第53話 雨の城
「雨脚の強まる前に戻れてようございました」
フラニードが部屋の鎧戸を閉めはじめたので、声をかけて止めさせた。吹き込む雨のしぶきに頬を濡らす私の侍女は、不満げな顔を隠そうともせずに振り返った。
「雨が降り込んできますわ」
「構わないから少し開けておいて。雨音も聞きたいし。それにまだ部屋を暗くしたくないから」
ただでさえ外は急に降り出した雨で暗いのに、鎧戸を閉められてしまっては夜と変わらなくなる。
「そうおっしゃるなら……あっ」
濡れた毛皮のコートを脱いで寝台の上に置くとすぐ、フラニードが駆け寄ってきて奪うように取り去った。
「いけません、寝具が濡れてしまいます」
「あら、そう……」
責められても、どうしていいかわからない。呟いて、フラニードと入れ代わりで窓辺に寄った。椅子の上に畳まれていた肩掛けを取り腰掛け、外を見る。
空から大粒の雨が絶え間なく降り注ぎ、目に映るすべてを冷たく濡らしている。窓辺の窪みに溜まった水に、さらに雨が堕ちてきてビタビタと鳴るのが面白かった。
「中央の暖炉の火を強くしておいて」
羊毛の肩掛けを広げ体を包むと、あたたかい。ほっと息をついて背もたれに体をもたせかけた。
「かしこまりました」
この雨が降り始めたのは、薬草園で熱いお茶を飲み終わり、葡萄を一粒ふた粒、口に入れた頃だ。ぽつりと手の甲に落ちてきた最初の雨はすでに大粒で、私の手を流れ落ちていった。
ぽかんと空を見上げる私の手を引いて立ち上がったバルバロスさまに、魔術師塔へと連れて行かれそうになったけれど、その手を振り払って部屋への道を強引に戻ってきてしまった。多分お怒りだ。
フラニードはなにも言わず、それどころか少し嬉しそうな様子で私に先立って部屋への道を急いでくれた。バルバロスさまが私に優しくして見えるのが嫌だったのだろう。
「疲れたわ、朝からずいぶん歩いたもの」
フラニードもバルバロスさまも気が付いていないけれど、私は今日は体を癒やす煎じ茶を飲んでいない。ラスティがお茶から魔力を消してくれたから。
あのお茶は、飲むと体が休まるけれど力が抜ける気がする。ラスティが魔力を消していなかったら、バルバロスさまに捕まれた手を振り払う力は出なかったかもしれないわ。
「バルバロスさま、驚いておいででしたね」
「えっ?」
「イルメルサさまが、こちらに走って来られた後ろで、随分驚いた顔をなさっておられました」
頭の中を覗かれたみたい。
「私も今そのときのことを考えていたの。お怒りね、きっと」
「そうかもしれません」
髪飾り、もらい損ねたかもしれない。まあいいわ。
「こちら、乾かして参ります」
ふふ、とどこか嬉しげな笑いを漏らしたフラニードは、毛皮のコートを抱えそのまま部屋を出て行くかに見えたのに、入り口で足を止めこちらを振り返った。
「おそらく夜には雪になります。あまりお体を冷やされませんよう。窓を開けておくのは半時ほどにいたしますからね」
「ええ」
また、雪。春が近いと思ったばかりなのに。
肩をすくめ返事をして、目を外に向けた。雨。この雨、ラスティも見ているかしら。屋根のあるところにいてくれたらいいけれど。考えを遊ばせていると彼のことばかり考えてしまう。
振り返るといつも通りの顔をした室内があった。整えられ、薄暗い部屋の中置かれた家具が影をつくっている。あの寝台の脇に彼が立っているのを見てからまだ一日も過ぎていないなんて。こんなに誰かひとりが心を占めるのは初めて。
忘れられない。ラスティの手の温かさを、問いかけられた誘いの言葉を。彼の声。あの瞬間湧き上がった自分の気持ち、あれは。
私、彼が好きだわ。
ぽつりと心の中で想いを言葉にした途端、どうしようもなく泣きたくなった。慌ててまた外を見る。私の代わりに泣いているみたいな雨を見て、頭を冷やした。馬鹿ね、バルバロスさまとの婚約式を済ませているのに。
窓から吹き込む風が熱い頬を撫でていくのが心地よくて、椅子に座ったままただ外を眺め続けた。雨はいいわね、私の行けない城壁の上や城の外にまで降りられて。ラスティの庭にも、彼の肩にも誰にも咎められず……いやだ、また彼のことを考えている、やめないと、なにか他のことを考えるのよ――。
「……ん……」
瞼を上げて初めて、いつの間にか眠ってしまっていたのだと知った。雨音はまだ続いている。窓の外の明るさも変わらず、眠った時間が長かったのか短かったのかの見当もつかない。フラニードは鎧戸を半時で閉めると言っていたから、そんなには経っていないと思うのだけれど。
「ん」
ただ体を動かすとあちこち冷えて強ばっていて、そう短い時間でもなかったのだ、とわかる。ひどく寒かった。体に巻き付けていた肩掛けの前を合わせようとして、それが床に滑り落ちているのに気が付いた。
おかしいわね、体にしっかり巻き付けていたのに。椅子から背中を引きはがして身を起こすと、頭が重い。ゆっくり頭を左右に振ると、深いところが痛んだ。くしゃみがひとつ。それも頭に響く。嫌な予感がする、風邪をひいたのじゃないかしら。
「フラニード」
薬湯を作らせて早めに寝てしまおう。そう思って侍女を呼んだのに返事がない。
「フラニード!」
床に落ちていた肩掛けに手を伸ばしながらもう一度呼んだけれど、やはり返事はなかった。指先に肩掛けが触れる。冷たい。弾かれるように手を離した。
「えっ」
よく見ればそれはぐっしょりと濡れて、色を暗くしていた。窓から雨が吹き込んだ? 窓辺も床もたいして濡れてはいないのに。
誰かに問いかけたくて振り返っても、人気のない自分の部屋があるだけで。静かすぎやしないかしら。確かにここは人の少ない棟だけれどいつもはもっと、そう、薪のはぜる音がしたり、煙のにおいがしたり、奥から暖かな熱が床を這ってきていたりした。
暖炉がついていないんだわ。ここに戻って来たときは確かに燃えていたはずよ。フラニードに火を強くしてと言ったのに。
悪意を感じてぞっとする。
歩くと足元がふらついた。体を動かすごとに、具合が悪くなる気すらする。ここに人がいないのなら外へ呼びにいかなければならないのに。降りしきる雨の中、城までたどり着けるとは思えなかった。
寝台に横になって人を待った方が良さそうだわ。夕方には必ず薪をくべに召使いが来ているから。
「良かった、濡れてない」
寝具に手を滑らせほっとした。ここまで濡らされていたら大変だった。上掛けを羽織って、毛皮のコートを被れば。そう思ったのに、いつもの場所に毛皮が見当たらない。そうだ、あれはフラニードが乾かすからと部屋から持っていってしまった。
フラニードがやったのかしら。窓を閉めず、肩掛けを外して濡らし、暖炉を消して毛皮を隠した。これはフラニードにしかできない。だって、他の者がしたのならフラニードが気が付いて注意するはずだもの。
そういえば今日は。
靴を脱ぎ捨て、上掛けの下に潜り込みながら思い出す。そういえば今日は、朝から怒鳴りちらしたせいか、いつもより周囲にある召使いの気配も少なかった。
枕に頭を乗せると沈み込み、意識が重くなるのがわかる。頭が痛くて、寒い。震えが強くなってきて、歯の根が合わずガチガチ音がした。さむい。上掛け一枚ではとても暖まれない。
横を向いて体を丸めた拍子に、胸の上からころりと硬いものが転がってはっとする。そうだわ、ラスティの魔石。首飾りを外し、紐を手首に巻きつけて石を握り込んだ。すぐ彼の魔力が体に流れ込んでくる。あたたかい。貰った魔力を癒やす力に変えて体の中を巡らせながら、赤銅色の目を思い出す。会いたい。ラスティ、あなたがそばにいてくれたらいいのに。
◆◆◆
寝台が揺れ、目を覚ました。ほんの一瞬、またラスティが来てくれたのではと思ったけれど、額に触れた冷たい指の感触にすぐに違うと気づく。
……フラニード。
目を開けると、明かりのついた室内、寝台に腰掛けたフラニードが体をひねって私をじっと見ているところだった。彼女の銀色の髪は下ろされ、肩から胸に滑り落ちて光っている。
「おどき」
出した声は嗄れて、喉が痛んだ。
「おかわいそうにお風邪を召されたのですわ、急に寒くなりましたもの」
私の言葉を意に介した風がまるでない態度。
「お前、暖炉の火を消したわね」
小さく咳き込みながらそれでも言うと、彼女は濡れた紫の目を細め笑った。
「まさか。夢をご覧になられたのでしょう。火は一日燃えておりましたし、私はずっと――ここにおりました」
さら、と解いた髪がフラニードの顔の横で揺れる。城壁の上で並んでいたバルバロスさまとフラニードの姿が思い出された。バルバロスさまの脇に張り付いていた銀色の髪。
「これ、なんですの?」
と、ラスティの魔石を握った指を開かれそうになり、彼女の手を振り払って起き上がった。頭は痛まなかったけれどまだ重い。
驚いた様子で体を反らしたフラニードは、すぐに目を細め私の手を見つめはじめた。嫌な目。目の中で、壁の明かりが揺れている。もう夜なのね。ふと首のあたりを触ると、汗でじっとりと湿っていた。熱っぽい。
「その薄汚れた革紐。いつも首から下げておられますわね。気になっておりましたの。シファードから持ち込まれたものですか?」
首飾りをつけていると気が付いていたのね。着替えやたまの入浴のときは、見られないよう隠し気をつけていたつもりだったのに。魔石を握った手を上掛けの下に差し込んで、フラニードを睨んだ。
「お前に答えてやる義理はない。私の持ち物を詮索するのは金輪際おやめ」
「バルバロスさまにお伝えすることもできるのですけれど」
猫なで声で脅され驚く。
「私だって。暖炉の火を消されたと、バルバロスさまに話せてよ」
冷たく言うと、彼女の頬がこわばるのがわかった。彼女も理解しているのね。言えばバルバロスさまは私の話を信じるだろうと。
「お前が来たばかりの頃ならいざしらず。今私を殺そうとしたと知れば……」
ぐっ、と喉に不快感が溜まる。一度咳込むと止まらず、二度、三度と強い咳が続いた。息を吸うと、ぜい、と喉で音が鳴る。
「バルバロスさまはお怒りになるでしょう」
「こ、ころす、なんて」
「白々しい」
吐き捨てるように言って、フラニードを睨む。急に怯えた顔をした彼女は、やっと寝台から降りてくれた。
「すぐに……薬湯をお持ちします……」
「そうしてちょうだい」
言ってじっと動かずにいると、フラニードのもの問いたげな視線を感じ、内心でため息をついた。彼女の視線が、上掛け下に手のあるのあたりに注がれていたから。
「……宝石が?」
装飾品に対するこの女のしつこさに、いい加減背筋が寒くなってくる。答えずにいたら、眠っている間に体を探られそうだわ。それにバルバロスさまに言いつけられ、調べられでもしたらラスティに迷惑がかかってしまう。彼の秘密の研究の成果だもの。
「ただの病除けの護符よ」
「どんな秘石を? 暖炉のことを秘密にしてくださるなら、私も誰にも話しませんからどうか」
はあ。大きなため息が、今度は本当に口から漏れた。
「ご覧」
手を出しゆっくりと指を広げ、手のひらの上の黒い石をフラニードの鼻先につきつける。フラニードはそれを見て、面白いくらいはっきりとした失望を浮かべた。
「なんですの、これ」
「言ったでしょう、病除けよ」
病除けの護符、思いつきのわりにはいい嘘を思いついた。けれど、これはなにかというフラニードの疑問は、そういうことを聞いてきたのではなかった。
「……鉄鉱石……でもないですわね」
呟くフラニードが突然石を指先でつついたので、血の気が引いた。けれど彼女は中に込められた魔力には気が付かなかったみたい。
少し触れるくらいではわからないのだ。そうよね、このくらいで漏れる魔力なら、服の下で身につけている時点で失われていってしまうもの。ラスティ、すごいわ。
「つまらない。大切そうに隠しておられるから、てっきり珍しい石なのだろうと想像しておりましたのに。まさかそんな石っころなんて……あら、もしや」
フラニードはそこで言葉を切って、私の手から顔に視線を移してきた。その目は、意地の悪い暗い喜びを滲ませている。
「故郷で“いいひと”から渡されたものとか?」
「変な勘ぐりをするのはおよし」
できる限りの軽蔑の気持ちを乗せた視線を送っても、フラニードには通じなかった。すっかりその思いつきが気に入ったようで、何度も頷いている。
「みすぼらしいものを大切にされておられても、それなら合点がいきますわ」
「お前、さっきから人の護符を石ころだのみすぼらしいだのと、いい加減になさい」
ぴしゃりと言うと、ようやくフラニードは口を閉じた。けれど私の苛立ちはおさまらない。
「お前とは話したくない。薬湯はカラルに用意させて」
今はこの侍女より、カラルから手渡されるものの方が安心できる。フラニードが部屋から出て行く気配を感じながら、手首から紐をほどいた。
このまま身に付けていて大丈夫かしら。でも。ぐるりと部屋を見回したけれど、隠せる場所などどこにもなかった。手近に持っていなければいざという時使えないもの。
フラニードの口が軽くないことを祈りながら、ラスティの魔石を元通り胸に飾って横になる。ありがとうラスティ、これがなければ凍えて死んでいたかもしれない。それか、もっと重い病を得たか。
たしかにこれ、病除けね。そう考えると口元に笑みが浮かんだ。
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