第48話 深夜の訪問者


 部屋は暗い。なにが起きたのかわからない。ラスティの声に似ていた。夢なの? 夢を見ている? でも、いいえ、確かに近くに人の気配がある。魔術師塔に満ちていた、薬の匂いが微かに香った。


「叫ぶな、俺だ、ラスティだ」


 寝台が揺れたあと、今度は少し離れたところからもう一度声がして、部屋に小さな光が出現した。魔力の光。それに照らし出され、寝台の脇に黒いマントを身につけフードを目深に被った男が姿を現した。男の影が生き物のように動いて私の喉元まで伸びてくる。

 驚いて身を起こした私が口を開くより早く、彼の手がフードを外した。


「ラ……」


 名を呼びかけた私に、彼はひとさし指を唇の前に立てて見せてきた。あわてて手で口を押さえ頷く。そうしながら部屋を見回し耳を澄ました。静かだわ、とても静か。深夜なのね。だからかしら、まるで城中が建物まで眠りについているみたい。


「伝えなければならないことがあって来た」


 ラスティの声は潜めていて小さく聞き取り辛い。彼に近い寝台の端まで移動して脚を降ろした。ラスティもそれに合わせ、私に一歩近づく。そうしてから身を屈め、私の顔をまっすぐ見つめてくる。真剣な眼差しだった。


「魔術師塔にはもう来るな」

「どうして……?」

「魔術師連中と領主が、お前の体質に興味を抱いた。ここの禄でもない研究に巻き込まれはじめているぞ」


 そう言われ一番に浮かんだのは、庭で見た小熊の姿。それから魔術師塔で飲まされた黄色いお茶。


「どんな理由をつけてもいい、呼ばれた時は拒否しろ。あいつらもそう強くは出てこないはずだ、なにしろお前のような人間はそうそういない。貴重なものだからな」

「貴重……だから、バルバロスさま、お優しくなられたの……」


 食事の席での笑みを思い出しつぶやくと、ラスティが変な顔をした。む、と込み上げる怒りを抑えるように眉根を寄せ、唇を引き結んでいる。


「優しい? あれが? お前の目は節穴か」


 言い捨てられかちんときた。


「表面上だけなのはわかっているわ。でも、だって、それだけでも随分過ごしやすいの」

「こんな傷をつけられて?」


 ラスティの手が無遠慮に伸びてきて、私の唇の端に触れた。昼間バルバロスさまに戯れに抉られたところが痛む。


「……それでもよ」


 傷にそっと触れるラスティの指、それをはねのけられなかった。気づいてくれていて嬉しい。


「なぜ治癒させない」

「治してしまえばご気分を害されるかもしれないでしょう」

「馬鹿馬鹿しい」


 彼らしい物言いに小さく笑うと、ラスティの手は離れていった。屈んでいた体を伸ばし立ち上がる、その姿に不安になった。


「もう行ってしまう?」

「いや――まだ、いられる。半時ほどか」


 帰ってしまうのかと思った。返ってきた答えにほっとした。でも、半時もいられるなんてそれはそれで心配になるわ。


「見つからない? よくここまで来られたわね、夜間にも兵士がいるでしょう?」


 それにフラニードも。少し離れたところに部屋がある。


「魔術を使った。このあたりの生き物は全て眠らせてある、心配ない」


 生き物を、すべて。


「そんなことができるの?」

「出来る」


 どこか自慢げなラスティの返事に胸のあたりがくすぐったくなった。誰もいない部屋でラスティと話せるなんて久しぶりだもの。


「それより返事は」

「え?」

「やはりか。忘れるな、俺がなにを伝えにここまで来たのか」


 そうだった。魔術師塔へ行くなと忠告をしに来てくれたのだ、危険を冒して。


「わかったわ、どこまでできるかわからないけれど……あ、っ」

「どうした」

「明日、早速行く予定になっているの。薬草園までだけれど。そこでお茶を飲んで、それから見張り塔に登らせてくれるって」

「断れ」

「でも……」


 楽しそうだと思ったのに。危険と言われても実感はなく、すぐに返事を口にできない私に、ラスティは再び近づいてきた。床に片膝をつき、私と視線を合わせる。


「庭の熊がどうなったか見ただろう」

「え、ええ」

「この地には、薄気味の悪い魔力を生み出し続けるなにかがある。だがその魔力は魔石には移せない。それを宿らせられるのは、命あるものだけ」


 突然始まった話だったけれど、モルゴーの時とは違い不思議とラスティの話は頭に残りやすかった。


「それでも純粋に長くは保てない。器が小さければすぐに形が崩れ、大きくとも知性があれば、異質な魔力に恐怖を感じ内から崩壊していく……そう考えられていたんだ、お前の存在に気が付くまでは」

「私?」

「ここ何年かは熊を使って研究を進めていたようだがそれも行き詰まってきたらしい。熊の魔物を作り出しては野に放つ日々。そこにきてこの間の庭の騒ぎ。お前があの魔力の中を平気で歩いていた姿にはさすがに俺も驚いた」

「平気ではないわ、気持ちのいい場所ではなかったわよ」

「ああ。ともかく、それで奴らはお前に興味を持ったんだよイルメルサ。お陰で早々殺される危険はなくなっただろうが」


 そこで言葉を切ったラスティは、私に顔を近づけ、ゆっくりと静かにこう言った。


「生きていることが苦しみとなる日々もある」


 彼の言葉の意味するところを考え、背筋の凍る思いがした。脳裏に、苦しげに蠢いていた小熊の姿が浮かぶ。恐ろしかった。あんな風になってもなお生き長らえさせられる。いつか魔物になるのかしら。人間の魔物なんて、古い詩にうたわれたものしか知らない。


「魔術師塔で眠った時、私なにをされたの」

「魔力を移した鼠を運ばせ、例の魔力を少量流していた。お前はぐっすりと眠っていたよ。どんな生き物も違和感で目を覚ましていたというのに」

「で、でも、少しの魔力なんて、私の中を通りすぎていっただけでしょう?」


 ぽとりと落ちた不安の種が芽吹くより先にそれをとり払いたくて言ったのに、ラスティはほんの少し目を細め私を見た。気遣う様子の視線に心臓が大きく鳴る。


「俺もそう思った。心配はないと。ただジーンがお前に近づかなかったのが気掛かりだ」


 そう言ったラスティは、突然そっと私の手に触れてきた。膝の上に置いていた手は、自分でも気が付かないうちに強く握りしめていたけれど、それを優しく開かされた。


「これを。うまく使ってくれ」


 そこになにかを置かれた。手のひらの上に、馴染みのある重み。視線を落とすと、そこには以前ラスティに貰ったものによく似た首飾りが乗っていた。砕かれた魔石のかわりに、前のものより大きなものがつけられている。


「嬉しい。なくなって不安だったから」


 微笑んで顔をあげると、ラスティが私を見ていた。視線がぶつかり合い、彼の目が戸惑いの色を乗せ揺れる。短い沈黙が部屋におりた。


「俺の魔力を与えてもいいか、今、お前に。俺の力で、中に残ったものを消せるか確かめたい」


 静けさを破ったのはラスティだった。視線を落とし、繋いだ手を見ている彼が、感情の見えない声で言う。


「ええ、もちろん……」


 もちろんよラスティ。それは最後まで言えなかった。彼の魔力が指先から流れ込んできて、そのぬくもりに声が途切れる。思わず目を閉じた。こうして彼の魔力を受け取っていると、自分の中に冷たい別の魔力――モルゴーが闇の魔力と呼んでいた――が小さな小さな棘となっていくつも刺さっていたのがよくわかる。それはラスティの魔力で溶かされ、押し流されて行った。


「もう大丈夫みたい」


 目を開けそっと伝えると、流れる力はすぐに止まった。本当はもっと欲しかったけれど、これ以上は体に残ってしまう。


「これで明日はジーン、そばに来てくれるわね」

「……ああ、おそらく」


 呟いた彼は動かなかった。私の手を握り床に膝をついた姿のまま黙り込んでいる。たぶん、言葉を探して。私も言葉を探す。なにか彼に言葉を――。


「そうだわ、ラスティ、これをあなたに返したかったの」


 今渡してしまうのがいい。次に人目を避け話せるのがいつになるかわからないのだから。名残惜しかったけれど、ラスティの手から指を抜いて首飾りを脇にそっと置いた。それから手を胸元に移動させはっとする。私ったら、なんて場所に仕舞っているのよ。


「どうした?」


 急に動きを止めた私を不審に思ったのだろう、ラスティが怪訝そうに目を細め私を見た。見られていると余計取り出しにくいのに。


「あの、ね、ここしか、隠し場所がなかったの……あちらこちら、侍女が漁るから」


 フラニードに罪をなすりつけながらおずおず手を移動した。胸元の少し開いた寝間着の隙間から指を入れ、刺繍を施した布を取り出す。頬が熱くなる。


「これ。洗う暇はなかったけれど、でも、ほらここに刺繍を入れられたのよ。あなた嫌がるかしら」


 一度取り出してしまえば、短い時間で刺せた刺繍に勇気をもらえた。彼の頭文字を上に向け見せつけると、今度はラスティが動きを止めた。


「――ラスティ? いやだった?」


 彼の顔を覗き込む。と、ラスティは私の手から布を引ったくって奪い、ふいと視線をそらした。戸惑った表情。魔力の白い光に照らされた耳が少し赤い。


「あなた照れているの?」

「違う」


 ぶっきらぼうな彼の返事に、以前の記憶が蘇る。


「前にも、こんなやりとりしたわね」

「覚えていな……」

「そう、忘れてしまったの」


 ラスティの答えに心底がっかりした。浮かびかけた笑みが消えたのが自分でもわかった。途端、ちら、とこちらに視線を向けたラスティが悔しそうに口を開く。


「……くはない。覚えている、あった。だが俺は別になにも」

「わかったわ。あなたは照れていないのね。それ受け取ってくれて?」


 らちがあかないので、話を戻した。どこから取り出したのかは、もう忘れてしまおう。


「受け取るもなにも、もともと俺のものだ」

「勝手に刺繍をしてしまって怒っていない?」


 一番気になっていたことを聞くと、ラスティはいつもの彼の顔に戻って手の中の布を見てくれた。空いた手の指で、彼の頭文字をなぞっている。


「ああ。怒るものか。持ち物に刺繍など……生まれて初めてだ。ありがとう」

「あ」


 “ありがとう”

 まさか、そんなまっすぐな言葉が彼の口から出てくるとは思っていなかったものだから、言葉に詰まった。


「ありがとうなんて……それを言うのは私の方だわ。パンも、他にもたくさん、ありがとう」

「他?」

「何度も助けてもらっているわ、今だってこうして来てくれた。また、こうして会いに来てくれて?」


 肯定の言葉が返ってくると信じていたのに、ラスティは黙って首を横に振った。


「一時に幾人もを眠らせる魔術だ、繰り返せば怪しむ者が出るだろう。次はない」

「……そう……」


 今夜だけなの。

 そう知った途端、胸をぎゅうとつかまれたような息苦しさが迫ってきた。次はない。口を開いたら心細くて泣いてしまいそう。

 黙って脇に置いた彼の魔石を指で撫でていることしかできなかった。いたずらに時間だけが過ぎる。半時なんて、きっともうすぐ経ってしまう。

 でももう、なにを言えばいいのかわからない。


「イルメルサ」


 沈黙を破ったのは、また彼の方だった。名前を呼ばれ顔を上げるのと、ラスティが私に近づくのは同時だった。つま先が彼のローブに触れる。ラスティはそうして私に近づいて、ひそめた声を出してきた。


「この夜しかない」


 みな、眠っているのに。彼の声に滲む切迫した響きに、心臓が早鐘を打つように鳴りはじめた。


「連れて逃げてやろうか」

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