第7話 洞窟に潜むもの
「わかっているわ、あなたチーズが目当てなんでしょ」
椅子に腰掛けラスティの運んでくれた食事を口に運びながら、床にチーズのかけらをいくつか落とした。すぐにふんふんと鼻を鳴らしたジーンがチーズを拾い食べてゆく。
「おいしい? いい子ね」
ジーンの体を撫でていると、自然と笑顔になる。
ここで目が覚めてから四度の夜を過ごした。今は五日目の昼。今朝からやっと、普通に起き上がり、ひとりで立って歩けるようになった。侍女が着付けてくれるほど綺麗ではないけれど、久しぶりに自分の服も着られた。
ラスティは治癒魔法は苦手だと愚痴りながらも、毎晩きちんと魔力を込めた塗り薬を持ってきてくれる。それが回復に役立っているのは使う私に一番よくわかった。胸の傷がどこまで消えてくれるかは、まだわからないけれど。
それにとても体調がいい。城にいた時より元気な気がするくらい。エールに混ぜものをされなくなったせいもあるだろう。
「部屋を出ても、あの魔術師は怒らないかしら? ジーン」
ラスティが領地に連絡をしてくれる様子はないし、自力で森に向かうしかない。
「彼に挨拶はできないわね、夜までは待てない」
黙って出て行ったら、彼は腹を立てるかしら。ラスティの顔を思い出して軽く身震いする。
チーズの最後のひとかけをジーンにやりながら戸口を振り返っても、当たり前だけれど扉が開く気配はない。荷物から取り出しておいた本を開いて、すぐにまた閉じた。幼い頃、母が何度も読み聞かせてくれた魔法書。魔力や魔術の初歩について、簡単な言葉で説明してあるものだ。
いつか魔力が宿る日が来るからと、それこそ呪文のように母に繰り返し繰り返し読まされた本。
「嫁入りに持たせる本かしら……」
どうせなら建国記を持たせて欲しかった。それか、刺繍の図案。荷物を全て取り出しても、持たされていた書物はこの魔法書一冊だけ。
お母さまが北方の呪術師に、魔力を込めた本を一から作り読ませれば娘にも魔力が宿るとそそのかされて職人たちに作らせた、私のための本。
もちろん効果などなかった。ため息をついて、盆の横に本を置く。いわれはどうあれ高価な書物だ。礼としては充分だろう。
ジーンの耳の後ろを掻いてやってから立ち上がる。マントを羽織って部屋を出た。部屋の外は、中と同じ赤茶けた石を積んだ通路が左右に続いていた。
「外に出るのはどっち?」
私について部屋を出てきたジーンに問いかけても返事はない。この黒い犬は、ただ黙って私を見上げているだけ。
じっと立っていると、左の方から冷たい風が流れてきている気がした。
「きっとこっちね。あなたは来ないで、ジーン」
ついてこようとするジーンを押しとどめ、ほんのりと暖かい廊下を、流れ込む風を頼りに進んでゆくうちに、気がつくと外かと見紛うほど寒い場所に出ていた。洞窟だ。ラスティの住処は洞窟の奥にあったんだわ。
湿った土の匂いのする中、ぼんやりと光る苔の明かりを頼りにでこぼこ道を進む。いつの間にか吐く息も白くなっていた。と、視界に赤い線が入り込んでぎくりと足を止める。
「毒虫」
体の長い、脚の多い赤い毒虫が岩壁を伝って這っていた。シファードで見かけるのより大きい。気持ちが悪い。いやだ、こっちに来る! ドレスの裾からでも入りこまれたら。
うぞうぞと脚を動かし長い体を波立たせて近寄ってくる虫に嫌悪して、軽く裾を持ち上げ後ずさると、入れ替わりで黒い影が後ろから走り出て来た。
「ジーン!」
ジーンは前脚で毒虫を払いのけ、岩に叩きつけて殺してくれた。
「ついて来ていたの? ありがとうジーン、勇敢な賢い子」
得意げに私に顔を向けたジーンをしゃがんで撫でると、嬉しそうに尻尾を振ってくれる。本当にいい子だわ、連れて行ってしまいたいくらい。でも。
「これ以上は迷ってしまうわね……」
視線の先には、いくつもの入り口が口を開けた空間が広がっていた。どこに進めばいいのかわからない。
外に出るのにこんなにかかると思わなかった。それとも、出口はこちらではなかったのかしら。なんにせよ、この洞窟が一本道のうちに戻るしかない。出歩くにはまだ早かったのか、体力も予想したより消耗が早い。
こんな洞窟で迷って死んでも死に損よ。
「悔しいけれど、あなたの主人の力がなければ外にも出られないみたい」
呟いて立ち上がった時だった。ジーンの耳が、ぴん、と立った。黒い瞳が洞窟の先の闇を見つめている。
ぐるるるる、おとなしいジーンが喉の奥で低いうなり声をあげた。その姿に、ここに来る途中、狼の魔物と対峙していた時の騎士アリンを思い出す。何かいるのだ。この先に。
私は動けなかった。根をはったみたいに地面に張り付いて動かない足で、馬鹿みたいに突っ立ったまま、ジーンの見ているものを見ようと暗闇に目をこらすことしかできない。
のそり、と視線の先で大きな影が動く。熊だ。盗賊を食らっていた熊の魔物、あれよりも大きい。熊はすぐに私たちに気がつき、ゆっくりとこちらに歩いてくる。私はジーンの首の肉をつかんで、ゆっくりと後ずさろうとした。それなのにジーンが、唸りながら駆け出してしまう。
「だめよ!」
短く叫ぶ。それが私にできたすべてだった。握った右手を口にあてて、尻尾を立てたジーンが熊に向かってゆくのをただみつめる。
熊は、恐らく突然走ってきた犬に怯み、一瞬出てきた洞穴に戻ろうと迷うそぶりをみせた。そうよ、そのままお戻り。強く願ったけれど、戻ろうとするのと同じくらい、こちらに来ようとも思っているみたいで、ジーンが唸りながら近づくと戻り、ジーンが離れると進み……。そんなことを繰り返していた。
そのうち、じれたジーンが牙を剥いて大きく吠えかかった。熊は驚いたのかか細い唸り声をあげ、背中を向けて洞穴に向かい歩き始める。ほっとしたのもつかの間、熊がくるりとこちらを向いてどさりと座り込んだ。
ジーンはしばらく熊を見つめていたけれど、そのうち穏やかな顔になってこちらに戻り始めた。と、熊が立ち上がり軽く駆け始める。
「ジーン!」
私が叫ぶのと、ジーンが身を翻して熊に噛みつこうと飛びかかるのは同時だった。熊も立ち上がり、右腕を高く振り上げて大きな口を開け高い声をあげる。その声が洞窟に大きく響いた。
ジーンが熊の腕に噛みつくと、熊は体を振ってそれを振り払った。地面に降り立ったジーンがまたすぐに熊に躍り掛かる。そのジーンに、振り下ろされた熊の爪が。甲高いジーンの鳴き声が。見たくない。私はぎゅっと目を閉じ顔を背け、叫ぶ。
「嫌っ! 誰か! 誰か助け……」
「ジーン離れろ!」
後ろから来た誰かが、私の背を押しのけ走り抜けて行った。ラスティの声。目を開けると、人の頭ほどもある大きな火球を作り出したラスティが、それを熊の足元に投げつけていた。爆発音。地面が揺れる。
怯んで、今度こそ洞穴に逃げ帰ろうと背中を向けた熊に、ラスティは閃光を作り出し放った。それは真っ直ぐに熊を貫き、熊はその一撃で地に倒れ伏したのだった。
短い時間にあまりに多くのことが起こったせいか、終わったのに動けない。熊は倒れ、毛と肉の焦げた臭いが漂っている。
「ジーン」
魔術師が、彼の犬に呼びかける静かな声が私の耳に届いた。そうだわ、ジーン。
ラスティが屈み込む先に、ジーンはいた。ばしばしと尻尾を振るいつもの音が聞こえる。ジーンは立ち上がろうとしてはよろりとよろめいて座り込むのを繰り返していた。
「怪我をしたの?」
数歩近づいて恐る恐る声をかけると、ラスティが憎々しげに私を睨んだ。
「後ろ脚がえぐれている」
「そんな。ごめんなさい」
どうしよう。
「謝って治るのか? 魔力もないくせにこんなところまで来てどうするつもりだ。死にたいならひとりで死ね、俺の手を煩わせるな」
ラスティはジーンを抱え上げると、立ち尽くす私の脇をすり抜けて行こうとした。数歩進んで立ち止まった彼はこちらを振り返り、私の足元に何かを投げよこした。それは開いて地面に落ちる。部屋に残してきた本だった。
「そんなくだらないもの、残して行かれても迷惑だ」
冷ややかに言い捨てて、ラスティは戻っていった。くだらないもの。私自身のことを言われた気がして、涙がこぼれ落ちそうになった。それを必死でこらえながら、屈み込んで本を拾った。
母が記させた表紙の金文字が目に入る。
“愛しい我が子イルメルサ”
勇気を出すのよイルメルサ、大きな熊に飛びかかってくれたジーンのように。シファード領主ゲインの娘。ぎゅっと唇を噛んで、立ち上がる。
「ラスティ待って! 何か手伝わせてちょうだい」
大きく叫んで、先を歩く彼の背中を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます