第30話 犬と鶏


 ラスティとジーンが近くにいると思うと嬉しくて、翌日はいつもより早く目が覚めた。早く起きたところですることもないのに。

 窓から外を見ると、夜のうちに雪がほんの少し積もったのか、土の上に濃いめの霜みたいに雪がうっすらと白い色を散らしていた。と、そこを駆け抜けるものがある。

 まだ薄暗い道の雪に足跡を残しながら駆けていくのは、茶色い鶏をくわえたジーン。そしてジーンを追う、下働きの召使いの少女がひとり。なんてこと。人の足で獣に敵うはずもないのは私も良く知っている。ジーンは少女をひとり残し、何処かへと駆けて行ってしまった。

 ジーンったら、私よりずっと早くここに馴染んでいるみたいじゃない。ラスティはどうしているかしら。離れの小屋を与える、と言われていたけれどそれがどこにあるのか私にはわからない。

 

「静かね」

 

 そっとつぶやいて、マントを羽織って部屋を出た。こんなに薄暗いうちから出歩くのはここに来てから初めてだ。ラスティがきた翌朝にいつもと違う行動を取って、なにか怪しまれたら。そう思ったけれど、足は止められなかった。

 外に出る扉を開けて、雪の上に残されたジーンの足跡を見つけると自然と頬がゆるむ。これを追えばラスティのところへ行けるかもしれない。誰かに見つかっても、暇つぶしにかわいい足跡を追ってみたのだと言えばいい。

 歩幅の大きなジーンの足跡と、ジーンを追っていった召使いの少女の足跡を追うと、それは魔術師たちの暮らす塔の方へと続いていた。

 朝早いせいか私を止めるものもおらず、魔術師の塔への小径に簡単に入り込めた。ちらりと城壁を見上げると、さすがにそこには兵士たちが立っているのが見えたけれど、みな城の外を見て私には背中を向けている。

 道を進むと塀が見えた。薬草園だ。そこへ通じる腰の高さほどの木の扉が開いて、中から声がしている。懇願する響きの女の子の声。もしや、と辿っていたジーンの足跡を見れば、その薬草園の中に続いている。心臓がどくりとはねた。近づいて中を覗くと、背の高い細い木々の向こうに粗末な小さな小屋が見えたから。あんなところに。

 

 足跡と声を頼りに薬草園に一歩足を踏み入れた瞬間、私の体にラスティの魔力の暖かさが伝わってきた。ここはあの庭に似ている。なんて心地いいの。

 ぐちゃぐちゃと濡れた枯れ葉を踏みながら歩いているのに、つま先の冷えが収まっていく。

 

「返して、でてきて」

 

 姿を見つけるより早く耳が言葉を拾った。少しあとに、小屋に登る木の階段の隙間を覗き込む、しゃがんだ少女の細い背中を見つけた。淡い緑色の髪は艶もなく、ただ後ろでひとつに束ねてある。茶色い羊毛の服はごわごわとして見えてあちこち破れて繕いもない。

 

「あっ! 噛まないで!」

「……どうしたの」

 

 声をかけると、女の子の背中がびくりと強張った。

 

「ごめんなさい! 鶏を盗まれて、サボってるんじゃないのごめんなさい!」

 

 腕を頭の上にあげて庇いながらこちらを向いた少女は、間近で見ると予想よりずっと幼かった。アリアルスと同じか、まだ下か。ぎゅっと目を瞑って震えている。


「ぶたないから目をお開け」

 

 目の前の子供の態度に驚きながらも平静を装って声をかけると、その子はゆっくりと腕を降ろして目を開けた。怯えた色の青い目が私を映して、戸惑いに揺れた。誰だろう、と考えている顔。

 

「黒い犬に鶏を盗まれたのでしょう、部屋の中から見ていたわ」

 

 言いながら屈んで私も階段の下を覗こうとしたら、誤って彼女の体に肩が触れてしまった。瞬間その子が息をのんで立ち上がり、私から一歩離れる。まあ、そうよね。驚くわよね。

 

「お待ち。私は……」

 

 青ざめて恐怖で引きつった顔の子供に通じるとは思わなかったけれど、振り返って一応引き留めた。けれど私の目に映ったのは、薬草園の出口に向かって全力で駆けていく女の子の背中だった。痩せているのに、あんなに早く走れるの。痩せこけた背中を見送ってため息をつくと、視線を階段の奥に戻した。


 薄暗い中、こちらを見つめる双眸がある。じっと見つめると、あぐ、と口を開けて咥えていた鶏を放した黒い犬は、そのまま顎を地面にぺたりとつけ、気まずそうに私から視線を逸らした。鶏はまだ生きていて、翼や脚が絡まったように蠢いていたけれど、ぶるっ、と震えて翼を伸ばしたかと思うとバサバサと羽ばたきながら階段下から私に向かって飛びかかってきた。

 

「きゃあっ!」

 

 反射的に腕で大きく払いながら後ろにのけぞってしまった。しりもちをつきながら、手首の辺りに鶏が止まったのを感じてまた驚く。怯えた鶏が爪を手首に食い込ませて羽ばたくから、袖口の飾りに爪がひっかかって。

 

「いやっ――だ、誰か!」

 

 すんでのところで、ラスティ! と叫ぶのはこらえた。

 

「なんの騒ぎだ」

 

 羽音にまぎれて、上から声が降ってきた。懐かしい声。見上げても、羽ばたき慌てる鶏が邪魔で階段を降りてくる赤い魔術師のローブしか見えないけれど。

 

「見ていないで助けなさい!」

「命令するな」


 そんな言葉と同時に鶏の羽ばたきが止んだ。大きな手が、鶏の体を両側から挟んで持ち上げたからだ。


「俺の両手は塞がっている、自分で爪を外せ」

「わ、わかったわ」

 

 鶏を掴む魔術師の短い爪を見ると、どう表していいのかわからない気持ちが心の中に広がりだした。懐かしいような、物悲しいような、嬉しいような、恥ずかしいような。それで私は顔をあげられない。彼の顔を見たいのに。

 心に溢れる気持ちは見ず、代わりに服に絡んだ鶏の爪を外すのに集中した。服は少しほつれ、糸が出てしまっている。いやだ、私まだ寝間着のままだったんじゃない。髪も寝起きで下ろしたままだし、なんてこと。

 

「手助けに感謝します」

 

 そう言って立ち上がり、マントの前をかきあわせて服を隠した。いつの間にかジーンが階段下から出て、魔術師の足元にいて、顔をあげて物欲しそうに鶏を見つめている。

 

「これは?」

 

 鶏のことだろう。

 

「その黒い犬がそれを咥えて部屋の前を走って行ったの。かわいそうに、下働きの少女が困っていたわ。返さないと打たれるかもしれない」

「そうか、では届けて来る。場所はわかるか」

「大体は」

「案内してくれ」

「この姿よ、私の部屋のあたりまででよければ」

「それで構わない」

 

 彼がそう言うので、私は頷いた。頷いて、それからやっと魔術師の顔を見る。赤銅色の髪と目。眉間に皺を刻んだラスティがそこに立っていた。彼も私を黙って見下ろしている。心の内は見えない。

 

「……行きましょうか」

 

 何を言っていいのかわからなくて、ただそう言って彼に背を向け、歩き出そうとした。と、わん、と鳴き声がしてジーンが私の脚にすり寄って来たので思わず微笑んだ。

 

「いけない子ね、鶏を咥えて走り回ってはいけないのよ」

 

 そう言ってジーンの頭を撫でると、ジーンは尻尾をばしばしと音をたてて振ってみせる。わかっていないわね。

 

「きちんと躾ないとこの子、鞭打たれてしまうかもしれないわ」

 

 ラスティを振り返って忠告すると、彼は鶏の翼を広げてあちこち見ていた。

 

「なにしてるの」

「怪我はないな、と」

「昼か夜には絞められる鶏の心配までするの?」

 

 おかしくて声をあげて笑うと、ラスティはさっと頬を赤くしてじろりと私を睨んだ。

 

「傷があると難癖でもつけられたら面倒だからな」

「魔術師なんだから、その場で治してみせればいいのよ」

「やり取りが面倒だ」

 

 ラスティは、ちら、とあたりに視線を向け、それから私を見て言葉を続ける。小さな声だ。

 

「元気そうだなイルメルサ」

「そう見える? 退屈と屈辱で死にそうよ」

 

 肩をすくめて言いながら、歩き出したラスティと並んで進んだ。

 

「なぜ来たの、大学って言っていたわよね?」

「お前の父親に頼まれた」

「お父さまに?」

 

 驚いてラスティを見上げると、彼は私を見て頷いた。それでは、父の手紙にあった送り込むという人物はラスティのことだったの。

 

「あの騎士と魔術師の女が来て、領主からの手紙を託された。ご丁寧に揃えてあった大学の書類やらなにやらと一緒にな」

「それを、受けたの?」

「ああ。領主の首飾り……は無理だが、お前を守り切り、依頼をひとつこなせばそれに並ぶ魔石を与えると約束してもらえたからな」

「依頼って?」

「秘密だ。お前には関係ない」

 

 ラスティの話を聞いて、喜びと失望が同時にやってきた。また彼とジーンと過ごせるのだという喜びと、ラスティは魔石のために父からの依頼を受けたにすぎないのだという、失望が。もしかして私を心配して来てくれたのかと……ほんの少し期待していたから。

 

「ガウディール領主はどんな男だ」

「こんな方よ、と言えるほど会えていないわ。顔を合わせた時は嘲笑されるか無視されるかだし」

「婚約したのだろう?」

「そうよ、ほら」

 

 言って、左手の指輪がラスティに見えるように手を持ち上げた。高価な石は薄暗い朝には輝かず、暗い色を見せただけ。

 

「来客用の離れの棟に捨て置かれているの。ジーンが遊びに来てくれたら嬉しいわ。もちろんあなたも、と言いたいけれどあなたは無理ね」

「そうだな」

 

 それから他愛のない、誰に聞かれても構わない天気や植物の話を少ししているうちに私の部屋についた。扉の前の兵士はまだ来ていない。

 

「下働きの少女がジーンを追いかけて向こうから駆けてきたのを部屋から見たのよ。そこを一番奥まで進んで回り込んだ先に塀があるの、その先に抜ける扉があるはずよ。召使いたちがいるのはそこのはず」

 

 私は行ったことがないけれど、と付け足してからラスティを見て小さく笑った。

 

「淡い緑の髪の女の子よ、怒られていたら助けてあげて」

「わかった」

「部屋に戻るわ」

「ああ」

 

 ラスティは短く答えて頷くと、ジーンを引き連れ鶏を抱え、歩いて行った。ほんのしばらくだけその後ろ姿を見送って、私は部屋に戻った。中はまだ暗く、暖炉に火も入れられてはいなかった。召使いがひとりは控えているはずだけれど、きっとまだ眠っているのね。ほっと息をついて、昨日までよりは幾分軽い気持ちで。私はガウディールに立っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る