第17話 忍び込んだもの


「戻れ!」

 

 走り出した私の後ろから、突然ラスティの声が飛んできた。何かが境界を越えたらわかるようにしてあると言っていた。何かが入ってきたんだわ。戻れ? いやよ。いや。それを無視して駆けた。誰がいるというの、私に寄り添って温めてくれる存在が。あの子以外に誰が。

 

「伏せろ!」

 

 またラスティの声。今度は従った。ジーンに覆い被さり伏せた私の上を、光が走る。それを避け、人の影が廊下の奥へ飛びすさるのがわかった。奥の壁にラスティの作り出した光がぶつかり壁の一部が砕けちる。背中にパラパラと小石が当たるのを感じながら、ジーンの体があたたかいのを確認する。目を閉じた私の下で、とくとくと打つジーンの鼓動を感じて泣きたいくらい安心した。

 

「イルメルサ退け!」

 

 ラスティの声と駆ける足音が近づいてくる。ジーンの体の下に腕を回し、引きずって後ずさろうとした時。

 

「イルメルサさま!」

 

 聞き慣れた懐かしい声がして、弾かれたように顔を上げた。廊下の先、洞窟に続く道の方から。さっき飛びすさった影の声。革の防具を身につけ、抜いた剣を手にした金の髪の男。

 胸が熱くなった。どんなに会いたかったか、シファードの者たちに。

 

「ロ……」

「ぼさっとするな! 壁が崩れることもあるんだ!」

 

 すぐ上からラスティの怒声が響くと同時に彼の影が覆い被さってきて床に映り、そのままジーンごと背後から抱きかかえられ、持ち上げられた。

 

「ロイン! ロイン!」

「その方に触れるな!」

 

 ロインの声が響き、視界の端で走り出す彼が見えた。

 

「うちの騎士ですラスティ! ロイン!」

「名前を連呼するな誤解されるだろうが!」

 

 ラスティに鋭く一喝されはっとした。確かに、助けを求めていると思われてしまう。ロインは見たことのない恐ろしい顔でこちらに駆けてきている。

 

「剣をおさめなさいロイン! この人は敵ではないの!」

 

 慌てて叫ぶと、ロインは戸惑いながらも立ち止まってくれたけれど、剣先はまだこちらに向けたままだった。

 

「降ろして、ラスティ」

 

 頼むと、ラスティは数歩進んでから、私とジーンをそっと静かに床におろしてくれた。砕けた壁からは少し離れた場所だ。目を閉じて呼吸しているジーンを床に寝かせる。


「その男は」

「狼の群に食われる寸前のところを助けてくれた魔術師です、命の恩人よ」

「脅され、言わされておられるのでは」

「違います。今そちらに行くわ」


 言いながら顔を上げる。ロインは私ではなくラスティを見ていた。全身で警戒しているのがわかる。獣だったら毛を逆立てているわね。

 

「犬になにをしたのです」

「魔術師が眠らせただけ、ご安心を」

「そう。ラスティごめんなさい。怪我はしていないようだから」

 

 ジーンの頭をひと撫でしてから立ち上がり、進んだ。一歩歩くごとに、今まで眠らせていた何かが目を覚ましていく。責任や、相応しい振る舞い。こんな服を着ていてもうまくできるかしらね。

 

「私を探せと命じられたの? どうやってここを」

 

 歩きながら言うと、ロインは剣を鞘に収めた。私は彼の近くまで歩いて足を止める。彼の金の髪は雨に濡れ、幾筋かが額に張り付いていた。少し痩せた疲れた顔、顎や頬には髭が散っている。別れてから十日も経っていないのに、懐かしくてほっとした。彼の目の中にも安堵が見える。


「志願を。盗賊の市を張っていたところ、森の魔術師が見慣れぬ女を伴っていたと聞き、もしやと」

「あそこにいたの?」

「はい。ただあの日に限り、森での魔物狩りに出ていたのですれ違いに。よからぬ噂のある魔術師と聞き駆けつけたのですが、お元気そうで安心いたしました」

 

 そう言ったロインは、ほんの少し責めるような視線を私に向けてきた。

 

「連絡ができず迷惑をかけました。こちらにも事情があって。明日にはマルドゥムさまの館まで、このラスティに送ってもらう予定だったのですが」

「明日」

「これでも数日前までほとんど寝たきりだったのよ、胸に矢を射られて」

「胸に?!」

「アリアルスの癒やしの水と、偶然見つけてくれたラスティのお陰で、今生きていられるの」

 

 ため息をつきながら言うと、ロインは突然両膝をついて私の前に跪いた。

 

「……お許しを。ついて行くべきでした」

「いいえ、あれでよかったのです、何度同じことがあろうと、戻れと言います。立ちなさい」


 手を伸ばして促しても、ロインは立ち上がらない。暗い廊下にひざまずきうつむいた彼の表情は、よく見えなくなった。

 

「ロイン、さあ」

「バルバロスは」

 

 もう一度立つように促した、伸ばした手がロインの肩に触れる寸前、彼はその名を口にした。低く絞り出された、何かをこらえている声だ。

 

「バルバロスは、イルメルサさまのご遺体がないのはおかしいと、我々が襲撃を画策し、隠しているのだと責め立て」

 

 私はそれを黙って聞いた。

 

「イルメルサさまを連れてこられないのなら、名誉をかけた私闘に応じるか、アリアルスさまをかわりに寄越すかしろと、ふざけた要求を」

「いらぬ心配をかけました、もう大丈夫よ。私が出て行けばバルバロスさまもおさめるしかないでしょう、王の御判断を……」

「まだ嫁がれるおつもりで? あの計画的な襲撃、ガウディールこそが計」

「ロイン」

 

 何を言い出すの。

 

「不用意にそのようなこと、口にするものではありません」

「城ではみなが噂して」

「私はバルバロスさまを信じています」

 

 ロインの言葉にかぶせ、強く言い切った。ガウディールと私闘になんてなったら。ロインが顔をあげ私を見る。

 

「この話はもうおやめ」

「死にに行かれるおつもりで?」

 

 静かな廊下にロインの声が響き、ぎくりとした。その通りだったから。もちろん初めは、万に一つでも幸せになれる可能性があるかもしれないと思っていた。でもそんな気持ちはあの日、あの森でガウディールからの迎えの者たちを見たときに消え去った。

 私に向かい矢をつがえた盗賊を見たときには、誰かが私の死を望んでいると知った。

 今では私も薄々わかっている。バルバロスさまはこの結婚がおいやで。私を一時妻としてそばにおくのすらおいやで。このぶんでは、婚姻を結んだところで早晩墓の下だろう。それでも妹を嫁がせるより、ずっといい。私闘になるよりも、ずっと。

 

「王の命令です。私の意思など」

「馬鹿馬鹿しい」

 

 声をあげたのはラスティ。振り返るといつも通りの不機嫌そうな顔で、大きな黒い犬を従えた彼がいる。英雄の叙事詩に出てくる悪い魔術師みたい。ジーン、目が覚めたのね。歯をむき出しにした彼の犬は、ロインに向かい低く唸り続けている。

 ロインが立ち上がる気配がすぐそばでしたのでちらりと視線をやると、あからさまに胡散臭い人間を見る目でラスティをねめつけていた。

 

「お前もそう思うだろう、シファードの騎士」

「ラスティ、やめて」

「ガウディールの領主はお前とは結婚したくないんだよ、お前の死を望むほどにな。なぜわざわざ行ってやらねばならん? ジジイもジジイだ、嫌なら断ればいいだろうが」

「バルバロスさまでも、表立って王には逆らえない」

「なぜ王はこんな婚姻話を?」

 

 ラスティの疑問に答えたのはロインだった。

 

「蛮族の侵攻が絶えて久しい今、辺境近いガウディール領主に妻がないことが不安の種になるとお考えなのだろう。蛮族に縁の者と繋がりを持たれるより先に、王の信頼厚いゲインさまの娘、イルメルサさまを嫁がせておけば、たびたび我々がガウディールに入る口実にもなる」

「わかったでしょう、ラスティ。私は嫁がねばならないの。その後何かあったとしても、それが王がガウディールを判断される材料になりうるし、なによりシファードの王への忠誠のあかしにはなれるわ、領主の娘を差し出したのだもの」

「馬鹿馬鹿しい!」

 

 ラスティが吐き捨てるように言った。また。

 

「馬鹿馬鹿しくとも必要なのよ、国の守りのためには。祖先たちもみなそうやってきたの」

「しかしイルメルサさま、ゲインさまは大層お怒りだ。ガウディールとの戦になっても構わぬからとにかく娘を探せと」

「お父さまったら!」

 

 力の差のあるガウディールと戦になれば、領民たちが傷つく。領地を荒らされ、略奪され、負ければ皆殺し。

 

「戦なんてとんでもない。帰るわよロイン、着替えて来るから中でお待ち」

「はい」

「うちの騎士を待たさせてもらうわラスティ、適当な場所に連れて行っておいて」

 

 そこまで言って、ラスティの嫌う命令口調になっていたとはたと気がつく。


「……いただける?」

「誤魔化したつもりか、それで。ところで。俺の犬を眠らせたという魔術師はどこにいった」

「あっ」

 

 そうだった、魔術師。すっかり忘れていたわ。

 私とラスティの視線を受けたロインは、鼻に皺を寄せてしかめ面を作る。美男子が台無し。

 

「ここが合わないと、あっちに戻って吐いている」

「あなたは大丈夫なの」

「少し頭痛がするくらいでしょうか。イルメルサさまはお元気そうで」

 

 ロインの言葉に、黙って苦笑した。

 私以外はここが不快だって、本当なのね。

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