大丈夫、リュイは屈んで下を見ている。私たちを見てはいない。


「婚約式の夜の話。聞かせたでしょう。私が……婚約式の間、森で私を救ってくれた魔術師のことだけを考えていたという話です」


 ラスティは何も言わなかった。けれど、彼の目に戸惑いの色が揺れたのが私にははっきりとわかった。伝わったかしら。ラスティ、私あなたのことしか思い出さなかった。


「バルバロスさまの耳に入ればご不快に思われるでしょう。くれぐれも、頼みましたよ」

「わざわざ釘を刺さなくとも……心得ている」


 ぼそっと返事をかえしたラスティは、そのまま部屋を出て行った。彼が部屋を出たところで、部屋の中が一度暗くなり闇に包まれた。リュイが足元で小さな驚きの声をあげる。次に明るくなった時には、魔術のあかりではない炎が部屋の燭台に灯されていた。


「……びっくりした」


 小さなリュイのかわいらしい独り言に、口元に小さな笑みが浮かぶ。私もよ。今夜は驚くことばかりだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る