第31話 故郷の菓子
ラスティと再会した朝から二日経ったその日、日課になりつつある朝の散歩から部屋に戻り、寝台脇の小さな鐘を鳴らした。二度鳴らしたけれど誰も来ない。三度目を少し強めに鳴らすと、ようやく駆けてくる足音が聞こえた。しばらく待つと、初めて顔を見る女がひとりやってきた。被っている頭巾から乱れた髪が飛び出している。眠っていてとび起きてきたのだろうか、信じられない。
「御用ですか」
「お茶を」
「すぐご用意いたします」
命じると、女はすぐに踵をかえして部屋を出て行った。彼女が戻るのを待つ間、部屋の窓から外を眺め続けた。ジーンが駆けていかないかと思って。あの賢い腕白犬は、来て三日ですっかり城中を縄張りにして、好きにあちこち駆け回っている。この前を駆け抜けることも多いから。
けれどこの日はのんびりお茶を飲み終えても、ジーンの姿は見られなかった。茶器を片付けている女を横目に立ち上がって窓辺へ行く。今日は曇っていたけれど、あちこちある雲の切れ間から陽の光が幾筋も降りてきて外を暖めていた。
「あら」
窓から少し頭を出して下を見て気がついた。外にジーンがいる。ジーンは窓の外、この建物のそばにぽっかりとできた日向に身を置き、揃えた前脚の上に顔を乗せて寛いでいた。いつの間に来ていたのかしら。全く気がつかなかった。
「犬がいるわ」
「あの黒い犬ですか? すぐに兵士に言ってどかせます。お待ちください」
「駄目よ、のんびり寛いでいてとても可愛いわ。吠えもしていないし、そのままにしておいてあげて」
「よろしいのですか?」
「ええ。大人しいのよ。前に一度撫でているの」
「危のうございます。犬なんてものは突然噛みついたりするものですから……」
「その時はそのときよ」
そう答えて部屋を出た。
召使いの女はそれ以上なにも言わず、私にマントを羽織らせると黙って後をついて来て、外に出る扉を開けた。
はやる気持ちを抑えて外に顔を出すと、ジーンも私を見て立ち上がった。思わず笑顔になる。
「おはよう」
尻尾をばしばしと振る音がして、ジーンが私にじゃれついてきた。
「ね?」
言ってまだ私を見ている召使いの女にジーンの頭をなでて見せると、女は無表情で小さく頷いて戻っていった。
「陽に当たっていたから、体が暖かいわね」
こっそりささやいて耳の後ろをくすぐると、ジーンは嬉しそうに一声鳴いた。と、ジーンの黒い耳がぴくりと反応して、顔が視線の先を私の後ろに巡らせるように上がった。誰かきたのだわ。そう思って振り返ると、いつもの女の召使いがひとり、なにかを持ってこっちに向かってきていた。
不思議と荘厳な足取りに見えた。天から降りる光を踏みながらやってくる使者のような。私は立ち上がって女を迎えた。
「バルバロスさまから、こちらをお届けするようにと」
「なにかしら」
「シファードからの使者が来てこちらをイルメルサさまにと残して行かれたのことで」
「シファードから? いつ」
「昨日午後に。もう今朝にはご出立されております」
「なんですって?!」
かっ、と胸に怒りが芽生えた。ジーンが不安げに私を見たのがわかる。
「シファードからの使者が来たのに誰も私に知らせなかったの?!」
「そっ、それは私には」
「なぜ昨日知らせなかったの、昨日もあなたは私のところに来たでしょう!」
「バルバロスさまから必要ないと……」
「必要ない?! 故郷から」
そう叫んだとき、目に涙が滲むのを感じて口を閉じた。ガウディールの者の前で泣くものか。ぎゅっと唇を噛んで手を伸ばした。
女の差し出してきた盆を見ると、小さな木箱と手紙が一通乗せられている。手紙を手に取ると、既に封が開けられていた。封蝋が割れている。バルバロスさまが先に読んだのだわ。
一度開けられしまえば、私の手元にくるまで誰に読まれていてもわからない、例えばこの者も。じろ、と女を睨んだけれど、女の表情はひとつも変わらなかった。ラスティに知らせておいた方がいいわね。手紙は母からのものだった。あとでひとりで読もう。
もう一つの木箱を開けると、きれいな黄色が目に飛び込んできた。これは私の好きなお菓子。花の砂糖漬けだわ。シファードの庭ではもう花が咲いたのね。早く咲いた花に、砂糖。貴重なものを二つも使って故郷から送られてきたそれを見、また蓋をして大切に胸に抱える。
「下がりなさい、しばらくひとりにして」
「かしこまりました」
女が去っていく気配を感じながら、私はしばらくそこに立っていた。バルバロスさまは私とシファードとの繋がりを最低限に留めておくおつもりなのね。手紙と菓子を渡してもらえただけましだと思うほかないのかしら。
そう思いながら、足が自然にラスティの住む薬草園の方に向かった。行くつもりはない。ただなんとなく……ほんの少しでも近くで手紙を読みたいと思ったのだ。
薬草園に向かう途中の、人工池の脇の長椅子に腰掛けた。ちょうど陽があたっていて長椅子が温かい。ついてきていたジーンもそこに乗り、ぺったりとお腹を椅子につけて伏せている。ジーンの背中をなでた後、手紙を開いた。
懐かしいお母さまの飾り文字が目に入って、また涙が滲んできた。読む前から泣いてどうするのよ、馬鹿ね。
『親愛なる我が子イルメルサ。元気に過ごしているでしょうか。そちらはまだ雪が残っているでしょうか……』
他愛のない、健康を気遣う母からの手紙だった。余計なことを書けば手紙を私に渡しては貰えないだろうと思っているのがありありと伝わってくる。
「おかあさま」
そっとつぶやくと、涙がこぼれ落ちた。涙の粒は手紙に落ちて文字を滲ませる。体を起こしたジーンに、頬をべろりと舐めあげられた。確か初めて会った夜も、この子は私を舐めたのよ。思い出すとおかしくて、涙もこぼれるのに笑いも浮かぶ。なんだかよくわからない気持ちになった。
ふうとため息をついて手紙を胸にしまい、横に置いていた木箱を手に取った。ふたを開けて、砂糖漬けにされた黄色い花弁をひとつ手にとって口に入れる。甘い。甘味のすぐあとに、花の香りが鼻に抜ける。シファードの庭の香り。
「おいしいわ」
もうひとつだけ。と摘まむと、ジーンが興味深げに鼻を寄せて来たので、手のひらに乗せて見せてみた。
「きれいでしょう? 食べちゃだめよ」
犬にやるには惜しいもの。
そう思った私の気持ちが伝わったのか、ジーンはふんふんと匂いを嗅いだかと思うと、フンっと荒い鼻息をついて花をひとつ飛ばしてしまった。
「あっ!」
ぽと、と土の上に黄色い花が咲いた。もうっ。
「ジーンったら、もう見せてあげないから」
箱の方に顔を向けるジーンを警戒しながら、もうひとつ、ふたつ口に入れた。甘いわ。と、突然ジーンが私の腕に下から突き上げるような体当たりをしてきた。手が上にあがり、箱の中の花がぱっ、と空に舞った。やだ!
「ジーン!」
私の膝やジーンの鼻の上にも黄色の花びらが。殆どは土の上。
「なにするのよっ?!」
さすがに、さすがに腹が立つ。膝の上の花をいくつか箱に戻しながらジーンを見ると、鼻の上に乗ったものを体を震わせて地面に落としていた。一度叩いた方がいいかしら。と一瞬思った私の目に、ジーンの後ろ脚の傷跡が映る。
憤りはさっと姿を潜めたけれど、やり場のないもやもやとした気持ちを抱えたまま地面に散らばった黄色の菓子をみつめた。
「もう、どうして……」
そうつぶやいた時だった。ごほ、と咳が出た。一度出ると、次は続いて二度、三度。咳のあと息を吸おうとして、ほとんど息が吸えないことに気が付き驚愕した。どうして。そう思っている間にまた、咳。口を抑えた手のひらが熱いもので濡れた。見るとべっとりと赤黒い血。力いっぱい息を吸っても、取り込める空気は少しで、喉からはヒューヒューと音がするばかり。どうして。なぜ。
苦しくて膝をついた。誰か。お父さま、お母さま、ラスティ。ジーンを探したけれど周りにいなかった。
また咳が出た。土の上の黄色い花弁の上に、私の血が散る。呼吸がきちんとできなくて、意識が遠のく。まだ、まだ死ぬわけにはいかないのに。
ジーン、ラスティを呼んできて。
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