第9話 魔術師の小さな秘密
のんびりとお湯に浸かっていたら、空が暗くなってきてしまった。一番きれいそうに見えた布で髪を拭きながら、天井の穴から覗く空を見上げる。雲が厚く一番星は見えない。
髪も肌もいい香り。こんなにいい香りの石鹸を使うのは初めてだった。浴槽の縁に置いた薄い緑色の四角い石鹸を手にとって、香りを嗅ぐ。あら、でもこれって、あの魔術師に会ってからたまに感じていた香りだわ。ラスティの匂いだったのね。
体や髪を拭いたこの布からも同じ香りがする。そう気がついたら、なぜか胸がどきりとした。なんなの。早く服を着てしまおう。傷口は、もう小さな薬を塗った布を当てる程度の処置に変えていた。部屋に戻ったら取り替えなければ。
布を衝立の隅にきれいに整えて掛けて、手早く服を着ると、入浴の合間に洗濯した肌着を持って浴槽から離れた。
「おい、大丈夫か」
「やだ、ラスティ? なあに、大丈夫よ」
奥まった岩に洗った肌着を広げていたら、庭にひょっこりとラスティが現れた。振り返ると、離れた場所からこちらの様子を伺いながらも、むっつりと不機嫌そうな魔術師が立っていた。
突然来て、驚くじゃない。服を着たあとでよかったわ。
「食事を運んだらまだ部屋に戻っていなかったから、倒れでもしたのかと」
「あらそうなの? 心配かけてしまったわね、ごめんなさい。とても快適だったのでつい長湯をしてしまったの。もう戻れるわ。ジーンはどうしてる?」
「肉を食ってまた寝たよ。明日の朝にでもまた薬をかえてやってくれ」
「ええ、わかりました。明日ね」
まだ濡れた髪を、小部屋で見つけた絹の紐で一つに結びながらラスティのところへ行くと、彼は妙な顔をして私を見た。なにか言いたげな。
「……なに?」
「いや、ずいぶんと元気になったな。胸に深く矢を突き立て青い顔をしていたのがわずか数日前とは思えない」
そんな風に言われ、思わず笑ってしまった。本当に。
「そうね。アリアルスと、あなたのおかげね」
「俺と誰?」
「妹よ。私は首に革袋を下げていたでしょう、あれには妹が作った癒やしの水がたっぷりと入っていたの」
そう言うと、ラスティは深く頷いた。納得した、といった顔だ。
「そうか、それで生きていられたのだな」
「そうよ。それでもあなたが来なければ、凍死したか狼に食われたか……」
美しい庭を見回した。
「あの時はもう死んでも構わないと思ったけれど、あそこで終わっていたらこんなに美しい庭を見られなかったのね」
とてもきれい。彼が手入れしているのかしら。一見無造作に生い茂っているみたいだけれど、それにしては果物も花も大きく美しい。
どちらからともなく二人並んで歩き始めた。ラスティが手を伸ばし、ざくろを二つもいで、一つを渡してくれた。割れた実から大きな赤い粒がこぼれ落ちそうに姿をのぞかせている。甘い香り。
「気に入ったならここは自由に使って構わない。この庭の果実ならば日に一つ二つ、好きに食え。浴槽は俺は深夜に使うことが多いからそのつもりでいろ」
「わかりました、ありがとう」
歩きながらざくろの実を割って、いくつかの実を口に含んだ。噛むとはじけて甘い酸味が口の中に広がった。種の苦味もおいしい。
「次の秋まで食べられないと思っていたわ」
「貴族の娘も歩きながらものを食うんだな」
ラスティの言葉に、自然と苦笑いが浮かんだ。
どれほど高貴な身分と思っているのか。少なくともうちは、彼が想像しているだろうほどの身分ではない。騎士が裸同然の格好でそこらを歩きまわっているし、部屋には鶏や山羊が飛び込んで来る。パンにはたびたび石が混じっているし、双子の妹と弟は城壁を駆け回っていて、召し使いたちは隙あらばあちらこちらで噂話……。
「ここには小言を言う母も、たしなめる侍女もいないもの」
けれどラスティには黙って澄ました答えを返しておいた。それが彼の求める答えに思えたから。
「どんな小言……おっと!」
と、珍しく慌てた様子の彼の言葉に視線を向けると、彼は自分の首のあたりを押さえていて、その指の隙間にうごめく赤毛が見えた。ラスティはそれを魔術師のローブの首のあたりから中に押し込んで、なにもなかったような顔をして私の視線を受け止める。
「なんだ?」
「今、なにか」
「なにも」
厳めしい顔で手にしたざくろを持て余すように二、三度揺らして、ラスティはそれを私の手の中に転がした。
「やる」
「こんなにいらないわ」
「明日食え」
「なによ突然……」
また視界に動く赤いものが見えた。ねずみ? 違うわ、あれは。彼の首のあたりから、赤リスが顔を覗かせている。小さな二本の耳がぴんと立っている。
「くそっ、なんだ今日に限って」
ラスティも気がついたのね、手を上げてリスを捕まえようとした。その小さな毛玉は彼の大きな手をかいくぐって、彼の腕を伝い走る。可愛らしい。リスは彼の手首まで走り、そこからまっすぐに体を伸ばして私の方に跳んだ。
「あっ」
手を伸ばす間もなく、私の胸にしがみついて着地したその子は、私の体を走って手の上に乗った。くすぐったい。
「食われるぞ、それが狙いだ」
ラスティの言葉の意味を理解する頃には、すでに赤リスはざくろの粒を両手で持って口に押し込んでいた。
「そんなものを食ったら腹を下す」
ざくろは二つともラスティに取り上げられてしまった。確かに、これはこの子には水気が多いかもしれない。
リスは後ろ脚で立って、鼻をぴくぴく動かしながらラスティの持ち上げたざくろを見てまばたきをひとつした。そして。
「いたっ……!」
私の指に、突然がぶりと噛みついた。どうしてよ! 左手薬指の、真ん中あたり。ざくろの果汁でもついていたのか。
痛みと驚きに固まる私の手から、ざくろを投げ捨てたラスティがすぐにリスを剥がしてくれたけれど。指には穴があき、ぷくりと赤い血があふれてきている。涙が滲む。
「あんまりよ」
「くそっ」
魔術師はリスを庭に放ち、私の左手首をつかんで引き寄せた。なんの躊躇もなく私の手に触れた、彼。これまでもだけれど。
爪が短く切られたラスティの右手の指の先は、薬草や薬品がついているのか、ほんの少し薄く紫に染まっている。体は大きいのに、神経質そうな細く長い指をしていて、城の騎士や父の手とは全く違う。その手はあたたかい。彼のねぐらと同じに。
「悪い、油断した」
「痛いわ」
「それほどでもないだろう、我慢しろ」
ラスティは傷ついた私の指を伸ばしてそこに顔を寄せてきた。彼の前髪が一筋落ち揺れている。
「この程度ならば治せる」
独り言のような低い呟きが耳に届いたと同時に、傷に熱を感じた。すごくあつい。
「あつ……」
「しっ」
文句を言おうとしたら、腰を屈めた彼から上目遣いに睨まれた。なによ。驚いたのよ。妹が癒やしの術を使ってくれる時は、患部はいつもひんやりと冷たくなっていたから。
術者の体に流れる魔力の種類によって変わるのね。小さな傷口は見る間に塞がって薄くなり、じきに消えた。
「すごいわ、ラスティ。アリアルスでもこんなに早くは治せない」
「お褒めいただきなによりだ」
すっかりきれいになった指を曲げ延ばししながら言うと、ラスティは珍しく穏やかな表情で嫌みを言った。
「さあ、部屋に戻って夕飯を食え。ざくろは落としてしまったな……」
「こちらならまだ食べられるわ」
ラスティが投げ捨てたざくろのひとつ、まだ割っていなかった方を拾って、皮についている草を払った。
「ねえ? こんな風に傷を治せるのなら、どうしてジーンや私の傷は薬で治しているの?」
並んで廊下に向かって庭を歩きながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「お前やジーンの傷は深かった。俺の治癒は発熱するからな、ジーンは暴れるだろうし、お前の場合は治癒の為に生じさせた熱が、心臓や肺に悪さをしないとも限らない」
「そうなの……あの、じゃあもうひとつ聞いてもいいかしら」
「言ってみろ」
「さっき、どうしてリスが服の下に……」
「それは秘密だ、気にするな」
「その下にまだなにか生き物は隠れているの?」
「それも秘密だ」
「あなたのやっている研究に使っているの? 虐めていない?」
「研究のことを気にするんじゃない。“ひとつ”聞いてもいいか、というから許可したんだイルメルサ。いくつ質問を並べたてるつもりだ」
「だってどれも答えてくれていないじゃない――あなた、私の名前を覚えていたの?」
初めて名前を呼ばれた。
思わず立ち止まった私を、ラスティはいつもの不機嫌な顔で振り返る。
「ああ、覚えている。記憶力には自信があるんだ。さあ、ひとつ答えた。もうなにも聞くんじゃない」
「ずるいわそんなの!」
言うが早いか、さっさと大股で歩いていくラスティを追いかけながら文句を言うと、彼はちらりと私を見て、本当に嫌そうな顔をした。
「お前、元気になったな」
自分でもそう思う。
上から吹き込む冷たい風が心地よく感じるほどに心地いい、あたたかな美しい庭を振り返り、ひとり心の中で呟いた。
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