第56話 蛇


 私が笑って見せてからラスティは私を見なくなった。不愉快だったのかしら。正直、心細い。

 見知らぬ魔術師がひとり、一抱えある木箱を持ってきてラスティに渡した。彼が私のそばに用意された机の上にそれを置きに来た時にも、彼は箱ばかり見てこちらをちらとも見なかった。


「それはなに」


 だからせめて声が聞きたくてそう言った。ラスティがいてくれると感じられると、恐怖が薄れたから。


「……蛇だ」


 返ってきた予想外の答えに、小さな悲鳴が口から漏れた。


「牙は抜いて眠らせてある、危険はない。毒や咬むという意味でならだが」

「そっ、それをどうするの」

「俺は話す立場にない。向こうに聞け」


 ラスティはやっぱり私を見ず、顎で壁際の椅子に腰掛けているバルバロスさまと、そのそばに立つエーメの方を示した。


「どうした」


 やりとりを眺めていたのか、バルバロスさまの声が飛んできた。


「これからのことが知りたいと言っている、伝えて構わないか」

「知る必要はないと伝えろ」

「聞こえたな」


 短く無感情に言われ、頷くしかなかった。ラスティは私を見ていないんだから、伝わらなかっただろうけれど。


「用意は整った」

「バルバロスさま、ご覧になってゆかれますか?」

「無論」


 私を抜いて周りで事が進んでいく。これからなにか――ラスティが前に話してくれた、気味の悪い魔力の私への移動――が始まるのだろうと思うと、不安でかたかたと指が震えた。ただその不安を、ラスティのマントがしっかりと隠してくれていると思うと気持ちが楽になった。目を閉じそっと息をつく。


 もうこれ以上、怯えた姿を見られたくない。下着姿で木の板に縛り付けられていたって私はシファードの領主の娘なのよ。

 

「これか、小さいな。もっと大きなものがいなかったのか?」


 間近でしたバルバロスさまの声に驚いて目を開くと、いつの間にそばに来たのか、バルバロスさまがラスティの横に立って傍らの箱をのぞき込んでいた。

 無造作に箱に手を入れたバルバロスさまは、前触れもなく魔力を溢れ出させた。ラスティのに似た熱い、けれどとても不快な魔力が私の体に入り込んできて、たまらず顔をしかめる。私の足元から回り込んでやってきたエーメが、興味深そうに私を見ていた。


「ふむ、ここまで魔力に満たされまだ形を保っておるのか」

「入れたばかりだからだ。じきに崩れる」


 だらりと紐のように力を失った蛇が、バルバロスさまに持ち上げられ姿を見せた。男の親指ほどの大きさの蛇の頭が、バルバロスさまの手に握られている。バルバロスさまは小さいとおっしゃったけれど、顔の近くで揺らされるぶんには充分恐怖を感じる大きさだった。


「よし、すぐに始めろ」


 バルバロスさまが箱に蛇を戻すと、溢れていたバルバロスさまの魔力も消えた。そういえば、熊の騒ぎの時にラスティが、あの魔力に入り込まれないようにと魔力を放出していたわ。同じことをしていたのね。

 

 それなら、次はきっと。


 温かな馴染みのある魔力が、私の頭の方から広がってくる。ラスティの魔力。今度はラスティが蛇を持ち上げる。同時に突然胸の上が軽く頼りなげになった。


 私を挟んでバルバロスさまの向かいに立っていたエーメが、ラスティのマントを剥ぎ取ったのだ。反射的に腕を動かしてしまい、手首の拘束に阻まれる。裂かれた布の端が揺れていて羞恥が煽られた。でも、彼らに動揺していると気取られたくない。


「失礼いたしますイルメルサさま、魔術師の持ち物ゆえ魔力の流れに支障が出るやもしれませんので」

「断ってから取りなさいエーメ、無礼よ」


 静かに言うと、エーメは眉尻を下げ、曖昧な笑みを口元に浮かべて見せてきた。気にくわない。内心私を軽んじている顔だわ。


「これからこれを、腹の上に置くが動かないでくれ」


 ラスティの声が降ってきて、近づく蛇に気が付いた。だらりと下がった尾が私のお腹、ちょうどへその上あたりで揺れている。それが少しずつ下がってきて。


「置く、って……あ!」


 薄い生地越しにも、ひんやりとした蛇が体に触れたのがわかった。ひんやりして、重い。


「いや!」


 蛇がいや。体が動く。あちこち拘束されたところがぎしぎし鳴った。肌が粟立つ。頭をあげてお腹を見ると、蛇が私のおなかの上にべたりと力なく乗っている、それがいやだ。

 蛇も気持ちが悪いのに、その上薄気味の悪い魔力が勝手に体に流れ込んでくる。はあっ、とたまらず吐く息が、白くないのが不思議なほど冷たい、身の内が凍える魔力。

 蛇は私の下着にぴったりはりつきお腹に乗って、動かない。動かない……。


「急におとなしくなったな」


 バルバロスさまの声が聞こえた。おとなしい。私? そうね、体の内側がゆっくり凍りついていくみたいで、動く気になれない。蛇を見るのもやめ、頭を戻して、また目が覚めた時のように天井を見あげた。

 バルバロスさまとエーメが私を見ている。ラスティはどこ。


「全て移るのにどのくらいの時間がかかる?」

「今日は少量ゆえ、半時もかからぬでしょう」


 バルバロスさまとエーメの会話が、ひどく遠くに聞こえた。ラスティは。ラスティがいたはずなのに。


「動けますか、イルメルサさま、私を見ていただけますか」


 エーメが顔を覗き込んで来た。言われるまま彼を見ると、エーメは満足げに頷いた。


「ご気分はいかがです。どこかに痛みは?」

「……どこも痛くはないわ、すごく冷たいの、それだけ」


 “それだけ”――そう言ったとき、ほんの一瞬だけエーメの顔に恐れが見えた。でもそれは、すぐに取り繕う曖昧な笑顔で消されてしまう。


「お寒くは?」

「寒いと言えばなにか着せてくれるの」

「これは、手厳しい」


 はは、と笑ったエーメは、ちらと顔を上げ誰かに目配せをした。多分ラスティに。


「暖炉の火を強くして差し上げなさい」

「ああ」

 

 私の頭の真上あたりでラスティの声がした。返事と同時に、私の視界にゆらりと姿をあらわしそのまま歩いていく。あなたそんなところにいたの。見えないはずよ。

 暖炉は、私の足元の方の壁にあった。すでに赤々と火が燃えている。ラスティはのんびりと歩いてそこまで行くと、魔術を使って火を強くしてくれた。炎が勢いを増したのですぐわかる。

 戻ってきたラスティは、今度は私の足元で立ち止まった。ラスティの姿が視界に入る。


 誰も口を開かない。時折聞こえる薪の爆ぜる音と、絶え間なく私の中に流れ込み流れ去っていく魔力の気配だけが、時間が動いていることを伝えてきていた。


「魔術師ラスティ」


 いくらかの沈黙の時間のあと、エーメが彼を呼ぶ声に、ぼんやりしていた意識を引き戻された。


「なんだ」

「一度イルメルサさまに触れてみてくれるか」

「自分でやればいいだろう」


 私を無視したやりとりに腹が立つ。ラスティが拒否したのにももやもやするし、それになに、“一度”?


「許可なく私に触れるなど許さないわ」


 ラスティとエーメを交互に睨みながら言うと、バルバロスさまの笑う声が横から聞こえた。


「睨むな、シファードの。許さないとは、どうやって拒むつもりだそのなりで」

「それは……」


 なにもできない。手を伸ばされてもなにも。言いよどんでいると、バルバロスさまは灰色の瞳に浮かぶ侮蔑の色を隠そうともせずこう続けた。


「お前たち、これがなにを言おうが気にせずともよい、この私が許す。ただしこれの肌を汚すことだけは決してあってはならんぞ」

「心得ておりますバルバロスさま」


 肌を汚す。その意味するところに思い至って、かっと頬が熱くなった。


「これの持つ物で価値のあるものなど、持参した土地と肉体だけだ。純潔くらい保たせておけ」


 あまりな言われように、今度は血の気が引いて言葉を失った。同時になぜか、お腹の上の蛇から流れ込む魔力の量が増えた気がする。通り過ぎるだけで流れ落ちていた魔力が、急に粘度を増して。

 まるで私自身がこの魔力を受け止めようとしている感じだった。心が、憎しみを形にしようとしている。

 なんなのかしら、これは。とても冷たいのに熱い。


「そう命じるならまともな衣服くらい身につけさせておいてくれ、領主」


 ラスティの声が耳から入ってくると、固まりかけていた魔力の姿がぼやけた。とろりと溶けでもしたようにとらえどころのない姿に戻った魔力は、私の中をふたたび流れ落ちていく。


「領主が丁重に扱う女に劣情を催す命知らずはそうはいないだろうからな」


 そう言ったラスティは軽く腰を屈め、なんの前ぶれもなく私の足首に触れた。突然で、息が止まるかと。


「魔力は、なにも感じない――まるで死体だ」


 ゆっくり話すその間、ほんの少しだったけれどラスティの魔力が流れ込んできた。言い終わり手が離れていくまでの、短い間。

 

「そうか。夜にもう一度、量を増やして試してみるか……イルメルサさまのご体調の変化も併せ」

「おいっ!」


 ラスティの鋭い声と同時に、お腹の上の蛇が急に発火でもしたのか激しい熱を放った。熱い? 痛い!


「い……!」


 たまらず声をあげた時には、既に蛇はラスティの手で私の上から叩き落とされていた。エーメのいる方に。落ちてしまった蛇は見えないけれど、床の方から白くひんやりした煙が昇ってきている。


「予測していたより随分と早く終わった」


 エーメが驚きと焦りの滲む声でつぶやいた。バルバロスさまも回り込んできて、蛇の落ちたあたりを見下ろしている。ふたりが、私の心配をしていないとよくわかる。


「前に見た時とは崩れ方が違う。あのときは、泥のようになっていたな」

「形を失う時点で魔力が失われていたからでしょうか。おっしゃるとおり、これは乾いて崩れています。とても興味深い」


 蛇の乗っていたところがひりひりと痛む。バルバロスさまは私に傷をつけるなとおっしゃったのに。


「痛むか」

「ひどいわ、蛇が燃えるなんて聞いてない!」


 痛いのに手を当てさすることもできない、そこに声をかけてきたラスティに思わず不満をぶつけてしまった。


「燃えてはいない、急激に凍りついた。凍傷を負ったかもしれないな。いつもと経過が違って気づくのが遅れた」


 お腹の上にラスティの大きな手が乗るのが見え、すぐに魔力を感じた。温かな、癒やしの力。


「すぐに払った。傷は恐らく皮膚の表面だけだろう、布越しだがこれで治るはずだ。まだ痛むか?」


 痛みはすぐに消えた。ラスティの言うとおり、ほんの軽い傷だったのだろう。


「……まだ痛い」


 床に目を落とし話し込んでいる、エーメとバルバロスさまに視線を向けぽつりと呟いた。


「わかった」


 ラスティの手から流れ込む魔力の質が変わった。癒やしの力ではなく、彼の魔力がそのまま流れ込んでくる。バルバロスさまたちに怪しまれないかしらと心配になった頃、それは唐突に打ち切られた。


「もういいだろう。エーメ、次からはなにか敷いた方がいいと思う。なにが適している?」


 お腹から手を離したラスティは、必要以上には私を気遣わずエーメに声をかけている。


「魔法陣で強化した布か羊皮紙がいいのではないか」

「魔力の流れを阻害しては意味がない、図柄を見直すとして……夜までに用意できるだろうか」

「魔法陣ならばモルゴーが詳しい。話してみるといい――これは、バルバロスさま、失礼を」


 魔術師らしく頭を突き合わせ話し込んでいたふたりだったけれど、礼を欠いていることに先に気がついたのはエーメだった。


「よい。私は戻らせてもらうが、続けておれ」


 腕を組んでふたりを見つめていたバルバロスさまは、二度ほど小さく頷くと、まだ拘束されたままの私を見もせず部屋から去っていった。

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