第64話 夜の隠すもの
少し前に息も絶え絶え歩いたばかりの道を、今度はラスティの腕に抱かれ戻った。城壁沿いにところどころ松明が燃やされてはいるけれど、ほとんどのものが夜の闇の中に溶け込み沈黙している。
言われた通り彼の首に手を回したのはいいけれど、顔が近づくたびにし損ねた口付けを思い出さずにはいられない。そんな場合ではないのに。
夜が指先の変化も表情も隠してくれていると思うと、心が自由に羽ばたいてしまう。ラスティの腕の中にいられて、私ったらすっかり安心している。
触れていいか、って彼、聞いたわ。すぐそばにある彼の頬に視線を向けながら思い出す。私すごく勇気を出して頷いたのよ。あと少しだったのに。思わずラスティの首に回していた手に力が入って、ぴくりと指が動いた。いけない、指先が彼の肌に触れてしまう。
私の指、元に戻るかしら。指のことを思いだして、ラスティの首のうしろでこっそり指を伸ばして手のひらをひらひら裏表に動かしてみた。痺れがあるのは、今は指先だけだわ。色が変わっているのも、爪のあたりだけになっているみたい、ここは暗くてはっきりはわからないけれど。ここしばらくずっと体の内側に感じていた冷たい魔力の棘も、その数を減らしているように思った。
ほっとする。
「指先の色も感覚も戻ってきているわ。ありがとう。ラスティがいなかったら私、どうなっていたかしら」
彼の耳に唇を寄せ、こっそりとささやく。辺りに人の気配はなかったけれど、どこから誰が現れるかわからないから。
「礼はいい、何度も聞いた」
「言いたいの。ねえラスティ、ちゃんとお父さまから魔石を貰ってね」
「なに?」
聞き返してきたラスティが私を見たのがわかったけれど、私は彼の肩越しに歩いてきた道の奥を見つめ続けた。道はすぐに闇に閉ざされ、遠く燃える松明のあるあたりだけがぼんやりと赤く浮かんで見える。ラスティみたい。彼のいるところだけが暖かく明るいの。
「褒美の魔石。何度も命を救ってくれたもの。宝物庫の一番いいものを要求するのよ。確か、青い金剛石があったはず。そんなに大きくはないのだけれど首飾りについていて、とても美しかった。それになさいな」
じきに、あの閉鎖された庭のあたりに着く。そこを過ぎれば、私の部屋のある棟までもう少し。私を癒やして、彼はまた行ってしまうだろう、振り返りもせずに。そう思うと急に胸が苦しくなって、つい喋りすぎてしまった。
ぴたりと口を閉じて急に黙り込んだ私を訝しんだのか、またラスティの視線を強く感じた。こっそりと横を見たのに、しっかりと目があう。
ラスティはいつもの顔で私を見ていた。いつもの、少し不機嫌そうな顔。それから腕に力を込め私を抱き直して、耳に顔を近づけてくる。
「そら、また命令だ」
低い彼のささやき声が耳元に落とされた。
「心配するな、石の目星はつけてある」
耳元でささやかれると、息もあたって恥ずかしくてなんだかモゾモゾしてしまう。命令なんてしてないわ、お父さまあなたに宝物庫の目録でも見せたの? 軽口を叩きたいのに、声が出せない。
ちら、とラスティを盗み見ると、すぐそばに彼の顔があった。私を見ている。さっき彼の小屋で同じ目を見たわ。思った瞬間、心臓が鼓動をはやめた。いつの間にか彼の足が止まっている。庭に差し掛かる直前の、少し道の細くなる曲がり角のところ。届く光のない暗闇が私たちを隠してくれていた。
「……ん」
予感を感じ取るより早く、熱くやわらかいものが唇に押し付けられた。ラスティの唇。そう気づいた瞬間、喜びで肌が粟立った。戸惑ったのは一瞬で、あとは幸せな気持ちだけで心が塗りつぶされる。口付け。私の初めての。
目を閉じると、見られていたのか彼の腕に力が入り、より強く抱きしめられた。触れているところから絶え間なく、熱い魔力が流れ込んでくる。
唇は、一瞬離れる素振りをみせたけれど、すぐに思い直したようにもう一度戻ってきて、私を舞い上がらせた。ラスティは焦れた手つきで私の被っていたフードを外すと、口付けを続けたまま、髪の中に指を差し込んできた。感触を確かめるように指に絡めている、そんな音が頭のうしろからする。
私の髪、今きれいじゃないのに。しばらく贅沢な手入れをしていない、雑に櫛をいれられただけの髪。こんな風に今日彼に触れられるとわかっていたなら、なにをしてでも香油を運ばせたわ。それでも、その手を拒む気持ちは生まれなかった。
「ん、っ、ラスティ……」
名前を呼ばずにはいられなくて、繰り返される優しい口付けの合間に喘ぐように彼を呼ぶと、ふ、と唇が離れた。熱く濡れた赤銅色の目が私を映している。私もこんなきれいな目を、彼に見せられているかしら。
と、髪を弄る彼の手が止まったかと思う間もなく、私から視線を外したラスティの目に鋭い光が宿った。さっとあたりに目をやって私を抱きかかえ直した彼は、再び歩き始める。
「人の気配がする、複数だ。まずい」
私にはなにもわからなかった。耳を澄ませてみても足音もきこえず、目を凝らしても揺れる灯りも見えない。城壁を見上げても、そこにも兵士の影すら見つけられなかった。
でもラスティがそう言うのだから間違いないんだわ。不安で、心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちになった。少し前あんなに幸福だったのに。
ラスティは部屋への道を選ばなかった。小熊の騒ぎからこちら閉鎖されている庭へ入る木戸を押して、そこに身を滑り込ませた。
「ここにいてくれ」
言いながら手近な薔薇の茂みのそばに私を降ろすと、ラスティはまた私にフードを被せた。それから彼は私の頬をそっと撫で、入ってきたときと同じように静かに庭を出て行った。振り返りもせず。
あっという間に暗い庭の片隅にひとり置いて行かれ、心細いなんてものではない。ここは暗く寒くて、それにもっと奥だったはずだけれど、魔術師がひとり死んだところだもの。土を踏む足の裏が冷たい。
さっきまでのぬくもりが恋しかった。ラスティの腕の中で、何度も口付けを受けていたのに。小さくため息をついて、茂みの影に隠れしゃがんだ。頭の横で、薔薇の茂みがパキンと小さく乾いた音を立てた。前に見たときより芽は膨らんだかしら。ここは真っ暗でなにも見えない。
「早く探せ、あの衰弱ぶりだ、そう遠くへ行けるはずがない」
しばらくそのままそこにいると、風に乗って声が届いた。体が強張る。エーメの声に間違いない。私が部屋にいないと気付かれてしまったんだわ。
「お前たちは城壁へ登れ、身投げされては助けようがない、まだ死なれるわけにはいかん。お前は城前のシファードの騎士のところへ、助けを求め向かった可能性が高い」
エーメの言葉に従って、何人かが立ち去っていく忍ばせた足音がした。こっちには来ないで。どうしたらいいの、ラスティ……。
「エーメ」
彼を思った途端ラスティの声がして、ほんの少しだけ安堵した。すぐ近くに彼がいる、それだけで支えになる。
「魔術師ラスティ、お前か」
「伝言を聞いて来た。何かあったのか」
「イルメルサさまだ。目を離した隙にお姿が見えなくなった。バルバロスさまのお耳に入る前に見つけ出さねばならん」
「随分衰弱していると聞いたが? 出歩けるのか」
「わからん、とてもそんな風には見えなかった。まさか、我々を欺いていたというのか、あの娘」
エーメの声に苛立ちが混じった。“あの娘”……カシュカだけでなくこの男も、私の前でだけ態度を変えていたのね。予想していたとはいえ、続けて裏の顔を見せられうんざりする。
「行く先に当ては」
「死を望んでいれば城壁、生を求めているならば故郷の騎士の元へ。恐らく後者ではないか? シファードに想い人を残しているという噂を耳にした。昨日やってきた騎士のことだろう」
エーメの言葉に、ほんのしばらくの沈黙が降りる。
「――そうか」
そんな噂があるなんて。フラニードだわ、首飾りを見たときに妙な勘ぐりをしていたから。今すぐ庭から飛び出して、彼に違うと伝えたい。
「とにかく一刻も早く見つけ出し、部屋へ戻さねばならん、協力してくれ」
「わかった。このあたりの捜索は引き受ける。俺の犬を見かけたら尻を叩いてこちらへ向かわせてくれ、あれはあの女に懐いているから役に立つだろう」
「ああ」
「お前は? エーメ」
「イルメルサさまの部屋へ戻り報告を待とう」
「わかった」
ふたりの会話はそれで打ち切られた。エーメの足音が遠ざかっていったけれど、ラスティが動く気配はなかった。
ラスティ、早く来て。城壁に登った者たちが私を見つけてしまうかもしれない、あなたのマントに包まれている私を。
ぎゅ、と拳を握った時、木戸の開く音がした。
「イルメルサ」
ラスティが小さく私の名を呼びながら庭に入ってきた。たまらず立ち上がると、足の下の枯れ葉が乾いた音をたてた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます