第10話 無茶な命令


「人使いが荒いったら、あなたの飼い主は」

 

 翌日には歩けるまでに回復したジーンの脚に薬を塗った布を結びつけたあと、朝教えられた炊事場へジーンと向かった。

 炊事場は、昨日入浴した中庭の少し手前にあった。同じ廊下の先には短い階段があって、行き止まりにとても大きな両開きの木の扉がある。扉の先にはなにがあっても決して入るな、とラスティにきつく言われた。研究に関する貴重なもの、危険なものであふれているらしい。いつも以上に険しい表情で言われたので、恐ろしくて扉に近づく気にもならなかった。

 

「ええっと、チーズとパンは」

 

 炊事場の一角に無造作に積まれた食材から、目当てのものを探して籠に入れた。無駄口を叩けるくらい元気になったのなら、今日から自分の食事は自分で用意しろと言われたのだ。私が。シファードのゲインの娘が。

 アリアルスだったら怒り狂うでしょうね。顔を真っ赤にしてラスティに向かってわめく妹を想像したら、おかしくて笑えた。

 

「正直なところ、少し楽しいの。ジーン、ほんとよ」

 

 籠を持って、ぴったりとついて来るジーンに話しかけながら、しばらく使った様子のない冷えたかまどや焼き串、回転機を横目に通り過ぎ、壁際にある大きな木の机のところまで歩いた。

 皿替わりに使ったらしいパンが上の食べ残しもそのままに残されていて、使い終わった杯も転がっている。驚いた、ここの汚さを見るに、ラスティは一応は私に運ぶ食事は、諸々気を配ってくれていたみたいね。少なくとも私に運ばれてきた杯は汚れてはいなかったし、お皿も使ってくれていたもの。

 比較的きれいなまな板を引き寄せて、籠からチーズを出して乗せた。板のそばにあった小刀をエプロンで拭って、チーズとパンを切る。チーズもパンも堅い。出たくずを床に払い落とすとすぐにジーンが食べにきた。

 

「自分のことを自分でしてもいいって、いいわね」

 

 干し肉のかけらの乗ったままのパンを見つけ、肉を摘まんで見せると、ジーンはばしばしと音をたてて尻尾を振りだした。

 

「お前だって、自分で食事を用意できれば、私に媚びてみせなくてもいいわけじゃない?」

 

 干し肉を床に放って、嬉しそうに長く黒い肉を噛んでいるジーンを見ながら、堅いパンを千切って口に入れた。本当に硬いわ。パンを噛み締めながら辺りを見ていると、机の上にも、大きな魔石がごろごろといくつも置いてある。高価なもののじゃなかったかしら、魔石って。まあ、私には不要のもの。

 それよりも飲み物が欲しい。エールがあるはずだけれど、きれいな杯が机の上にはない。

 

「もう」

 

 口に入ったパンをもぐもぐと噛み続けながら、食器を乗せた棚まで歩いた。食事中にエールのために杯を取りに歩いたなんて、お母さまが知ったらなんておっしゃるかしら。

 棚には木製の杯しか残っていなかったのでそれを取り振り返った。いつの間にかジーンが音もなく、炊事場の入り口に移動している。

 

「ジーン、チーズは……」

 

 いらないのか、と言おうとして言葉を飲み込んだ。ジーンの後ろ姿が緊張している。耳と尻尾をたて、あの洞窟での姿を思い出した。

 なに。まさか、こんな奥までなにかが入り込んできたの? 動けないでいるうちに、耳にジーンの低いうなり声が聞こえてきた。いやだ、怖い。なんなの。

 

「やめろ、俺だ、ジーン」

 

 と、すぐにラスティの声がした。彼が近くにいるのなら大丈夫だわ。ほっとして入り口のジーンに駆け寄るとジーンはまだうなり声をあげている。

 

「ジーン、ラスティの声よ?」

 

 ジーンの首をそっと撫でながら通路に顔を出す。ラスティを見るつもりだった私の目に、通路の先で立ち上がった大きな熊の凶悪な顔が飛び込んできた。ひっ、と息が詰まる。

 

「叫ぶな! 俺だ!」

 

 叫び声を漏らすより先に、熊の顔がばさりと床に落ち、不機嫌な魔術師の顔があらわれた。

 

「なんっ……なに……」

 

 ジーンが尻尾を振ってラスティに向かって行った。私はその場から動けない。

 

「昨日の熊を解体してきた、毛皮と肉を売りに行く」

 

 固まっていた頭が動き出して、ようやく状況が飲み込めてきた。昨日の熊を、解体した。なるほど。毛皮をかぶって運んできたのね。

 足を動かしてラスティに近づくごとに、不快な臭いが濃くなってゆく。

 

「売るって、狩猟の許可は」

「ない」

「罰されるわよ? それよりあなた……臭い」

 

 思わず鼻と口を手で覆って言うと、ところどころ血や臓物で黒く濡れたローブを着、汚れた手をしたラスティが、不愉快そうにじろりと私を見た。彼の赤茶けた髪には、熊の脂肪らしきものもついている。

 

「ひとりで捌いて来たんだ」

 

 疲れた様子で静かに言って、落とした毛皮の頭部を掴んだラスティはそれを引きずりながら中庭の方へ歩いて行く。血と脂肪の筋が床に跡をつける。ジーンがそれをふんふんと嗅いでいた。

 

「これの脂を削いだら、湯を浴びる。入ってくるなよ。床を洗っておいてくれ」

「私が?!」

「他に誰がいる」

「私に床を磨けって?!」

「磨けとは言わん、水で流す程度でいい」

 

 もうなにも言わん、という意思表示か、左手をひらひらと振って一度目をつむったラスティは、私から顔を背けて、また熊を引きずりながら庭へと消えて行った。床を?

 

「えっと……なにをどうしたらいいの?」

 

 困惑してジーンを見下ろし語りかけると、ジーンもこちらを向いて、クーン、と小さく鳴いた。

 

 ◆◆◆

 

 炊事場のそばにある井戸まで行き水を汲み、たらいにためて運び、廊下の血を流す。それを三度繰り返した時にはくたくたになっていた。

 水を汲みあげるのがこんなに大変だなんて思わなかったわ。

 

「あと少しなんだけど」

 

 ラスティの術で床があたためられているからか、脂も固まりはしないものの、まだところどころ目立つ。薄く広く伸びていて、急いでいると滑ってしまいそうだ。藁でも敷いた方がいいかしら。

 

「なんだ、まだやっていたのか」

 

 しゃがみこんで床をじいっと観察していたら、上からラスティの呆れ声が降ってきた。石鹸のいい香りもする。見あげると、濡れた前髪を下ろしたラスティが立っている。前髪のある彼は、いつもより少しだけ幼く見えた。

 

「血は流れたけど、脂が伸びちゃって滑るの」

「脂か、水は」

「もうないわ」

「汲んでこい」

「私が? もう嫌よ」

「あと一度だけだ、行ってこい」

「できない、縄で手がこんなになったのよ」

 

 頑固なラスティに腹がたつ。立ち上がって、彼の顔の前に両手のひらを突きつけてやった。水を汲みあげるのに何度も縄を引き上げていたから、手のひらが赤く擦りむけて血が滲んでいる。

 

「水を汲んだだけでか? 馬鹿らしい、今までよく生きてこられたな」

 

 ラスティはうんざりした表情を浮かべながら、私の手を取ってその上に彼の手を重ねた。瞬間、手に熱を感じる。くたくただった体の疲れも癒されていく気がした。

 

「もういい、あとは俺がやっておく」

「……ありがとう」

 

 意外と優しいのね、と思ったのもつかの間。ラスティが、床に向け手をかざした。

 

「少し下がれ」

 

 言われるまま下がった途端、床の上に水が染み出てきた。違う、お湯だわ。湯気をあげた熱湯が、床の上を生きもののように流れ、脂を浮かし汚れを取り去ったあと、握りこぶしほどの濁った水の球になって宙に浮かんだ。それはごぼごぼと沸き立って湯気をあげながら小さくなってゆく。そうして、最後には少し炎をあげて、消えた。

 脂の燃えたにおいが漂う中、私はじろりとラスティを睨んだ。

 

「なんだ」

「なんだじゃないわ、今のなによ、あなた水が出せるの?」

「熱湯なら少しな」

 

 少し。あの量が少し?


「全部自分でできるのに、どうして私にやらせたのよ」

「他にやることがあったからだ。魔力なしの貴族の女がここまで役立たずだとは知らなかった」

 

 役立たず。面と向かって言われたその言葉は心を深くえぐった。自分でも薄々そう思っていたのだから尚更。胸にかっと熱いものが生まれる。怒りのような、悲しみにも似たもの。

 

「ひどいわ、なによ、魔力があるからって偉そうに」

「お前だって領主の娘だからと偉そうにしているだろう」

 

 そう言ったラスティは私に背を向けて、入るなと言っていた扉の方へ向かって歩き始めた。

 

「してない。大人しくあなたの言いつけを守っているじゃない」

 

 その背中に言い返すと彼はくるりと振り返り、苦虫を噛み潰したような顔を私に向けた。

 

「昨日の今日でよく言えたものだな、俺の犬が怪我をしたのは誰のせいだ?」

 

 そう吐き捨てられ、うっ、と言葉に詰まる。

 

「わかればいい。ああ、これから熊を売りに行くから夜まで留守にするぞ。大人しくできるというなら、厄介ごとを起こさずに待っていてみせろよ」

「売るって、村に行くの? それならそこから使いを……」

「無理だ。さっきも言ったが狩猟の許可がない。これから行くのは村ではなく森にある盗賊たちの市だ」

「森に盗賊の市が? そんなもの、王国兵に伝えて潰すべきよ、利用してはいけないわ」

「馬鹿な。世間知らずにも程がある。こんな土地で、それを頼みに命を繋ぐ人間もいるんだぞ。お前の飲み食いしているエールやチーズを、俺がわざわざ村まで出向いて買っていると思うのか?」

 

 当たり前のように言われ言葉を失った。それでも、盗賊の市とは。


「貴族の暮らししか知らないのよ。領地からほとんど出たこともないのに、なにをどうやって知れっていうのよ」

「そうだな、悪かった」

 

 心のこもらない、適当な謝罪の言葉を口にしたラスティに妙に腹がたつ。

 

「私を襲った盗賊はいるかしら」

「どうだろうな。あの夜お前を連れ帰ってから一度あそこに戻ったが、盗賊も大勢死んでいた。仲間割れでもあった様子だったが。生き残りも、貴族の輿入れを狙ったんだ、もうこのあたりにはおるまいよ」

 

 貴族の輿入れ。苦笑いが浮かぶ。大きな仕事を狙ったのに、実入りもなく死んでいった盗賊たちが哀れになる。そんなもののために死んだ兵士たちも。

 

「盗賊の市、私も行くわラスティ」

「なんだと?」

「私を世間知らずと言ったのはあなたよ。世間とやらを見せてちょうだい」

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