第54話 はじまりの日


「今夜から広間で食事を取るわ」


 苦い薬湯を飲み終わり、空の器を女の召使いカラルに渡しながら言うと、彼女は満足げな笑みを口元に浮かべた。


「かしこまりました。そのようにいたします」


 雨の日に得た風邪は丸二日の間私に取り憑いた。熱と咳が続いたけれど、三日目の今朝はすっかりおさまっている。

 引きはじめにラスティの魔石が使えたおかげね、これまでの自分を思えば随分早く元気になれた。


「体を清めたいの、お湯を用意して」

「はい。お髪はどのようにいたしましょう」

「そうね」


 言って、胸元に降りてきている髪に触れた。ずっと横になっていたから絡まって膨らんでいて、ひどい有り様だ。


「しっかり編み込まれると頭痛がしそう。今日は軽く結うだけにして」

「かしこまりました、では香りのいい油を使い梳いてから」

「ええ」


 準備をして参ります、と言ったカラルは、空の器を乗せた盆を手に部屋を出て行った。首飾りを枕の下に差し込んで隠し、急に静かになった室内を見渡すと、窓から差し込む陽の光に気を引かれた。今朝目を覚ましたときは雨音がしていたけれど、今は晴れているのね。

 外が見たくなって、寝台から降りて裸足のまま窓辺に寄った。寝込んでいたのはほんの二日なのに、脚の力が弱くなった気がする。下にジーンがいたら、少し外を歩きたい……。


「まあ、虹」


 外に目を向け一番に目に飛びこんできたのは、薄く青い空に同じく薄く架かった虹の一部だった。もう消え始めている。ガウディールにきて初めて見たわ。きれい。虹がすっかり消えても、窓辺から立ち去りがたくてそのまま空を見上げていた。

 と、視線を感じ誘われるように下を向くと、そこに魔術師の姿をみつけどきりとする。でも、ラスティではない。魔術師はふたりいて、ひとりは例の騒ぎのあった庭のある方を指差しなにか話している。もうひとりがこちらを見上げ私を見ていたけれど、視線がぶつかる前に目はそらされてしまった。

 それきりこちらを見ず庭へと歩み去っていく魔術師たちを見送っていると、魔術師塔へ続く道の奥からもうひとり、魔術師がやってくるのが見えた。妙にはっきりと目に飛び込んでくる長身の男、その紺色のコートの裾から、歩くたび見える色は暗い赤。


 ラスティ。喜びで胸が鳴った。彼、こっちを見上げてくれるかしら。思ってすぐに否定する。ダメよ、髪がくしゃくしゃ。

 見られたくなくて、窓の脇に身を隠しながらそっと外を盗み見た。早く前を通って。カラルが戻ってきてしまう前に。

 はやく、早くと待っていたのに、ラスティは途中で立ち止まって後ろを向いてしまった。もう。誰かに呼ばれたのか、奥に人を探している様子だった。


「あ、っ」


 魔術師が呼んだのかしら、そう思った瞬間だった。奥から彼を追ってゆっくりと姿を見せたのは、フラニードだった。

 ここ数日姿を見せていなかった私の侍女が、陽の光に髪を輝かせてラスティの横に立つ。そしてふたり並んで、こちらへ歩いてきはじめた。


 いやだ。

 さっと壁に背を付けて、窓から顔を背けた。


 私はフラニードにされたことを誰にも言わなかった。けれど彼女が姿を見せなくなったので、てっきり察したバルバロスさまから罰でも受けているのかと思っていたのだ。でも今ちらりと見えた彼女は相変わらず美しく健康そうで。

 フラニードと並んでいたラスティの顔を思い出す。いつもと同じ仏頂面だったけれど、彼は私といたって同じ顔。フラニードの髪が美しいと思っているかもしれない。心の中なんてわからないのだ。ラスティ、その女が私を凍えさせたのよ。この窓から身を乗り出してそう叫べたらいいのに。


 大きく息を吐いて心を落ち着ける。と、風に乗って耳にフラニードの明るい笑い声が届いた。話している内容まではわからないけれど、なにかひそひそと話しては軽やかな笑い声をあげている。

 もうラスティと別れたのかもしれない。フラニードは彼を嫌がっていたもの、そばにいるだけで頭が痛くなると言って。彼といてあんな笑い声、出るはずがない。


 考えが頭を過ると確かめずにはいられなくなって、そっと下を見て後悔した。

 庭の方へ行こうとするラスティを留め彼の前に立ったフラニードが、触れそうになるくらい身を寄せて話しかけている。ラスティはこちらに背を向けていて表情が見えない。そのせいで、余計焦燥感に駆られた。ラスティの肩越しにフラニードの目が見えた。近くから真っ直ぐ彼を見上げているその目が笑んで細められ――。


 やめて。


 今度こそ叫びそうになって、口を手のひらで覆って窓から離れた。ふらつく足取りで寝台まで戻り、上掛けをめくるのも忘れその上にうつ伏せに横たわる。

 しばらくそのまま横になっていると、にわかに階下が騒がしくなって、数人分の足音や物音が近づいてきた。


「どうされました」


 カラルがお湯を運ぶ召使いたちを連れて部屋に入ってきて、一番にそう聞いてきた。聞いてはきたけれど特に心配するでもなく、布が敷かれ、大きなたらいに白く湯気をあげるお湯を流し込むようにとてきぱきと指示している。


「立ち上がったらめまいがしただけ」

「入浴のあとにもうひと種類、薬をご用意してございます」

「薬湯を飲んだばかりだわ」

「別に作用するものです。お夕食の件は下に伝えましたので、それまでは部屋でお休みください。みなイルメルサさまのお姿を拝見できるのを楽しみにしておりますでしょうから」


 世辞は耳の中を通すだけにして、心から消した。愛想笑いを浮かべるのも面倒で、ゆっくりと身を起こして入浴の準備が整うのを待った。


「鎧戸を閉めて」


 カラルに命じられ、まだ幼い顔をした召使いがひとり駆け、窓へ向かう。と、鎧戸に手を伸ばすその動きが止まった。視線は下に釘付けだ。


「なにをぼさっとしているの早くなさい、お湯が冷めてしまう。お前は熱の魔力を扱えるとでもいうのですか」


 すぐに、部屋の明かりを魔力で次々灯していたカラルの声が飛んできた。


「あっ、は、はいカラルさん、すぐに」

 

 焦った声とともに、鎧戸の閉まる音がした。なにを見たのかしら。その召使いは、お湯を運んだ桶やらなにやらを抱え込むと、膝を折って挨拶もそこそこに部屋を出て行こうとしている。


「なにか変わったことが?」


 カラルが私の服を脱がそうと寄ってきたのが見えたので、立ち上がりながら言った。あの子が今なにを見たのか気になる。


「えっ……」

「外」


 顎を少し動かして閉められたばかりの窓の方を示すと、その召使いは驚きに目を丸くした。それからなぜか、頬をぱっと赤らめた。煤で汚れ日に焼けた肌なのにわかるくらいはっきりと。


「あの、なにも」

「なにもという態度ではないわ」

「い、イルメルサさまに、話すようなことじゃ……」


 もごもご、と口の中で煮え切らない言葉をつぶやかれ、思わず眉根が寄るのがわかった。それを間近で見たらしいカラルが、私の服を脱がせながら厳しい声を出す。


「お話しなさい、イルメルサさまがお尋ねなのですよ」

「えっ、あの、あのお……あの、あ、ふ、フラニードさんが」


 やっぱりフラニード。さっきの目を思い出して、唇にぎゅっと力が入った。


「フラニード。最近姿を見ないから修道院に帰ったのかと思っていたわ、いたのね」


 棘のある声がでるのを自分でも抑えられなかった。自分が責められたわけでもないのに、下働きの召使いがびくりと肩を震わせ、小さな声で謝ってくる。


「さ、イルメルサさまこちらへ」


 私を脱がせ終わったカラルに手を引かれ、熱いお湯の入った盥に足を踏み入れた。久しぶりの入浴。ちゃぷ、足を動かすたびにお湯か揺れ音が鳴る。


「それで、フラニードがどうしたの」


 カラルに体にお湯をかけられながら下働きの召使いに続きを促す視線を送ると、彼女はぽかんと口を開けて私を見ていた。


「なに」

「ごめんなさい、き、きれいだから」


 消えゆく語尾で言われたことを、心の中で繰り返す。綺麗。私が。素直な言葉が嬉しかった。こんな、傷の残る痩せた体を褒めてもらえるなんて。


「ありがとう」


 カラルの掛けてくれるお湯の温かさもあって、気分が良くなる。優しい声が出た。それで、召使いもほっとしたのか肩から力を抜いたのがわかった。


「早く教えてちょうだい。下でなにが?」


 続けて優しく尋ねると、彼女の目が迷うように部屋をさまよった。私の上をさっと通り過ぎ、鎧戸とカラルを何度か往復し、また私のところへ。意を決した様子で口を開いた召使いは、口早に一気にこう言った。


「フラニードさんが魔術師の男の人に抱きついていました」

「魔術師?」

「はい、赤い髪の、大きな人」


 フラニードが、ラスティに。さっ、と頭に血が昇る。ちょうどカラルに背中をお湯で流された瞬間だった。入浴中で良かった、肌が朱に染まってもお湯のせいだと思わせられる。

 私が黙っているのを、続きを聞きたいからだと思いこんだらしい彼女はなおも喋り続けた。

 

「こう、両腕を首に回して、ぎゅってしてて、それで私びっくりしたんです。だってこないだフラニードさん、庭師のディーダーさんに」

「そこまで。イルメルサさまは、くだらない階下の噂話まではお望みではありませんよ、お戻り!」


 どん、とカラルが床を踏み鳴らす音に、夢から覚めたみたいな顔になった召使いは、山盛りの荷物を抱えてよたよたと部屋を出て行った。


「まったく」


 カラルはそう呟くと、黙って私の体を洗いはじめた。水のしたたり落ちる音が部屋に静かに響く。


「ねえカラル、フラニードはまだ私の侍女なの」

「もちろんそうでございます」

「ではなぜ何日も姿を見せないの」

「フラニードが、イルメルサさまからしばらく姿を見せるなと命じられたと」


 言ったかしら。言った気もするし、そこまで強い言葉は使っていない気もする。忘れたわ。何日も前だもの。


「またお使いになられますか?」

「他に侍女がつとまる者はいて?」

「今はおりませんね」

「急ぎ探すよう手配して。節操のない者をそばに置きたくはないの」

「バルバロスさまにそうお伝えいたします」


 せっかくの入浴なのに、胸の中がざわざわとして落ち着かない。ラスティに抱きついて、それからどうなったの。ラスティもフラニードに触れたかしら。まさか、彼に限ってそんな。


「――さま、イルメルサさま」


 いけない、ぼんやりしていた。気が付くと肩に布を掛けられていた。終わったのね。言われるままお湯から出て、たらいの横に運ばれていた椅子に腰掛ける。久しぶりにずっと立っていたからか、少し疲れた。次は髪。


「綺麗に梳いて。柔らかく、ふくらませて」


 フラニードの銀の髪とは違う美しさを出したくてそう命じた。冷たく輝くまっすぐな絹糸、冬の月の光のようなフラニードの髪。ああはなれないけれど、私にはこのシファードの蜂蜜色の髪がある。ラスティの褒めてくれた髪。

 カラルは慣れた手つきで、私の髪に油を塗った。花の甘い香りが鼻に届く。


「いい香りね」


 つぶやきに返事はなかった。ちらとカラルを見上げると、真剣な硬い顔で私の髪の絡まった部分と格闘している。話もないので、ただ黙って座っていると退屈で、つい欠伸をしてしまった。


「お疲れですか」

「急に動くと疲れるわね」

「この後、夕方まではこちらでゆっくりとお過ごしください、体力の回復に効くという薬を預かっております」


 そういえばさっきも言っていたわね、薬がどうとか。


「まあ、これのことだったの?」

「はい」


 薬、なんて言われたから想像できなかったけれど、体を清めた後差し出されたのは、シファードでよく飲まされていたのと同じ、黄金色の練り薬の入った小瓶だった。


「なんでもシファードからの書簡に作り方を記したものがあったとかで、急遽ご用意いたしました」

「嬉しいわ、甘いのよ」


 ほとんどが蜂蜜でできているものなのだ。そのまま舐めても、お湯に落として飲んでもいい。


「今お取りいたします」


 カラルが私のすぐそばで、薬を木の棒で掬い、私の口元に差し出してきた。とろりと流れ落ちるそれが懐かしくて、つい口を開いて受け入れてしまった。甘みを舌で受けながら、毒味を挟まなかったと気づいた。

 大丈夫だわ、なにかしたいのなら薬湯に混ぜる機会はここ何日もあったのだもの。思った通り何事もなく、私はその甘い薬を飲みこんだ。


「なんだか幼子にでも戻った気がする」 


 言うと、今度はカラルは小さく笑った。私を慈しむような、初めて見る表情をしている。


「しばらく横になられるのがよろしいかと。久しぶりの入浴でお疲れでしょう」

「そうね」


 彼女の表情は気になったものの、具体的に言葉にできる違和感でもなく……勧められるまま寝台に登った。覚えているのはここまで。

 次に気が付いたとき、私は見知らぬ場所で見知らぬ天井を見上げていた。

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