第16話 隠されたもの


「これでいいか」

 

 少しして出てきたラスティに手渡されたのは、古びた小さな木箱だった。装飾のない簡素な箱。蓋を開けると中には羊毛の針刺しがあり、針が何本か刺してあった。糸は黒と暗い赤の二色が入っている。

 

「ありがとう、使わせていただくわね、きれいな糸。赤い方を使っても構わない?」

「好きに使ってくれ。じゃあ戻る。明日は朝にはここを出るから、自分で荷物をまとめておけよ。その裁縫箱は部屋に残しておいてくれ、あとで回収する。ああそうだ、こいつに食い物を頼む」

「わかったわ」

 

 一度に色々言われてちょっと混乱したけれど、早く部屋に戻らせてあげたくて返事をした。荷物をまとめて、裁縫箱は部屋に、ジーンに食べ物。大丈夫、覚えた。

 

「さあっ」

 

 つぶやくと同時に、ジーンがクンクンと切ない鳴き声をあげながら足元をうろうろし始めた。可哀想に、お腹が空いているのね。

 

「まずあなたの朝食に取りかかるとしましょうか」

 

 声をかけながら炊事場に向かう。借りた裁縫箱をジーンの届かない食器棚の上に乗せ、干し肉を皿に乗せて床に置く。毎日これで飽きないのかしら、とは思うけれど、尻尾を振るばしばしいう音がしているからいいのよね。

 

「お水も必要みたい」

 

 一心不乱に干し肉を噛んでいるジーンを見ているだけで何か飲みたくなってくる。でもまずはジーンよ。机の上の水差しを取って井戸に向かう。

 

「ついてこないんだから」

 

 愚痴りながらも、ひとりで歩く廊下はなんだか新鮮で楽しかった。仕事が色々あって、忙しいのが楽しい。城では学びはしても、働くなんてしなかった。

 水を汲むのがこんなにも大変だとは知らなかったし、いつもきれいな食器が使えるのも当たり前ではないのだとわかった。髪もひとりでは編めない。

 召し使いが働いているのは知っていて、なにをしているのかも見ていたけれど、なんにもわかっていなかった。ここより寒い場所で、これより沢山の水を汲むのはさぞかし大変だろう。

 

「はい、お水よ」

 

 ジーンの横に水で満たした皿を置くと、嬉しそうに飲みだした。さ、やっと顔が洗えるわ。ジーンを置いて中庭に戻り顔を洗って、それからいよいよ炊事場の片づけにとりかかった。


 食べ残しや硬くなったパンを適当な鍋に入れてよけ――城では召使いに下げ渡したり、家畜に食べさせていたから――汚れた食器を籠に集めた。持ち上げようとしたら、持ち手がたわんで取れるかと思うくらい重かったので、何回かにわけて井戸まで運んだ。

 井戸に行くと、隅に灰の沈んだ水の入った桶や布があったので、それで皿や杯、ナイフを洗った。

 

「腰が痛いわ」

 

 こんな中途半端な体勢でなにかを続けるのは初めて。ラスティはこうやって皿を洗ってくれていたのかしら、と思ったけれど、彼は魔術師だった。彼が床の脂を、あっという間に魔術できれいにしたのを思い出して、ひとりむっと腹をたてた。

 

「ああ、また水を汲むの?」

 

 洗い終わり、濯ごうと思ったら桶の水がない。立ち上がって腰を伸ばしながら、空の桶の底を恨めしく見下ろした。

 魔術でぱっと出せたらいいのに。アリアルスは私の杯に手をかざして水を出してくれたわ。こんな風に。

 何気なく桶に手をかざし、アリアルスを思い出した。その時、皮膚の裏側をひやりと冷たいなにかが這った。初めての感覚に気がついてはっとする。母に何度も読まされた魔法書の文言が浮かぶ。想像し、練りあげ、取り出す。水は大気の中に満ち――。体から魔力が抜けていく速さが一時加速する。

 気がつくと、水で満たされた桶を見ていた。

 

「えっ?」

 

 かざしていた手のひらを見て、また桶を見る。水が。慌ててしゃがみこみ、桶の水に両手を浸した。冷たい。掬うと、透明で澄んでいる。そのまますくい上げ口に含んだ。冷えた清潔な水。ただの水だわ。ただのおいしい安全な水。私が魔術で取り出した、初めての。

 

「ラスティ!」

 

 知らせたくて名前を叫んで立ち上がってから、彼が今いる場所を思い出した。伝えたいのに、会いに行けないなんてもどかしい。

 誰かに知らせたい。ラスティに、お父さまに、お母さまに。妹と弟に。魔術が使えたわ、私。シファードの水の魔術を。誰も見ていなかったけれど。そう、ジーンすらいない。

 シファードの始祖は、乙女の渇きを癒すために枯れた湖を水で満たしたらしい。アリアルスの初めての魔術は二つの時。しおれた花の上に細かな霧の雨を降らせたと、いまでも城では語り草だ。私はといえば。

 

「皿を濯ぐ水欲しさに桶を満たした」

 

 口にしたらおかしくて、ひとりくすくすと笑ってしまった。ひとしきり笑ってからため息をひとつつき、それからまた屈んで、その水で皿や杯をすすいだ。

 

 ◆◆◆

 

 扉を少し開けたまま、部屋の寝台の上でマントを広げ破れたところをかがっていたら、ジーンがとても静かにするりと部屋に入ってきた。

 

「マントに触らないで、裁縫箱も駄目よ」

 

 ちらりと目をやって言うと、ジーンはおとなしく部屋の隅に向かい、机の下に潜り込んで座った。前脚の上に顔を乗せ、耳を垂らし、黒い目を動かして私を見ている。

 

「かわいいジーン、あなたと別れるのが何より辛いわ」

 

 こんなに賢い犬は他に知らない。

 

「それにしてもこの赤い糸、本当にきれい」

 

 ほんのりと優しい魔力も感じられる亜麻糸。この裁縫箱は、ラスティのものなのかしら。縫い終わって糸を切り、針を羊毛に刺したあと好奇心に負けて中を漁ってしまった。

 小さな箱で隠し細工もない。ただ、箱の底、羊毛の下になっていた部分に小さくつたない飾り文字が書き込まれていた。綴りの間違いがいくつもあったけれど、意味はわかる。

 

 ――ラスティへ、愛を込めて紡いだ糸を。

 

 ああ、この赤い糸は彼の目と髪の色。この文字を書いた女性が彼を想って紡いだのだ。女性の名前はない。

 思いがけず動揺した自分に驚いて、急いで針山を戻して文字を隠し、糸を片づけ、裁縫箱の蓋を閉めた。

 

「あまりうまくできなかったわね」

 

 裁縫箱を脇に置き、繕ったマントを広げる。濃い緑のマントに、二カ所赤い繕いが入った。落ち着いたら刺繍をいれさせよう。いっそ、全て布を変えてしまうのもいいかもしれない。何色にしよう。

 赤はいやだわ、赤は嫌。

 

「ジーン?」

 

 と、気がつくといつの間にかジーンが部屋から消えていた。お散歩かしら。さっき来たばかりなのに。まあいいわ。あとするのはなんだったか。

 

「ええと、そうだ、荷物をまとめるの」

 

 明日の朝には出発する。マントを畳みながらラスティの言葉を思い出すと、ちくりと胸が痛んだ。そもそもまとめる、なんて大袈裟な表現が必要になるほどの荷物もないのだ。明日着る服を出して、それでおしまい。

 朝出れば、暗くなる前には森を抜けられる。それから私はどうなるのだろう。それを考えると、不安と恐怖で胸が詰まった。なにかあたたかいものに触れて安心したい。

 

「ジーンはどこに行ったのよ」

 

 こんな時こそそばにいて欲しいのに。明日着る服を取り出して椅子にかけ、ジーンを探して部屋を出た。

 廊下はしん、としていた。耳を澄ませば、遠く中庭に降り込む雨音が聞こえるけれど。雨足が強まっているのだろうか、ビタビタと水の落ちる音がしている。明日は晴れるかしら。

 

「ジーン」

 

 大きめの声で呼んでみても返事がない。

 

「ジーン! いらっしゃい!」

 

 今度は叫んでみた。しばらく待ってもあの子の気配はない。おかしいわ、叫んでも返事もないなんて。余程遠くへ行ったのか、ラスティの部屋にでも入ったのかしら。いいえ、重い扉がぴったり閉ざされていたからそれはないだろう。

 洞窟の方へ行ったの? 熊の騒ぎがあったから、あっちへ行くのは怖いのに。とりとめもなく部屋を出たところでそんなことを考えていたら、洞窟へ続く廊下の先からカタンと小さな音が聞こえた。

 

「そこにいるの?」

 

 ネズミかモグラでも追って行ったのね。何の疑問も持たず、音のした方へ足を向けた。

 等間隔にラスティの魔力の明かりの灯された暗い廊下を進んで行く。進むと、ところどころ壁から木の根が顔を出し始めた。確か前はここからしばらく行った先から洞窟になった。これ以上は行けない……。引き返そうとした、その時だった。

 廊下の先、次の曲がり角の向こうから、ジーンの脚の先がのぞいていた。だらりと伸ばされたそれは、ぴくりとも動かない。

 

「ジーン!」

 

 叫んで駆け出す。なにがあったの。

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