第47話 予感


 ラスティの視線に気が付いてからは、バルバロスさまからかけられるお優しい言葉の数々が、薄気味悪く感じられてきて仕方がなかった。


 まるで魔術師塔の秘密の部屋みたい。隠された扉があると気がつけても、奥になにがあるのか私にはわからない。浮かべる笑みが不自然なものになっていませんようにと祈りながら、パンを千切っては口に運ぶ。

 バルバロスさまの無関心に悩まされていたのに、関心を向けられても悩ましいなんて。葡萄酒の注がれた杯を手に、机に肘をついたバルバロスさま。彼から向けられる視線におさまりの悪い気持ちを抱いていると、


「なにも不足はないか?」


 こんな言葉までかけられて、危うく口に入れていたパンが喉に詰まりそうになった。杯に手を伸ばして葡萄酒を飲む。飲みながらそっと隣を見ると、変わらずバルバロスさまが私を見ていた。

 不足はないか。


「はい。満足しております。ここの者たちは過不足なく世話をしてくれますので」

「嘘がうまい。よく教育されておるな」

「うそなど……」

「ここの女主人となるのだ、滝のごとく本音をもらす者では困る。褒めておる」


 そう言ってバルバロスさまがまた笑った。自信に満ちた人間の笑い方。こういった態度に、みなバルバロスさまに心酔していくのだろう。私にはないものだ。


「今日このあとはなにをして過ごすつもりだ?」

「部屋で刺繍でもして過ごそうかと思っております」


 正直に考えていた予定を話した。と、杯を机に置いたバルバロスさまの手が、こちらに伸ばされてきて体が強張った。殴られるのかと。


「ふむ、魔力は感じない……か。血色がよいからもしやと思ったのだが」


 殴られはしなかった。硬く大きなバルバロスさまの手のひらが、私の頬に触れてはいたけれど。冷たい手のひらに、殴られないとわかっても体の緊張を解けなかった。


「どうした、私が恐ろしいか」

 

 皮肉げに唇を歪ませ笑ったバルバロスさまが、触れる手をそのままに私の顔を覗き込んできた。灰色の瞳に怯えた顔の私が映っている。


「……いいえ」


 小さく答える声が震えた。心が見えなくて恐ろしかった。でも恐ろしさよりもっと大きかったのは嫌悪感だ。黄色い歯をした異国の盗賊に髪と首を撫でられた、あの時の記憶が蘇ってくる。


「そうか。私は、お前を恐ろしく感じたことがあるが」


 急に声をひそめ、バルバロスさまが私にだけ聞こえるように語りかけてこられた。頬に当てられていた手の指が動く。バルバロスさまの親指が、私の唇を優しく撫でた。一度、二度と。離れたところからは、愛を囁かれている風に見えているかもしれない。


 どう反応すればいいのかわからず、動けずにいた私の唇の上を動いていたバルバロスさまの指が止まる。その途端、突然小さな、けれど鋭い痛みがそこに走った。


「っ!」


 なんとか声を出さずにやり過ごす。目の前のバルバロスさまが、私の唇をみつめ不満そうに目を細め笑った。


「赤い血は流れているのだな」

「はい」


 話すとひきつれ痛む場所があった。そっと舌と唇を動かして舐めると、血の味がする。下唇の左のあたりに、爪で傷をつけられた。

 

「パン屑をつけておられた、お可愛らしい」


 私の方に傾けていた体を起こし、元の通り椅子に座り直したバルバロスさまがよく通る声でそう言って指を舐めると、騎士たちの間から囃したてる声が複数あがった。


 嫌。


「ありがとうございます」


 いやだったけれどそう言って笑い、手近な布を取り唇を押さえ俯いた。

 口の端を拭くふりをして傷を押さえながら、広間の様子を伺った。騎士たちのほとんどは、楽しそうに私たちを見ていた。魔術師たちも、いつもより気楽な表情でこちらを眺めてくる。


 その和やかな雰囲気が悲しくて、目に涙が滲んだ。


 ◆◆◆


 午後は窓辺で刺繍をして過ごした。晴れているから部屋の明るさもじゅうぶんで、針が進む。本当はラスティの布に彼の頭文字を刺したかったけれど、フラニードがいるので無理。

 フラニードは部屋の隅の椅子に腰掛けていて、時折話しかけてきた。最初のうちしばらくは考えて返事をしていたけれど、刺繍に集中して空返事をするのが続くと、お茶を用意してまいります、といって部屋を出て行ってしまった。


 この侍女がお茶を、といって出て行った時はゆうに一時は戻らない。それだけあれば文字ひとつ、急げば刺してしまえるわ。

 大きくかさばる刺繍枠を窓辺に立てかけ、胸元に隠していたラスティの布を取り出した。古びた粗末な灰色の布。手触りも荒い。


「……何色にしようか」


 赤がいい。でも、目立ってしまうわね。確か、シファードから運ばせた荷の中に、少し黄みがかった白の糸があったはず。あれで刺せばそのうち似た色にかわっていくだろう。


 彼の布に刺す糸を選んでいるだけで気持ちが浮き立ってきた。きっとラスティ、嫌な顔をするに違いないわ。その時にはなんて言ってやろう。


 収納箱のところまで急いで歩いた。蓋を大きく持ち上げる。と、開けた瞬間、なんとも説明のしにくい違和感を感じた。なにが、というわけではないのに。

 一番上に置いてある、刺繍糸を仕舞ってある小箱はすぐに見つかった。違和感を頭の隅に残したまま箱に手を伸ばし、気が付く。

 中のものが、いつもよりほんの少し雑に動かされた形跡があった。誰かが底の方を漁ったんだわ。多分フラニードが。彼女が来るまでこんなことは一度もなかったもの。

 小さくため息をついて、糸を入れた箱を手に取って立ち上がった。残念だったわね、特別な宝飾品は持っていないのよ。


 持っている中で一番高価なものは、いつも身につけているこの婚約の指輪だし。左手の指輪に目をやって、ふと橋の上でフラニードがこれに向けていた視線を思い出した。どこかじっとりとした、羨みの滲む視線。


 なぜか胸騒ぎがして、普段使っている髪飾りや櫛を置いている棚に向かった。いくつかの髪飾りを入れた木箱を覗き込む。無くなったものはないみたいだけれど。


「……いやだ」


 中から、ひとつを持ち上げ呟いた。銀製の、葡萄の蔓を模した髪飾り。そこに、銀色の細く長い髪が一本絡みついているのを見つけてしまったから。


 髪を飾ってみたのね。私のいない隙を見計らって私の荷を漁り、髪飾りをつけた。不思議と怒りは湧かなかった。心に静かに広がったのは、フラニードへの強い軽蔑の気持ち。

 ぎゅ、と下唇を噛むと、さっきバルバロスさまに傷をつけられた場所がひきつれて痛んだ。何を盗まれたわけでもない、この程度のことで騒ぎ立てれば笑われる。私が彼女の美しさに嫉妬している、と楽しそうに陰口を叩かれるだけよ。


 付いた髪はそのままに元の通り髪飾りを置いて、窓辺の椅子に戻った。くだらない。頭を悩ませる時間が勿体ないわ。



「あまりお進みになりませんでしたのね?」

「考えごとに気を取られたのよ」


 予想した通り、フラニードが午後のお茶と菓子を持った召使いと毒味役を従え戻ってきたのは、たっぷり一時も経ったころだった。

 戻って来るなり私の手元をちらりと見、もともとしていた刺繍の進みの遅さを指摘してきた。進むわけがない、ラスティの布にひと文字刺していたのだから。完成した秘密の布は、胸元に大切に隠してある。


 フラニードの衣装の腰のあたりにしがみつき立っている毒味の子供リュイも、恐る恐るといった感じで私の刺繍を見つめている。


「遅かったわね」


 ちくりと嫌みを言うと、フラニードは悪びれもせず、艶やかな笑みを顔に浮かべた。私の荷を漁っていながら、平気な顔で立っていられるのね。ちら、と浮かんだ感情を意識して散らす。考えても仕方がない。


「これが焼きあがるのを待っておりました」


 差し出された籠には、くだいた木の実を使った薄く固い焼き菓子が入っていた。


「私がおりました修道院でよく作っていたものです、朝から命じてあったのを見に」

「そう」


 手を伸ばし一枚摘まむと、まだほんのり温かい。それをリュイの方に差し出す。


「お食べ」


 リュイはおずおずと進み出てくると菓子を受け取り、素早くぱくりとひとくちで食べてしまった。ひとくちでは大きすぎるのに。

 案の定、もごもごと口を動かし困った顔をしてフラニードを見上げているリュイを見ていると、おかしくなって吹き出してしまった。


「早くお茶をこの子に」


 お茶の用意をしていた召使いに命じ、刺繍枠をうつぶせて窓辺に置いた。それから私も菓子を一枚取り上げ端を割った。欠片を口に入れると少し固かったけれど、木の実の香ばしさと甘味を感じられて美味しい。


「おいしいわ」

「ありがとうございます」


 組み立て式の机が手早く用意され、茶器にお茶が注がれて行くのを見ていた。いつもの香り。いつものお茶だ。


「実は先ほどバルバロスさまにお会いしたので、城壁を上らせてもらいたいとお願いしてみましたの」

「城壁に?」


 思いも寄らない話題だった。顔を上げると、どこか自慢げな表情のフラニードが私を見下ろしている。


「はい。城壁にある見張り塔のひとつに登ってもよいと。もちろん兵士がおりますけれど、町を一望できる眺めのよい場所ですわ」


 とても嬉しい知らせだった。よい気晴らしになるだろう。


「嬉しい。いつ行けて?」

「ご体調がよろしければ明日にでも。魔術師塔の横を通りますから、薬草園でお茶を飲んでから行くのがよい、とおっしゃっておられました」

「明日ね。今日みたいに晴れるといいのに」


 楽しみだわ。塔の隠し部屋には行きたくないけれど、薬草園なら別。ジーンはいるかしら、明日はそばに来てくれるといいのに。


「鴨にやるパンを用意しておいてちょうだい、それとチーズも少し」


 ◆◆◆


 城壁に登れるという翌日の予定が楽しみで、夜はなかなか寝付けないかもしれないと心配していたけれど、全く無駄な心配だった。そもそも今朝はずいぶん早くにモルゴーにここを訪ねられ、あまり眠っていなかったのだ。

 

 眠りの手に、強く引かれながら目を閉じる。

 すぐに夢も見ない深い眠りへと引きずり込まれた。


 というのに。


「起きろ、イルメルサ」


 寝台の軋む音と同時に耳元で囁かれた低い男の声に、眠りの底から連れ戻された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る