第49話 差し出されたその手を


「連れて、逃げてやる」


 言葉をなくす私に、もう一度今度はゆっくりと繰り返したラスティは静かに腕を上げ、鎧戸の閉められたままの窓の方をゆびさした。その手の動きに導かれ私もそちらを見る。


「ここを出て、北の山を越える。国境はそう遠くない」


 あまりに突然の誘いで、考えがついていかない。それでもだんだんと、ラスティの言っていることが心に降りてきた。私とこの国から逃げてくれると。


「もちろんジーンも連れていく」


 ラスティとジーンと、私。洞窟にいた時みたいに自由に暮らせるだろう。晴れやかに笑う自分の姿が脳裏に浮かび、幸福感で胸がいっぱいになる。でもすぐにそれは遮られた。旗が。青いシファードの旗が記憶の中で翻って。


 ラスティの顔が見られない。うつむいてぎこちなく、頭を横に振った。身を切られるよりつらい痛みが胸に走る。


「私が消えれば妹が……アリアルスがかわりに嫁がされるわ、拒めば戦になる」

「こんな機会は二度はない、イルメルサ、よく考えろ」


 と、ラスティが私の二の腕に手を添え、ほとんど無理矢理私と目を合わせてきた。彼の目は真剣で、本心から私の身を案じてくれていると一目でわかる。

 私も真剣に言葉を選ばなければ。落ち着かなくて、膝の上に置いた手で、寝間着の生地を掴んで揉んだ。


「ラスティ、私」


 そこまで言って言葉を切る。だって、言いたくない。言いたくないのに言わなければならないから。唇が震えた。目頭が熱くなる。


「行けないわ」


 涙がこぼれそうになるのを必死でこらえると、ラスティの姿が滲んだ。まばたきをすると涙が一粒こぼれ、膝に置いた手の上に落ちる。


「行けない」

「……わかった」


 また沈黙。頬が熱い。涙が次々あふれてくる。


「泣くな」

「無理よ」


 ごしごしと私の頬を拭う彼の手の乱暴さに、こんな時なのに小さく笑うことができた。笑うと不思議と涙も止まる。それを見たラスティが私から離れた。腕と頬に触れていた彼の手も離れていく。

 大丈夫、私は間違っていない。アリアルスの顔を思い出す。まだ幼さの残る健康な妹の笑顔。シファードの城を取り囲む農地、そこここから昇る領民たちの生活の煙。それを思い出す。間違っていない。


「じき、あたりに掛けた術が切れる」


 立ち上がったラスティが黒いマントのフードを被ったのを見て、行ってしまうのだとわかった。


「ええ。気をつけて。来てくれてとても――嬉しかった」

「横になれ、眠らせてやろう」


 魔力の明かりが小さくなっていくのを見ながら、言われた通り横になって上掛けの中に体を滑り込ませる。光が消え、ラスティの姿も闇に溶けて消えた。かわりに、額に彼の手のひらが触れる。


「ラスティ、ありがとう」

「ああ」


 熱い魔力が体に流れ込んできて意識が遠のいてきたけれど、額にあった彼の手がそっと頬に移されたのに気がつけた。昼間バルバロスさまの冷たい手で触れられたところ。ラスティの手が優しく温かくて、差し出されたこの手を拒んだのだとまた少し悲しくなった。


 唇に、触れてほしい。


 そう思うのと、ラスティの手が頬から離れ、指が顔をなぞりおりてくるのは同時だった。でもそこで私は眠ってしまい、なにもわからないまま、朝になった。


 ◆◆◆


 目が覚めた瞬間一番に、すべて夢だったのだろうかと思った。でも枕の下に革紐の首飾りを見つけて、ほっとため息をつく。部屋はまだ暗い。フラニードが来るより早く起きられてよかったわ。

 首飾りを身につけ魔石の部分を服の下に隠し、また上掛けの中に潜り込んだ。石の硬さに安心しながらも、部屋から去っていったラスティを思うと胸がちくちくと痛んだ。


「おはようございます、イルメルサさま」


 フラニードがやってきたのはそれから間もなく。明るい声で部屋に来て、いつも通り鎧戸を開け部屋に風を通す。


「今日もよいお天気なのですよ。素敵な一日になりますわね」


 素敵な一日。それを聞いて石を飲んだような気持ちになった。そうだったわ、薬草園と、城壁の見張り塔へ行く予定が。なんと言って断ろう。わざわざラスティが来るなと知らせに来てくれたのだ、心に留めてうまくやらなければ。


「……なんだか具合がよくないのよ。今日は部屋で過ごします」

「まあ、でもお顔色はそう悪くございませんわ。もう少し横になってお休みになられれば、すぐによくなられますわよ」


 フラニードは眉尻を下げ首を傾げ、寝台に近づいてくる。私を見つめる彼女の紫色の目が、すうっと細められた。


「ほら、お口元の傷も少し良くなっておられて。昨夜は寒かったのか私もようく眠れましたの、きっとイルメルサさまもそうでしたのね。眠りはすべての薬、そう古くからもうしますから――」


 口元の傷。言われそこにそっと触れると確かに痛みが消えている。盛り上がっていた傷も乾いて治りはじめている気がした。よく眠ったから? そうかもしれない。でももしかしたらラスティが、去り際ほんの少し治してくれたのかも。


 そう思うと胸の奥が熱くなった。泣きたい気分になる。


「今日は朝食もいらない。ああ、でもリュイにはなにか食べさせてあげて」


 本当は少しお腹が空いていたけれど、そう言って寝返りを打ち、フラニードに背を向けた。泣きそうな顔を見られたくないもの。


「わかりました。ではあとでなにか軽くこちらに運ばせましょうか。そうすればあの子の口にもなにか入れられますから」

「それまでは誰も近づけないで」


 フラニードの小さなため息が聞こえた。私を、わがままを言っていると思っているみたい。まあそうなのだけれど。部屋から出て行くフラニードの気配を感じながら、そっと私も息を吐いた。これで今日は大丈夫。


 そう思ったのに。


「ご加減がお悪く伏せっておいでとか。癒やしに長けた魔術師を連れて参りました。ご安心ください、薬湯もここに」


 少ししてから、若い魔術師を従えたモルゴーが、澄まし顔のフラニードとともに部屋に入ってきた。私の許可を取りもせずに勝手なことばかりして。


「誰も近づけるなと言ったでしょうフラニード! お前たちみんな出ておいき!」


 大きく叫んで手元にあった枕をつかみ、勢いに任せて入り口の方に投げつけた。昨日から起こりはじめた色々なことが私の心をかき乱していて、自分を抑えられない。

 今まで散々放置しておきながら、急に寄ってくる魔術師たち。荷物を漁り、私の気持ちを考えない侍女。昨夜のラスティの温かな手。恐怖と苛立ち、悲しみに支配され、続けて枕を投げた。


「こ、これは失礼を」


 慌てた声を出したのはモルゴー。慌ててみせているのは声だけで、こちらに向けられた目には好奇の光が宿っているのが見て取れた。彼にぶつかった枕から羽毛が飛び出し、室内を舞っている。もうひとりいた魔術師は、ものも言わずに素早く部屋から姿を消しているのに。

 枕はみっつ投げると手元から消えた。


 フラニードが黙って枕を拾う向こうにモルゴーがまだ立っているのが見え、苛立ちがなお募る。投げるものがないので、睨むしかない。と、興味深げな視線を寄越していたモルゴーの口が開いた。


「イルメ」

「お黙り! 今すぐに出ておいきったら、お前もよフラニード!」


 イルメルサあなた、アリアルスみたいよ。頭の芯に残った冷静な部分がそう語りかけてきたけれど、態度は改められなかった。

 叫んで、枕のなくなった寝台に突っ伏して対話の拒否を全身で伝えると、やっとふたりは部屋を出て行ってくれた。静けさの戻った無人の部屋を眺め、荒い呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着ける。


 いつの間にか窓辺にいつもの小鳥が二羽きていて、小さくさえずりながら跳ねて歩いていた。


「菓子がまだあったはずだわ」


 ひとりつぶやいて、のろのろと上半身を起こした。目に滲んだ涙を拭う。昨日、フラニードが焼かせたという修道院の菓子、あれを残した皿がどこかに。

 ぐるりと部屋を見渡すと、書き物机の上に布の掛けられた小さな皿があった。布を捲ると目当ての菓子が重なって入っている。一枚取り上げ手の中で砕いて窓辺に撒くと、小鳥はすぐについばみだした。すぐにまた一羽がどこかから飛んできて、私の心を慰めてくれる。

 手のひらに乗せたものには近寄っては来ない。仕方がない。警戒し続けなければ、すぐに死の危険にさらされる力のない小さな生き物だもの。

 懸命に菓子のかけらをついばむ小鳥は、可愛らしくて見飽きない。しばらく彼らを眺めていたと思う。


「元気に生きるのよ、せっかく厳しい冬を越したのだから」


 言って、何気なく視線を外にやった。と、道の先、向こうからこちらに近付いてくる黒いものをみつけた。黒くて速い、ジーンだわ。


「ジーン!」


 思わず窓から声をかけてしまった。私の動きに驚いた小鳥たちが、一斉に羽ばたいて飛びたった。翼の音と、短く慌てた鳥の声が複数遠ざかっていくのを聞きながら、窓辺に深く腰掛け表を見下ろした。


 思った通り、いつも扉前に立っている兵士が驚いた様子でこちらを見上げているのと視線がぶつかる。


「あの犬、来たら中に入れてちょうだい」

「っし、承知いたしました」

「頼んだわよ」


 言って顔を引っ込めて、部屋の中をうろうろと歩きながらジーンが来るのを待った。外から一度鳴き声がして、そのあとすぐに中から石の床を歩くこぎみよいジーンの足音が近づいてきた。


「ジーン」


 小さく呼びかけると、元気な吠え声が一度して、入り口にジーンが顔を覗かせる。近づいてきてくれるかしら。不安に思う間もない。あっと思った時にはもう、前脚をあげたジーンに飛びつかれ、手のひらを舐められていた。くすぐったい。


「食いしん坊ね」


 くすくす笑いながら床に膝をつくと、ジーンはすぐに私の頬を舐めはじめた。まるで昨日はごめんね、と謝っているみたいだ。ジーンの体は熱く、ラスティを思い出したけれど今度は悲しくならなかった。


「いいのよ、来てくれて嬉しいわ」


 ジーンの首から体にかけて撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振ってくれる。ラスティの言った通り、ジーンが近づいてきてくれた。体の中に残っていた気味の悪い魔力は消えたんだわ。

 ほっとしながらジーンを撫でていたら、ある瞬間ジーンの耳がぴんと立った。ジーンの真っ黒な目は、入ってきたばかりの入り口の方に向けられている。それから間もなく、少し前に追い出したばかりの魔術師がその入り口から顔を覗かせ私を驚かせた。


「イルメルサさま、お元気そうでこのモルゴー安心いたしました」

「驚いた! お前まだいたの」


 思わず立ち上がる。入り口に立つモルゴーはそこから入ってはこなかったけれど、立ち去る気配もまるでない。

 

「イルメルサさまのご体調がどうにも気がかりでして。下で待機しておりましたところ、楽しそうな明るいお声が届き、居ても立ってもおられず参った次第にございます」

「心配など無用です、見ての通り――」


 そこまで口にして言葉に詰まった。モルゴーも同じことに気が付いたのだろう、細めて笑う目の奥が光る。


「お元気でいらっしゃられると。本日は薬草園と城壁を御覧になられるご予定であったとか。ご一緒しても?」

「そ、そんなにたくさんは歩けないわ。魔術師塔のほうへ寄り道はしたくない」


 モルゴーから視線を外していった言葉は、自分の耳にもごにょごにょと歯切れ悪く聞こえた。私、馬鹿ね。目的の城壁は魔術師塔の脇を通っていくのに、変な言い訳。なにか言い足さなければおかしいわ。


「あなた……あなたたち魔術師は、私を、異国の珍しい動物を見るような目で見てくるのよ。気が付いていて?」


 きっ、とモルゴーを睨み言うと、今度はモルゴーが私から視線をそらした。


「まさか、異国の動物などと」

「いいえ、そうなのよ。不愉快な。薬草園へは行きたいけれど、昨日の今日ではまだいやよ。今日は魔術師塔へは行きませんから」


 私を見上げるジーンの頭をそっと撫でながら言い、モルゴーから顔を背けると、モルゴーがふっと息を吐く音が聞こえた。


「みなを諫めておきますゆえ……」

「一番ひどいのはお前よ、モルゴー」


 本気で言ったのに、モルゴーはそれに笑いで答えてきた。ちろ、と睨むとすぐに口を閉じたけれど。

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