第12話 噂と真実


 男たちは、ひとしきり話し続けたあと店を出て行った。なにも言えないで冷めた蜂蜜酒を見ていると、またラスティの手が伸びてきた。彼の右手が蜂蜜酒の器をつかむ。途端、酒から温かそうな湯気が立ち上った。

 

「これも」

 

 言って、手をつけないうちに冷めてしまった羊肉の煮込みを指さすと、ラスティは黙ってそちらにも手を伸ばして温め直してくれた。

 便利ね。便利だし、面白い。ちらりとラスティの顔を見る。彼は私を見ていたようで、彼としっかりと視線が合った。

 

「パンも温められて?」

 

 照れ隠しに無理を言っただけだったのに、ラスティは籠から乾いた黒パンを一切れ取ると、反対の手の平に小さな火を作ってそれを炙ってくれた。黒パンの焼けるいい匂いが漂ってきた。その姿が奇妙で、くすくすと笑う。

 人が魔術を使うところは今まで何度も見たけれど、彼みたいに、大きな魔術からほんのちいさなものまで次々と簡単に行う人を見たのは初めてだ。

 

「ほら」

 

 差し出されたパンを受け取ると、温かくパリパリしている。千切って口に入れると穀物の香りが強くして、なぜだろう、体に染み入るようにおいしかった。


「ありがとう」

「酒は熱いから気をつけろ」

「そうみたいね、わかったわ」

 

 店で食事を取る間、魔術師は私になにも聞いてこなかった。だから私も彼に、あの娼婦が話して来たことについてなにも聞かないでいた。

 食事が一区切りついた頃、店主の男が私たちの近くを通りかかった。

 

「店主、二階を半時ほど借りられるか」

 

 と、ラスティが唐突に店主に顔を向けそう言ったので、戸惑う。ほんの一瞬だけ、さっきの娼婦の心配そうな顔が頭を掠めた。

 

「ラスティ?」

「半時……でいいんですかい?」

 

 立ち止まった店主がちら、と私を見る。なぜ私を見るのよ。

 

「ああ、これを売ってくる間こいつを休ませておきたいだけだ、部屋には誰も近づけないでくれ」

 

 そういうこと。熊の包みを持ち上げたラスティの言葉にほっとした。ほっとしながら、一瞬でも変な想像をした自分がおかしくなる。馬鹿ね、彼が何かする気なら、もうとっくにそうなっている。

 

「わかりました。すぐご案内しますか」

「ああ、頼む。いいか、俺が戻るまで決して部屋から出るなよ、誰とも話すな。店主、金だ、足りるか」

「はい、錆色の魔術師さま、充分で」

 

 ラスティは面倒そうに頷くと、熊の包みをつかみ上げて足早に店を出て行った。部屋とやらに案内されるまで一緒にいてくれないの? 急にぽつんと席に残された私と店主の間に、奇妙な空気が流れる。

 

「ええと、こちらに、お嬢さん」

 

 店主の言葉に今度は私が頷いて、立ち上がった。体が重い。ちらちらと向けられる好奇の視線をかいくぐり、店主に続いて店の奥の暖炉脇の階段を登った。

 簡素な造りの木の階段がぎしぎしと鳴る。


「なんだ、こんな物騒な場所に女ひとり? 俺の部屋に来るか? 守ってやろうじゃないか」

 

 階段を登りきった時、ちょうど部屋のひとつから男が出てきて、こちらを見るなり不躾に声をかけてきた。粗野な雰囲気の髭を生やした男で、革の防具を身につけている。傭兵か盗賊か、そんなところだろう。


「お客さん、こちらの方はお連れさまがおられますので」

 

 困った様子の店主が言いながら、部屋のひとつの鍵をあけて私を中に押し込んだ。ぱたりと閉められた扉から鍵のかかる音がする。その向こうから、男と店主の押し問答がこもった音で漏れ聞こえてきた。

 

「誰の連れだ? 話すくらいいいだろうが」

「それが、はあ、錆色の……」

「娼婦殺しの連れ? じゃあ今のも娼婦か」

「いや、私にはなんとも。部屋に人を近づけるなときつく言われましたんで、どうか」

 

 娼婦殺し? いま、娼婦殺しと呼んだ? ラスティを?

 薄茶色にくすんだ寝具の置かれた、寝台とも呼べない粗末な寝床には、腰掛ける気にもなれない。隅に置いてある傾いた木の椅子にそっと腰掛ける。頭の中では、今聞いた言葉がぐるぐると回っていた。

 

「おい! 女! 俺がお前を買ってやろう、出てこいよ、あいつといると殺されるぞ!」

「ああもうやめてくれ、あの魔術師と揉めたくないんだよ!」

 

 どんどんと扉を叩かれ続け部屋の前で叫ばれては、考えもまとまらない。ラスティ。私は彼の過去をなにも知らない。私の命を救い、犬を撫で、服の下にリスを隠している笑わない魔術師というくらいしか。

 決して入るなと言われたあの部屋、あそこになにがあるのだろう……。

 

「くそ、なんなんだ、急いで戻ってみればこの騒ぎ」

 

 どのくらいそんな騒ぎが続いていたのか。気がつくと、ラスティの恐ろしく不機嫌な声が扉の外から聞こえた。

 

「いやっ、申し訳ありません錆色の方。止めたんですが聞き入れて貰えず……もちろんお連れのお嬢さまとは一言も言葉は交わさせておりませんので……」

「お前が娼婦殺しの魔術師? 思っていたのと随分違うな」

「殺してなどおらん、くだらん噂だ、迷惑な。どけ、おい、部屋を開けろ」

「は、はいすぐに」

 

 鍵の開く音と同時に扉が開いて、ラスティが入ってきた。後ろ手で扉を閉めた彼は、座っている私を見てはあっと大きなため息をついた。部屋の中を進んで来て、躊躇いなく不潔そうな寝台に腰掛けた。みし、と寝台がきしむ音が部屋に響く。

 

「顔色が悪いままじゃないか。なんなんだあの男は」

「知らない。私を娼婦と思ったみたいで、しつこく話しかけて来たの。店主が間に立ってくれたからなにもなかったけれど。しいて言えば、ひどくうるさくて休めなかったというくらいね」

「そうか」

 

 ラスティは床に視線を落としてぽつりと返事をした。

 

「あなたを娼婦殺しと呼んでいたわ」

 

 それがどうしても気になって、聞かずにはいられない。ラスティは顔をあげて私を見た。その顔は、いつも以上に不愉快そうだ。

 

「本当なの?」

「村まで送り届けた後、家に戻るまでの間に殺されたんだ、俺は知らん」

「まあ、じゃああなた、娼婦を買った覚えはあるのね?」

 

 彼の返事に思わず眉をしかめる。

 

「ああ、買った。そんな目で見るな。実験に人間を使いたかったんだよ。きちんと話をして、娼婦が手にするには過ぎた金を提示して連れ帰った。奴隷が使えれば楽なんだが、王国では奴隷が禁止されて久しいからな」

「男性ではできない実験だったのかしら」

「いや、別に。まあ、ついでだ」

 

 ついでって、なにのよ。

 聞いて胸の奥がちくりと疼いた。別に彼が娼婦を買おうが私の知ったことではない。そんな話、城の騎士の間ですらしょっちゅう交わされていたから。ラスティは人里離れた場所でひとり研究をしている若い男の魔術師で、だから……。

 

「さっきの女性は、その人があなたにひどい目に合わされたって」

「ああ、そうだろうな、そう言うだろう。惨たらしく死んでいたのをここの連中は見たんだろうからな。この話はこれ以上したくない。もとよりお前には関わりのないことだ、研究についても、他のことについても」

 

 きっぱりと強く言ったラスティはそこで言葉を切ると、強い光を湛えた目で私を睨んできた。

 

「不愉快だ、お前など連れてこなければ良かった」

「私だって後悔しているわ。娼婦に声をかけられたり、娼婦と間違われたり……」

「くそっ、くだらない、帰るぞ。それともあの髭面の傭兵崩れについていくか?」

 

 イライラとした様子で立ち上がり扉に向かったラスティは、振り返りもせずにそう言って扉を開けた。

 

「うおっ」

 

 と、さっきの傭兵がうめき声をあげながら、扉と一緒に部屋の中によろめいて入ってくる。驚いて叫びそうになったのを、両手を口に当ててすんでのところでこらえた。聞き耳を立てていたのね、恥知らずな。

 

「殺してやろうか」

 

 苦々しく言い捨てて男を睨みつけたラスティは、さっさと歩いて行ってしまう。

 

「ラスティ、待って」

「お嬢さん、娼婦と間違えてすまなかったな」

 

 ラスティを追うのに気を取られていて、すれ違う瞬間、男に腕を掴まれてしまった。掴まれ、すぐに放される。男の目がみるみる驚愕に見開かれていった。

 

「……その体に髪の色、まさか、あの」

 

 気づかれた。魔力がないと。どうしよう、どうしたら。

 

「礼はします、どうかシファードに私が生きていると伝えて」

 

 そっとささやいて、立ち尽くしている男を部屋の中に残し、階段を半ばまで降りているラスティを追いかけた。

 

「ねえ、ラスティ、お願いよ急がせないで。私」

 

 足早に行ってしまうラスティを小走りで追いかけ店を出る。空はすっかり夜の暗さだ。寒い。馬を預けたといっていた店の裏手に消えた彼を追い、そちらに進み……その辺りで息が切れて胸が苦しくなって立ち止まった。座り込みそうになるのをなんとか耐えて立っていると、情けなくて涙があふれ出てきた。

 こんな汚らしいところで、召使い以下の服を着て、娼婦殺しと呼ばれているような男を必死で追っている。ろくに走り回れもしない無様な体。盗賊たちの市で、襲われ死んだ幸運だと噂され、あざ笑われて。

 

「えっ」

 

 と、突然視界が暗闇に覆われた。なにが起きたのか察するより先に、足が宙に浮く。頭から大きな布を被せられ、抱きかかえられている。そう気がついた時には、何の魔力なのかゆっくりと意識が遠のき始めていた。もう指一本動かせない。

 

 誰か、と思うと同時に心に浮かんだのは、父でも故郷の騎士たちでもなく、錆色の髪の魔術師の不機嫌な顔だった。

 私は馬鹿だ。彼は今日、私の体調を気遣い、食事を温めなおし、部屋を取って休ませてくれた。男たちの噂話を聞いて私の嘘を知ったのに、それには触れないでいてくれた。

 

 なのに私は娼婦殺しと聞いて、違うという彼の言葉を疑い怒らせたのだ――。

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