第55話 拘束
「おや、お目覚めになられましたか」
木の板を張っただけの粗末な天井を見つめている私の顔を覗き込んで来たのは、魔術師長のエーメだった。
「ここはどこです、私になにを――」
話しながら起き上がろうとした途端、首になにかが食い込んで息が詰まった。なに。体の他の部分を動かすと首のほか、手首と足首、胸のあたりにもなにかがある。縫い止められたみたいに拘束されていてほとんど動けなかった。
何で拘束されているのかもわからない。下の台座は木の板の感触がして硬く、布一枚敷かれている様子もない。かかとが木の板にそのまま触れている。素足。やたらに足首から先に外気が触れて落ち着かない、まさか。服は着ているわよね?
頭を動かして肩のあたりを見ると、白い生地が目に入った。入浴のあと着た長袖の下着。それだけ。
羞恥と怒りで一瞬で頭に血が昇る。
「これはなに、今すぐ外しなさい! 私を誰だと思っているの! シファードの……」
「お静かに」
首や腕を動かせるだけ動かして暴れる私に、エーメは小さく首を横に振ってみせた。
「騒がしいのは苦手です、どうか、お静かに。ご無礼は承知の上で拘束させていただいております」
「気でも違ったの、このようなこと、お父さまや国王陛下がお知りになったらただでは済まないわよ!」
「お静かに」
三度目にそう口にしたエーメの目は、凍ったように冷たかった。見下ろしながら命じられ、恐ろしさを感じて口を閉じる。今彼を怒らせるのは得策ではないわ、逃げられないのだもの、なにをされても逃げられない。
言葉にして考えると、急に胸に恐怖が押し寄せてきて怒りを奥に押しやった。息が苦しい。涙がせり上がってくるのを必死でこらえる。泣くものか。
「もうしばらくお休みいただいた方がよろしいようだ」
言葉とともにエーメは手布を取り出し、私の顔に寄せてきた。柔らかな布が頬に触れる。なんだろう、嗅ぎ慣れない妙な匂いがする。
「それをどけなさい!」
顔を背けても、エーメの手はついて来た。それでも首を振って抵抗していたら、布で鼻と口を覆われた。吸い込んでは駄目よ。息を止めて抵抗するしかない。目を閉じ呼吸を止める。
「イルメルサさま、息絶えてしまわれますよ」
「どうした」
「これは、バルバロスさま」
エーメが振り返り答える拍子に、口を押さえる男の力がゆるんだ。首を振って手布から逃れ、大きく口を開け呼吸を繰り返した。
視線の先に、バルバロスさまを出迎えに歩いていくエーメの背中。視線を上向けると、会話するふたりの顔がある。城のそこらで立ち話をしているようなその様子に、不気味なものを感じた。
「目を覚ましたのか」
「はい」
「ちょうどよい。少し話しておくか」
エーメを押しのけ近づいてくるバルバロスさまはおひとりだった。バルバロスさまが歩くたび、腰の剣が音をたてている。いつもは帯剣していらっしゃらないのに。ここは石積みの窓のない丸い形の部屋で、私の寝かされている場所は部屋の中央にあった。
「そなたが回復するのを待ちわびておったぞ」
ゆっくりとこちらに向かってくるバルバロスさまは、最初にそう言った。待ちわびる? 意図が読めず、なんと答えればバルバロスさまを怒らせずにいられるかわからない。
黙っていると、バルバロスさまの口元に小さく笑みが浮かんだ。
「なかなか隙を見せぬそなたに、もどかしく思わされた」
「隙、とはなんでしょうバルバロスさま。それよりこの拘束を早く解いていただきたいのです、このような扱いを受けるいわれはございません」
バルバロスさまの灰色の目が、心を覗こうとしているかのように私を見下ろしていた。その目が忌々しげに細められる。
「白々しい、まあよいわ。神々は我々に味方したのだからな」
そう言いながら、バルバロスさまは私の髪をひと掬い手にとって指で梳いた。結われてもいないのね。耳の横に髪が落ちてくる音がする。
「よいときに寝込んでくれたものよ。これでしばらくそなたの姿が見えずとも、誰も不思議に思うまい。のう、エーメ」
「はい、ですがバルバロスさま、婚礼が無事お済みになるまでは大掛かりな魔力の移動は行えません」
「わかっておる」
二度、三度、私の髪を繰り返し梳くその手付きは優しいのに向けられる目は冷たくて、恐ろしい。
「少なくともシファードからの一行が去るまでは正気を保たせねばならぬからな。いっそ病で死んだことにできれば幽閉しておけて楽なものを」
「なりません、ご婚礼前にお亡くなりになられたとなれば、ゲイン様はご遺体をシファードにとお望みになられるでしょう」
自分の話をされているのに、あまりに内容が不快で頭に残らない。この人たちはなにを言っているの。なにをされるのか想像もできない。けれど、なにか酷いことが始まるのだとわかった。ラスティがあの夜私に教えてくれたじゃない。
“生きていることが苦しみとなる日々もある”――と。
「お、お父さまに言うわ。そうすれば国王陛下がご判断を」
声が震えるのは抑えられなかった。それでも精一杯の虚勢を張って伝える。黙って殺されたりはしない。
「言えるのか? 酷い扱いを受けておると? 助けてくれと。私の城で、私の兵と騎士や魔術師たちが揃う中、婚礼用の貧弱な装備しか持たぬ父親に」
にや、と笑うバルバロスさまの目は捕食者のそれだった。ガウディールが狼ならシファードは兎。
「そなたが黙ってさえおれば、シファードの者たちは無事にここから帰れるのだ」
私の髪を梳いていたバルバロスさまの指が止まる。
「簡単なことではないか? ただ、口を閉じておればよい。それすら難しいというのなら」
バルバロスさまの手が離れていき、視界から消えた。かわりに、剣を鞘から引き抜く音がして、体が強張る。
「バルバロスさま」
エーメの抑えた声がしたけれど姿は見えない。見えるのは無表情に私を見下ろすバルバロスさまと、私に向けられた剣先。それがゆっくりと降りてきて、まず私の首を拘束していたなにかを切った。首の横でブツリと音がして首の拘束が取り除かれる。
すぐに剣の切っ先が私の喉に当てられた。痛みはない、触れた一点がひどく冷たかった。
「声を奪っておくのもよいな。お前は黙っておる方が煩わしさも少ない」
「……やめて」
やっとのことで小さな声をあげると、こらえていた涙がとうとうこぼれ落ちはじめた。熱い涙が顔を伝って、耳に落ち髪を濡らす。喉を切られる。恐怖で歯の根が噛み合わずかちかちと鳴った。
「黙れ、手元が狂うと命が危うい場所だ。なに、すぐにエーメが治癒を施す、皮膚に傷は残らぬだろう……そうだな? エーメ」
「はい、し、しかしシファードにはなんと……」
「病で一時的に声を失っていると伝えればよい」
「一時的、でございますか」
「婚礼を終えればこれは私のもの。誰に会わすも会わさぬも私が決められる」
お父さまたちに会えなくなるのね、きっとどこかに幽閉されるんだわ。妹とシファードを守るために命を捨てると決めたのに、それでラスティの手を拒んだのに、いざとなると声を失う予感だけでこんなに怖い。
ぐ、と喉の一点に力が加えられようとしたまさにそのときだった。
「お待ちください、人が」
エーメの声に、喉に加わりかけていた力が弱まった。いつの間にか閉じていた目を薄く開け、小さく早い呼吸を繰り返した。動くと喉が切れそうで恐ろしく、指一本動かせない。涙は止まらなかった。しゃくりあげるたびに切っ先がのどに強く触れ、怖い。
「誰も近づかぬよう伝えておらんのか」
「一名呼んでおりまして恐らくそのものかと……見て参ります」
どこかで、扉の開く軋む音がした。ぼそぼそと話す声。その声の主が、剣を向けられている私を見たのだろう、鋭く短い制止の声をあげた。
「よせ!」
続く荒い足音。
「なにをしている、領主、殺すな!」
ラスティの声。ラスティが、剣を握るバルバロスさまの腕をつかんで強い口調で責めている。切っ先が私から少しずつ離れていった。
ほっとして、やっぱり涙が溢れ出た。ラスティを見たいのに、視界は濡れてきちんと見えない。ラスティのマントの紺色だけが、滲んだ目に映る。
外にいたの。そういえばここに来るまえ、庭に向かう彼を見たのだ。あれは今日なのかしら。
「お前か。なに喉を潰すだけだ、皮膚の傷はエーメが癒やす」
「傷の付いた石に魔力を注いで魔石になるか? 少しは考えろ領主。石には傷がない方がいい、基本だろうが」
ラスティの言葉に、バルバロスさまはふん、と詰まらなそうに鼻を鳴らした。
「そういえばこの女はすでに胸に傷があるのだったか。確かに増やさぬ方がいいかもしれんな」
「ああ。魔力の流れが不安定になる。俺が魔石の研究を続けてきた話は聞いたのだろう。傷は駄目だ、これは絶対だ。魔力が滞る」
ラスティの声から険しさが消えたので、喉を傷つけられる危機が去ったのだとわかる。やっと涙が止まった。ぱちぱちと瞬きをして睫に残った涙を払った。
大切な秘密の研究と言っていたのに、ここの魔術師たちに話したのね。ここまで入り込むためだろうか。
「わかった。お前が学んだ日々を尊重しよう。すでにこれにある傷は問題にならぬであろうな? 見てくれ」
一瞬だった。再びすらりと抜かれた剣の先に、私の下着の胸元が引っかけられ持ち上げられ、布の裂ける音が響いた。
「いやっ!」
「私も初めて見る」
剣と入れ代わりバルバロスさまの手が伸びてくるのが見え、体中に嵐が吹き荒れるような混乱が襲ってきた。
首の拘束が切られているので、少し頭を持ち上げられた。ふたつに裂かれた胸元の生地は、まだ私の胸のほとんどを隠してくれてはいたけれど、膨らみは見えている。傷にいたっては全てさらけ出されていた。
足先の方に立っているエーメの視線を感じる。ラスティは? 彼にこの傷跡を見られたくないのに。
「触らないで! 見ないで……やめて!」
ラスティ! そう叫びそうになるのをぎりぎりこらえる。暴れたいけれど、そうしたら胸に乗った布がめくれるかもしれない。また涙が溢れ出てきた。冷たい指が胸の間に触れ、傷をなぞり動くのがわかった。嫌悪感で肌が粟立ちぎゅっと目を閉じた。こんな男にこんな場所に触れられるなんて。
「醜い傷だが大きくはないな、どうだ、障りはありそうか?」
「……わからない」
ラスティの硬い声が上から降ってきた。わからない。ラスティの答えを聞いたバルバロスさまが、短い笑いを漏らす。
「わからんか。お前はどう考える、エーメ」
「確かに大きくはない傷ですが深そうです。それに心臓の近く。なんらかの影響はあるやもしれません」
私の体のことを、まるで物のように話される会話を聞いているうちに体が震えてきた。怖いと感じているわけでもないのに、どうしてだろう。
「おい」
「どうした、なにか浮かんだか言ってみろ」
その会話にラスティが割り込んでいる。バルバロスさまの答える声に目を開けると、頭のすぐ近くで衣擦れの音がしはじめた。
「震えている。病み上がりなのではなかったか、領主の婚約者は。病など、傷以上に未知数で支障になるぞ、俺の研究してきた石は風邪などひかなかったのだからな」
そんな声とともに、体の真上に広げられた紺色の布が風を孕んで降りてきた。
「服くらい着せておけ。神経の細い貴族の姫君だ、舌でも噛んで死なれては困る」
ラスティの憎まれ口を聞かされても、腹は立たなかった。私の体を隠してくれた彼のマントは、まだ彼の温もりを残していてとても暖かい。
黙って頭を動かすと、そばに立って私を見下ろすラスティの顔がすぐに見つかった。彼の赤銅色の目は、気のせいだろうか、痛みを抱えているように見える。心配してくれているのかもしれない。
そっとエーメとバルバロスさまを盗み見ると、ふたりは顔を見合わせ話し込んでいた。
「バルバロスさま、イルメルサさまの身辺の世話をさせる女もひとり必要でございます、侍女を使ってもよろしいですか」
「ならん、あれには向こうにいてもらわねば。女の不在が疑われるだろう」
そう言ったバルバロスさまの声は、急に私から興味を失って聞こえた。その隙にもう一度ラスティを見ると、彼の視線も同じように動いていて、私のとぶつかった。その一瞬に、ほんの小さく口の端を持ち上げて彼に笑って見せる。
大丈夫よ、ありがとう。その気持ちは伝わったかどうか。ラスティはすぐに私から視線をそらした。
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