第8話 イルメルサの小さな嘘


 黒いジーンの脚を、ラスティが運んでくれたお湯に浸した布でそっと拭う。力を入れると痛がって逃げようとするので、そっと。

 それから、これもまたラスティが作った特別の薬を数本の指で掬ってジーンの脚にべたりと乗せた。鼻につんとくる酷いにおいだけれど、これでどんどん良くなっている。半日前には酷く腫れていた脚がもうきれいに細く戻って、薄桃色の新しい肉や皮膚が傷を覆い始めているのだもの。

 

「あとは、これね、この布を……ああ大丈夫よ、すぐ終わるから。うまくなったのよ、部屋で練習したの」

 

 後ろ脚の傷に布を巻いて、ぎゅっと縛った。強く縛れ、とラスティに言われている。

 

「さあできた」

 

 ほっと息をついて、ボロボロのマントを畳んだだけの寝床で小さくなっているジーンの頭をなでた。

 

「噛まれなかったか」

「ラスティ」

「ジーン、水だ」

 

 ジーンの寝床のある廊下の一角にやってきたラスティが、ひびの入った木の皿を無造作にジーンの前に置いた。ジーンは首を伸ばすと、水に鼻を入れてふんふんと息をして水を飛ばし出している。

 

「遊ぶな、飲め」

 

 廊下とはいえここも暖かく、静かで風の通る居心地のよい場所。なんだか落ち着くので、私も床に座ってくつろいでいた。不思議なことに、ほんの半日前にあの洞窟であんなに疲れきったと思ったのに、今はもう気力が戻っている。

 ラスティは屈んで、今縛ったばかりの結び目をさわって確認すると、小さく頷いた。

 

「まあ、いいだろう」

 

 まあってなによ。と思ったけれど、口答えはせずに黙って薬の残った手をエプロンで拭いた。いやだわ、なんでこんなにベトベトするの? これ。

 険しい顔で茶色くなった手とエプロンを見比べていたら、視線を感じて顔を上げた。ラスティが私を見ている。

 

「……なにか?」

「いや、そうしていても村の娘には見えんものだな」

 

 言われ、自分を見下ろす。色褪せた若草色の羊毛の服に、薄い卵色のエプロン。髪は束ねて後ろで縛っただけ。こんな姿なのに。

 

「当たり前でしょう。私は領主の娘で、ガウディールの女主人になる人間なのよ」

 

 つん、と顎を上げて答えた。

 ジーンの世話を手伝いたい、とラスティに申し出て許可を得たあと、高価なドレスでは働きにくいだろうとラスティがある小部屋に連れて行ってくれた。そこはいろいろな品物が雑然と放り込まれた部屋で、高価な燭台からぼろ切れまで様々なものが置いてあった。この服もその中にあったものだ。

 

「盗賊の残した品物などと手を着けずにいたが、役に立つものがあって良かった」

「ここが盗賊の隠れ家だったなんて。本当にもう残党はいないのね?」

「ここをねぐらにしていた奴らは殲滅した。以来三年誰ひとり訪れない、まず大丈夫だろう」

 

 本当かしら。少し不安に思いながらジーンに目を向けると、ジーンは口を開けて大きなあくびを一つしていた。

 

「眠いの? 少しおやすみ」

 

 そっとジーンの眉間を撫でると、ジーンは前脚の上に顔を置いて目を閉じた。

 

「ガウディールの女主人になると言ったか?」

「言ったわ」

「魔力のないお前が?」

 

 ラスティに怪訝そうに聞かれ、少しむっとした。信じていないのね。

 

「ガウディールの領主さまをご存知?」

「いや、全く」

 

 そうか。知らないの。それで疑問に思うのだわ、若く美しい領主なら、私などを妻に迎えるはずがないから。

 

「ガウディール領主バルバロスさまは、とても勇敢で美しく、女性にも人気がある方なのよ」

 

 ――騎士から慰めに聞かされたお若いときの話だけれど。その言葉は心の中にしまっておく。すぐに眠りについたジーンの、穏やかに上下するお腹を見ながら静かに話した。

 

「この話は王がお決めになったことなの。ガウディールとシファードの絆を深めよとのご意向なのね」

「政略結婚か」

「両親も政略結婚よ。でもとても幸せに暮らしている。私も幸せになれるわ、きっと大切にしてくださる」

 

 迎えにと森に寄越された、たったひとりの頼りない騎士と、徒歩の若く経験の浅い兵士たち。魔術師が一人もいないというのに、長時間強行の旅路。私を送り出すときのお父さまの辛そうな顔。そんなものが水の中の泡のように浮かんでくるのを必死で打ち消しながら、今だけはと、なにも知らない魔術師に夢物語を語って聞かせた。

 

「そうか。未来の女主人では丁重に扱わざるをえんな、入浴の準備を整えるとしよう。洗ってはやれんがひとりで使えるな?」

 

 と、黙って話を聞いていたラスティは、突然そう言って立ち上がった。入浴?

 

「え? ええ、もちろん」

 

 ひとりで入った経験はないけれど、なんとかはできるだろう。元盗賊の隠れ家の入浴設備というのが少し気にはなるけれど。体を拭ける程度でもありがたい。

 

「ついて来い」

「石鹸と髪を拭く布も用意してちょうだい」

「俺に命令をするなと言わなかったか」

「命令しているつもりはないのよ……」

 

 立ち上がってラスティを追いかけながら、自分の話し方をほんの少しだけ省みた。普通に喋っているつもりなのに、人にはそんな風に聞こえてしまうのね。

 

「私の勝手でジーンを傷つけてしまって本当にごめんなさい」

 

 彼の背中に、謝罪の言葉をぽつりとつぶやく。魔術師はちらりとこちらを振り返ったけれど、何も言わなかった。

 

 ◆◆◆

 

「ここだ」

「ここ……」

 

 ラスティに案内された浴場は、想像以上に美しかった。廊下の奥、いくつもの角を曲がってたどり着いたのは、天井にぽっかりと穴が開いて空が見える中庭で、すべての季節の植物が青々とした葉を繁らせていた。不思議だし、とてもきれい。色とりどりの花が咲き、季節外れの実が揺れている。草花の爽やかな香りで満ちていた。


 隅には無造作におかれた衝立があり、その奥に浴槽があった。東の砂漠の異国を思わせるタイル貼りの浴槽はひとりで使うには勿体ないほど大きく、すでにたっぷりとお湯が張られ湯気をあげている。竜の形の彫像の口から絶え間なくお湯が吐き出されているのだ。こんなに大量のお湯が一度に使えるなんて信じられない、とても贅沢だわ。

 

「洗濯をしたければそこの木桶を使え」

 

 やわらかい緑の草を踏んで歩く。なぜか、あちこちに大人のこぶしほどもある大きな黒い魔石が落ちている。入れ物は宝石ではないわね、なにかしら。それを避けながら見上げると、数日ぶりの空。相変わらずの冬の曇り空だけれど。

 

「転ぶぞ。洗った衣類はそこらの岩に乗せておけ、雨でもなければ半日もすれば乾く」

「あ、え? ええ、わかったわ。ねえラスティ、このお湯はあなたの魔術で?」


 そう聞くと、ラスティは冷たい眼差しで私を一瞥した。

 

「いいや。これは盗賊たちの手柄。湯の出る水脈を掘り当てたらしい」

「そうなの。地面の下にお湯が流れているからここはこんなに暖かかったのね」

「それは俺の魔力だ」

「えっ」

 

 このあたり一帯が暖かいのが? 私の部屋も、廊下も? それをしながら、内部の明かりをいくつも灯し、魔術の研究を進め、熊を倒すために火の魔術と稲光の魔術を使ったの?

 

「ラスティあなた……」

「わかっている。俺の魔力量は化け物並なんだよ」

「羨ましいわ」

 

 私から目をそらしながら漏らされた彼の自嘲気味の言葉に、心からの感想を返した。羨ましい。彼の万分の一でも魔力があれば。

 

「私の魔力量は死体並みなの」

「知っている」

 

 詰まらなそうに彼は答えた。


「お前のような人間がいるとはな。しかも貴族の女」

「あなたみたいに失礼な人は初めてよ、ラスティ。私が嫁げばあなたなんかとはもう口をきくこともないのよ。侍女ごしの会話になるわ」

 

 もちろん嘘だ。そこまで高貴な身分ではない。知ってかしらずか、魔術師は私を頭のてっぺんから足の先までゆっくりと見下ろすと、目を細めて睨んできた。

 

「お前のかんに障る命令口調を聞けなくなるとは残念だよ」

「まあっ」

 

 本当に。驚くほど失礼だわ。

 

「それなら今のうちにたっぷりと聞かせておかなくてはね。石鹸はどこ? ラスティ、早く持ってきて」

 

 怒るかしら、と思ったら、案の定ラスティは忌々しそうに舌打ちをして睨みつけてきた。

 

「助けるんじゃなかった、小うるさい貴族の小娘」

「助けなくていいと言ったわ」

「さっきは助けてと叫んでいなかったか」

 

 口答えしたら間髪を入れずそう返され、言葉に詰まった。確かにそうだ。

 

「あれは……ジーンを助けてと……いえ、違うわね、そうよ、ありがとう。あなたの助けに感謝します、ラスティ」

 

 こう痛いところを疲れては、しょんぼりと答えるしかなかった。


「でもそういえば、あの時どうしてあそこにいたの? 私は黙って部屋を出たのに」

「居住区と洞窟の境目、あそこをなにかが通ったときにはわかるように術をかけてある」

 

 ラスティはふん、と鼻をならして踵をかえすと、衝立の向こう、庭の方へ行ってしまった。

 ひどく怒らせてしまったかしら。不安になって追いかけると、彼は庭の円柱の脇に無造作に置かれていた、半分朽ちた古い木棚に手を突っ込んでいた。そこから何かを取り出すと、こちらに向けて投げてきた。

 

「そら、お望みの石鹸だ。受け取れ」

「ちょ……!」

 

 慌てて両手を出したけれど間に合わない、石鹸は草の上にごとりと落ちて、転がっていく。もう。

 

「体を拭きたいなら、衝立にかかっているのから好きに選んで使え、どれもそう汚れてはいない」

「“そう汚れて”って?」

 

 転がった石鹸を追いかけながら聞くと、耳を疑う答えが返ってきた。

 

「どれを使ってどれを使っていないかなんて覚えていないんだよ」

 

 なんてこと。

 拾い上げた石鹸からは、夏の草の香りがした。

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