第65話 後悔
「エーメには庭で倒れているお前を見つけたと言う」
ラスティは私に近づくなりそう言って、私の胸元に手を伸ばしてきた。なに。彼の意図が読めなくて固まっていると、ラスティは私からマントを取り去った。羊毛のマント暖かかったのに。頼りない気持ちになるわ。
「これがあってはおかしなことになるからな」
ぶつぶつ呟きながらラスティはマントを丸め、薔薇の茂みの下に押し込んだ。でもそうね、それを着ていないラスティをエーメに見られてしまっているもの。
「手足を土で汚してくれ、考えがある」
汚せ?
さっききれいにしたばかりなのに、と思ったけれど、彼を信じて黙って従った。屈んで冷えて硬い土を取って手にこすりつけていると、上からラスティがのぞき込んできた。
「土を掘るんだ。お前はこの庭のどこかに契約書を埋めるため部屋を抜け出した、そうあいつらに思わせたい」
「いいわね」
いい考え。ガリガリと爪をたてて地面を引っ掻きながら答える。強く押しつけると、指先にまだあの闇の力の残滓を感じたけれど、あまり気にしないと決めた。
「俺は衰弱したお前をここで見つけ、傷をある程度癒してから部屋に運んだ」
言いながらラスティが、枯れ葉を掬って私の髪の上に落としてきた。いやだ、土まで降ってくる。口を閉じてじっとしていると、ラスティが言葉を続けた。
「当然俺はお前がここでなにをしていたのかは知らん。お前もなにも言わなくていい、エーメが勝手に察するだろう」
「わかったわ。あなたのマント、見つかってしまわないかしら。契約書を探させにこのあたりに人をやるはずよ」
「そうだな、まあなんとかするさ。それより、上に登ったやつらに見られる前に庭を出るぞ」
城壁を見上げたラスティがそう言って腰を伸ばしたので、私も続いて立ち上がる。体が軽い。ラスティの魔力を大量に受け入れたからだろう。何日ぶりかしら、こんなに体が楽なのは。
「また抱いていこう、それとも……歩きたいか?」
「靴がないのよ、抱いて運んで」
「いいんだな?」
なにをいいのかと尋ねられたのかはよくわからなかったけれど、さっきのエーメの言葉が関係しているのだろうな、くらいは感じ取れた。
“シファードに想い人を残して”
やましいことなんてなにもないのに、どうしてだろう、彼の顔は見られなかった。彼の胸のあたりに目をやりながら両手を差し出すと、すぐに彼の手が伸びてきて私を抱き上げた。
「ねえ、さっきエーメの言っていた、噂話だけれど」
ラスティの首に手を回しながらおずおずと口にすると、触れていたラスティの首のあたりが強ばるのを感じた。
「……ああ。あの男だろう、前にお前を迎えに来た金の髪の騎士。昨日の夕刻閉門間際にガウディールに馬が飛び込んで来たそうだ、あの女の魔術師も一緒らしい」
やっぱり、ロイン。エマリィも来てくれたのね、とても心強くて嬉しい。つい表情が緩む。ラスティが急に歩き出したので、体が揺れた。
「あなたが呼んでくれたの?」
彼の肩にそっと手を乗せて聞くと、ラスティは肩をすくめた。
「早急に人を寄越せとは連絡したが、誰とまでは――いずれ領地を拝領する男だそうじゃないか」
「いずれね」
そんなことまで噂になっているのね。ロインはとても優秀で家柄も悪くない。いつかは手柄をたて、自分の領地と名を持つだろう。懐かしいうちの騎士の顔を思い浮かべた。
「彼は何年も前からうちにいてね、兄のような存在なの。それ……」
それだけよ、噂はフラニードのでたらめ。そう言おうとしたのに。
「しっ。城壁のやつらが近づいてきた。急ぎ出るぞ」
口を閉じろと言われ、それ以上彼と話せなくなってしまった。はるか高く城壁を見上げても、やっぱり私にはなにもみつけられない。夜の空に城壁が、黒い崖のようにそびえている。
本当に人はいるのラスティ?
私を見ないラスティを見ているとそんな思いが浮かんできたけれど、なにも聞けなかった。
◆◆◆
「イルメルサさま! 一体どちらにおられたのです。賊にさらわれでもしたかと案じておりました」
「黙りなさいエーメ、私がいつどこにいようとお前にとやかく言われる筋合いはないわ」
ラスティに抱かれ部屋に戻った私を見たエーメは、腰掛けていた椅子から飛び上がって立ち上がって駆け寄ってきた。この男、眠っていたわね。
「手足が汚れたの、お湯を用意して。侍女はどこ? いないならカラムかリュイを呼びなさい。それと靴を持ってきて」
身を捩ってラスティの腕から降りながら、父と同い年ほどのエーメを睨みつけ命令する。エーメはさっと頬を紅潮させ怯んだ表情を見せた。私に命じられ、断れる立場には本来ない男だ。
「魔術師ラスティ、イルメルサさまのご命令に」
「お前がおやり。この魔術師は私の傷を癒やしてくれました。バルバロスさまに、そこから」
言葉を切って、部屋の中ほどの寝台にちらりと視線を送る。上掛けは捲れ乱れたままだ。端がだらりと床に届くほど落ちている。少し前に受けたばかりの仕打ちを思い出して下唇を噛んだ。
「頬を打たれ床に叩き落とされた私を置いて行ったこと、覚えていてよ」
「そっ、それは……私も気が動転し、申し訳」
「この者は私の手を見ても怯えもせず触れてくれました。臆病者の顔など見たくもない、出ておいき!」
一喝すると、エーメは明らかに不愉快そうな表情を浮かべた。心の声が聞こえるわ、なぜ自分がこんな小娘に――と。
「なにか言いたいのならお言いなさい」
「なにも、ございません」
「それなら命じたことを早くおし」
「かしこまりました」
それでもさすが魔術師長、といっていいのか、エーメは一瞬で私への反感を顔の奥に隠すと、手を胸に当て礼を取った。歩き出したエーメはすぐ出ていくかと思ったのに、すれ違いざまに足を止め、私の指を見たのがわかった。なにかを見破ろうとしているのがありありとわかる、鋭い視線。
「イルメルサさまはどちらにおられたのだ」
尋ねられたラスティが口を開くより、私の方が早い。
「言う必要はない。黙っておいで」
庭と教え、ラスティのマントが見つかっては彼の身が危険にさらされる。命令するなと怒るかしら。少し不安だったけれど、ラスティは従ってくれた。
「だそうだ」
「塔から毒味を来させる。それまでここでイルメルサさまをお守りし、入れ替わりに戻れ」
「わかった」
なにがお守りし、よ。また逃げ出さないよう見張れという意味でしょう。でもまあいいわ、ラスティがマントを取りに行く時間ができればいいだけだもの。エーメが立ち去り、出て行くのを待った。振り返り部屋の外を見ていると、エーメのともした明かりと一緒に壁に映る影が形を変え遠ざかっていく。
早く行って。
じっと同じ場所に立って耳を澄ませていると、しばらく待ってようやく音が聞こえなくなった。
「行った。床に落とされたというのは本当か」
「ええ、髪を掴んで引きずり落とされたの。屈辱的だったわ、二度とごめんよ」
「この床はどうした」
ラスティは私を追い越して部屋の中に進むと、膝をついて床の色を変えた部分に視線を落とす。
「床に手をついたの、強く触れるとそんな風に。上掛けも少し崩れたわ。あっ、危ないわよ!」
手を伸ばして指の先で、黒くなったところに触れたラスティを見て思わず叫んだ。
「まるで土だ。においはないな……」
触るどころか、つまんでにおいまで確かめている。
「触れて大丈夫?」
「ああ。同じものを何度も見ている。闇の魔力を移した生物の成れの果て。不思議だ、あの魔力は命持つもの以外には入り込めないはずなのに」
「そうなの?」
「魔力が触れるだけで物が形を失うなら、あの庭の騒動のとき、塀も俺たちの服も土塊になっていたはずだろう」
そうね、あの小熊の騒ぎのとき、あたりにはとても濃い魔力が満ちていた。
「でも薔薇は無事だったわ、薔薇も生き物よ」
さっき身を潜めた薔薇の茂みの影をふと思い出して言うと、ラスティは顔をあげ、目に哀れみの色を浮かべた。
「庭の薔薇はたち枯れている。見ていないのか?」
「明るいところでは……あれから中に入れなかったのだもの」
そう、枯れてしまったの。せっかく、蕾が膨らんできていたのに。
「残念だわ、春を楽しみにしていたのよ」
そう口にしていたら、別の悲しみが胸に広がってきた。春がきても、婚礼のあとはどこかに閉じ込められるだけなのだった、私。春の庭なんてもう二度と見られない。思うほどに悲しくて、急に涙が溢れてきた。
「イルメルサ、たかが薔薇だ」
「そうね……」
ラスティ、私が薔薇のために泣いていると思っている。自分を哀れんでいるだけなのに。手のひらの付け根あたりで涙をふいて、深呼吸を一度した。
「もう大丈夫。エーメ、お湯を用意せずに行ってしまったわ」
「ああ。あいつ、湯を用意するのは得意だといつも言っているんだがな」
私の悲しみを癒そうとしてくれているのが彼の口調からわかる。
「そこの水差しに湯を満たしてやろう、布があれば汚れを拭えるだろう。腰掛けて待っていろ」
立ち上がって、手をはたいて指についた汚れを落としたラスティは、私に顎で窓辺の椅子を示した。戻ってきたときにエーメが座っていた椅子だ。
「座ったら眠ってしまいそう」
「眠りたければ眠ればいい」
慣れた部屋に戻ると、こんな場所でも安心するのか急に眠気におそわれた。考えてみれば今は真夜中もいいところ。じき夜明けがきてもおかしくない時間なのだ。
椅子に近寄り腰を落とすと、下に沈み込むような体の疲れを感じた。
「あなたは疲れていない? 魔力を随分使わせてしまった?」
「俺のことは気にするな」
壁沿いの棚に乗っていた水差しを手にとったラスティが、術をかけているのをぼんやりと眺めた。さっき口付けを交わしたのが夢だったみたい。なにも言ってくれないのね、今、ふたりきりなのに。
けれど私だって、言いかけになっている噂の話をししたいのに、会話の糸口が見つけられなくて口を開けないでいる。
こちらに背を向けたラスティが、小さな手桶にお湯を移す音が妙に大きく部屋に響いていた。その音がふいに消える。
「イルメルサ」
私の名を呼ぶ声に、降りかけていたまぶたを開く。ラスティが布を片手にこちらに歩いてきていた。そばまで来たラスティが少し腰をかがめ、私の右手を取る。
まだ爪に黒い色の残る、土で汚れた私の手。それを彼は、手にした布で包んで拭いはじめた。少し熱いくらいなのが気持ちいい。
「あら、これ」
前に文字を刺繍して彼に返した布だわ。気のせいか、前に見たときよりさらに古びてみえる。
「使っていてくれたの? 嬉しい」
「ああ」
笑って言ったのに、ラスティは私の両手を拭きながら、短く言っただけだった。指の汚れが取れていく。
「後悔していないか?」
「えっ?」
後悔?
心当たりがなかったので、突然の話のはじまりに思考が止まる。なにを後悔? 刺繍を? 手がかりを得たくて顔を覗き込むと、ラスティは視線を振り払うように腰を伸ばして、私から手を離した。
「後悔って、なにを?」
「俺に触れさせたことを」
それ。待ち望んだ口付けの話なのに、心がときめかない。後悔なんてするはずがない。
「してないわ」
くるりと背を向けたラスティの背中に向かってはっきりと言い放つ。嬉しかったのよ。続けて口にしようとした言葉はまた彼に遮られた。
「俺しか頼る者がないんだ。お前は俺を拒否できないだろう、ましてやこんな――酷い暴力を受けたあとではなおさらだ」
ラスティはまた手桶のところへ行き、布をお湯につけた。柔らかな水音が聞こえる。その背中がどこか頑なで、私を不安にさせる。
「あなた、後悔しているの?」
「弱みにつけ込んだ」
振り返ったラスティが、また私の方に歩いてきた。彼自身より先に、彼の魔力が私に触れる。これを不快に思う人がいるなんて今でも信じられない。
跪いたラスティが私の足に触れようとしたので、手を伸ばして彼の二の腕に触れ、止めた。ラスティは怪訝そうな視線を私に向けている。その彼に笑顔を見せた。
「飾りじゃない、両手があるの。自分でできるわ」
会ったばかりの頃、顔を拭いてもらえるのだろうと待っていた私に彼は怒ったのよ。ラスティは覚えているかしら。空いた手をのばし、布を受け取って足を拭った。そうしながら言葉を選びえらび、彼に聞いた。
「あなたが弱みにつけこんだなら、私はあなたの優しさに甘え続けている。ラスティこそ、後悔していない? お父さまからの話を受けたこと」
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