第6話 魔術師のねぐら


 はあはあと荒い息遣いが耳のそばで聞こえ、ぼんやりと目を覚ます。それが何か思い出すより先に頬を舐められ、不快感に一気に覚醒した。


「いやっ」


 反射的に顔を背けて手で顔を庇うと、今度はその手をべろりと舐め上げてくる。黒い犬。


「やっ、やめて、誰か……」

 

 体を動かすと、胸が痛む。そうだ、胸に矢が。

 手の甲を舐めさせたまま視線を胸元に向けるとそこに矢はなく、けれど服もなかった。胸元の大きく開いたワンピース型の肌着だけ。白い肌着は渇いた血で黒く汚れている。その下の体には布が巻かれ、胸の矢傷が手当てされているとわかった。軟膏の、脂と薬草の混じった匂いもする。

 誰が。思い浮かぶのは、この犬の飼い主、私を抱き上げた不機嫌な魔術師ただ一人だけれど、まさか。

 

「これをしたのはお前の主人?」

 

 男の姿を思い出しながら、犬の耳のあたりをくすぐり撫でると、犬はふんふんと私の手を追って顔を動かしてきた。

 起きられるかしら。犬から手を離し体を起こしてみようとしたけれど、体に力が入らないうえ傷も痛む。駄目だわ。

 寝かされていたのはほんのり赤茶けた石を詰んだ壁の部屋の、埃くさい木製の寝台の上だった。寝台に藁を積み、狼の毛皮が敷いてある。体の上には薄く古い見覚えのないマントがかけてあった。小さな部屋で窓はなく、恐ろしく殺風景なところ。寝台に椅子と机、そこに魔力で灯された明かりが乗せられて部屋を照らしている。

 

 机の横の壁際に、馬に運ばせていた私の荷物を入れていた袋が一つ無造作に置かれていた。血と泥で薄汚れているけれど、あれは間違いなく私のだ。その脇には深緑のマントが。

 黒い犬は、寝台の上に顔を置いてじっと私を見ている。その頭をひとなでして、力なく笑った。

 

「起きあがれないわ。ガウディールに行かなくてはいけないのに」

 

 言うと、犬はくうん、と小さく鳴く。

 

「お前賢いわね、名前はなんだったか……お前の主人が何度も呼んでいたけれど」

「ジーンだ」

 

 独り言のつもりだったのに、扉がきしんで開く音とともに返事が返ってきてどきりとした。一瞬、犬が話したのかと。

 

「目が覚めたか。丸一日以上眠り続けていたぞ」

 

 足音がして、伸びてきた手が犬を寝台から引きはがす。入れ替わりに錆色の髪の男が顔を見せた。前髪を後ろに流して額を出している。眉根の寄せられた不機嫌そうな形の眉の下に、赤銅色の目、厳しい鋭い視線、ぎゅっと結ばれた口元。ふわりと草の香り。


「ここで死なれてはかなわん、よかった」

 

 なんの愛想もない、無愛想でぶっきらぼうなものいい。何か答えなくては。なにか――。

 

「私は、シファード領主ゲインの娘、イルメルサです。ガウディールへ婚約式の為に向かう途中、盗賊に襲われました。助けに感謝します」

 

 そう言うと、男は軽く目を見開いた。それから、皮肉げに口元を歪めて笑みを見せる。

 

「貴族だろうとは思ったがシファード領主の娘とは。助けなくていいと言われたから心配していたが、感謝してもらえてよかったよ」

「あなたは誰で、ここはどこなのですか」

「俺はラスティ、魔術師だ」

 

 ラスティ。平民らしい簡素な名。

 

「ここは俺のねぐらで、場所はレイウッドのどこか」

「レイウッドの森番なのですか?」

「いいや」

 

 森番ではない。まあ、魔術師の森番など聞いたことがないからそれはいいとしても。ねぐら。森番ではない……。

 一つの可能性に行き当たって、はっとした。ラスティと名乗った魔術師の顔を見返すと、彼は表情を変えもせず頷く。

 

「不法居住だ」

 

 許可なく森に住んでいる。でも、それでは。思わず起きあがろうとして、胸の痛みに小さくうめく。

 

「傷は深かった、生きているのが不思議なくらいだったんだぞ、数日は横になっていろ。悪いが癒やしは不得手でな」

「連絡を……私が生きてここにいると、父とガウディール領主に伝えて」

「馬鹿な。無理だ、俺が縛り首になる」

「では、すぐに連れて行って。森の外、騎士マルドゥムさまの館まででいい」


 頼むと、ラスティは苛ついた様子で首を横に振る。彼の横にいたジーンが、落ち着かなげに彼を見上げた。

 

「傷が深いと言っただろう。二日は寝ていろ。それに俺も森を離れるわけにはいかん。魔力作用の経過観察をしている研究がひとつふたつある」

「そんな、他に人は?」

「ここに人は俺しかいない」

「私はどうすれば?」

「十日もすれば時間ができる。騎士のところでも嫁ぎ先でも、望むところまで連れて行こう」

「十日? バルバロスさまがお気を悪くされてしまう。娘を隠したと父にお怒りになられたら……」

 

 シファードが責められて私闘に発展してもおかしくない。ガウディールの騎士は死に、シファードの騎士たちは無事に帰っているというのに。

 だいたい見知らぬ平民の男と十日も二人きりで過ごしたなんて知られたら、この婚約自体が危うくなる。

 

「すぐに誰か人を呼んで。それと女性を。森番の妻でも構わないから」

「俺には関わりないことだ」

「そんな、礼ならば、あとで望みのものを」

 

 そう口にした瞬間。ラスティが目を細め、明らかな怒りの表情を浮かべた。赤銅色の瞳が暗く輝く。部屋の空気が凍り付いた気すらする。しまった。

 

「気分を害したなら……」

「俺が望むのは静寂だ。人と関わるのが嫌でここにいる。俺の望みはお前が少しでも早く出て行くこと。金も名誉もいらん。食事と薬は与えてやる。傷が癒えたら出ていけ」

「ラス……」

「行くぞ、ジーン」

 

 彼は私を見もせず、部屋を出て行こうとした。ジーンは部屋の真ん中に座り込んで丸くなっている。

 

「ジーン。くそ、好きにしろ」

 

 ジーンはパタリと一度尻尾を振って、彼に何か伝えたみたいに思えた。ラスティが魔術師らしからぬ悪態をついて大股で部屋を出て行き、部屋にはジーンと私が残される。

 唯一の助け手を怒らせてしまった。馬鹿な私。ため息をついて目を閉じると、涙が一粒こぼれた。

 

「戻らなければ」

 

 死体になってでもいい。胸を射られた“私”の存在が、真実を語ってくれる。シファードもまた被害者なのだ、と。

 ぐっ、と手をついて体を起こす。痛みに構っている場合ではない。ジーンが顔を上げた。大丈夫、簡単よ。立ち上がって、服を着て、ここを出る。あそこにあるのが服を入れた袋なら、本が入っているはずだ、魔術師にはそれを礼に残していける。

 足を床に降ろし、立ち上がり、よろよろと部屋の隅に向かった。歩きながら思う。ここは、どうしてこんなに暖かいのかしら。裸足で石の床の上を歩いているのに。暖炉もない部屋がどうして?

 ほんのりと、床が暖かい。

 途中立ち上がったジーンが、気遣わしげに私の脇を一緒になって歩き出した。

 

「いいのよ、あっちへお行き……」

 

 手で払うしぐさをしても、犬は私から離れなかった。

 

「よかった、中は無事ね」

 

 予想通り衣類と本を入れたと聞かされていた袋。力が入らず震える指で肌着やドレス、ベルトを引き出した。きれいに裾や袖にひだを寄せるのは無理でも、着替えるくらいはできる。

 衣類を抱え床に座り、壁に頭をもたれさせた。これだけで息があがる。と。

 

「ここも……」

 

 頭を離し手で壁に触れると、そこもまたじんわりと暖かかった。とても心地がいい。それだけでなく何故だろう、体の力が戻ってくる気さえする。

 

「なにをしてる」

 

 突然ラスティの鋭い声が部屋に響いた。振り返ると、盆を持ったラスティが戸口に立っていた。自分の姿を思い出し、手にしていた服で慌てて体を隠した。

 

「寝ていろと言っただろう」

 

 苛立ちを露わにした彼は、こちらの姿に頓着した様子もなく、つかつかと部屋に入ってくると小さな盆を机の上に叩きつけ置き、私の両二の腕を掴んで無理やり立ちあがらせた。痛い。

 

「死にたいのか?」

「行かなければいけない……大切な婚約式なの」

 

 思いを口にしたら、同時に涙が溢れ出した。そのままラスティを見ると、一瞬彼の厳しい瞳が揺らいだ気がした。

 

「そんなに焦がれた相手なのか? 十日くらい待つだろう、探しにも来る」

 

 恋しい相手なのではない、成されねばならない婚約なのだと言おうとして、やめた。この魔術師には関係ない。

 

「十日なんて……」

 

 そう言う間にも、涙が次々にこぼれていく。

 

「くそ、そればかりはどうにもならん。とにかく数日は寝ていろ、食事も取れよ。ジーン、来い!」

 

 私の体を突き放し、寝台の方へ押しやりながらラスティは部屋から出て行った。強く命令されたジーンも、一緒に出て行ってしまう。

 食事。食事を持ってきてくれたの。寝台に腰掛けぼんやりと、彼が机に置いた盆を見る。杯。木の皿には黒パン、チーズが少しに、新鮮な赤いぶどうが一房乗せられている。ぶどう。こんな寒い土地で、この季節に。

 魔力で気温を操って、時節外れの植物を育てられる魔術師の話を聞いた覚えがある。王都のそばに、王族の野菜や果物を実らせる、専用の場所があるとか。でもそれは膨大な魔力だけでなく、植物の知識も必要な高度な魔術らしい。

 ラスティ、彼は何者なのだろう。

 

 ◆◆◆

 

 魔術師は日に三度部屋に来る。

 

 水の入った桶と布を持って、前触れもなく突然入って来るのが始まりだ。それで、朝が来たのだとわかる。濡らした布を手渡してくれるので、顔を拭く。初めて彼が来た朝、拭いてくれるつもりなのかと待っていたら、ものすごく低い声で「その両の手は飾りか」と言われて恥ずかしかった。

 昼前にはジーンを伴って昼食を置きに、夜には夕食と塗り薬を置いて、ジーンを連れて魔術師は出て行く。眉間にしわを寄せ、私を睨むようにちらりと見て、話す用事のあるときは怒ったみたいな低い声で。盆は毎回次に来たときに下げていくので、食べる時間だけはたっぷりとあった。黒パンにチーズ、新鮮な果物がひとつに、エール。

 

 私はといえば、今日もただここで横になっている。傷はふさがったけれど、動くとまだ痛むし、なによりひどく眠かった。ラスティが毎食持ってくるエールを飲むと眠くなる気がする。アルコールが濃いのか、なにか――薬か魔力――を盛られでもしているのか。

 気がつくと、うつらうつら浅い眠りについていて、ジーンに舐められ目を覚ます。そんなことを繰り返していた。

 

「きっともう日は沈んだわね、今日も領地に連絡ができなかった」

 

 みな、どうしているのだろう。ガウディールでは、私たちが到着しなかったと問題になっているに違いない。シファードにはもう伝わっているだろうか、誰か森に入っているかもしれない。ロインやアリンは来そうだわ。ここを誰か見つけてくれないかしら。

 見つけてもらえたなら一度シファードに戻って、輿入れの道具が揃うのを待ってお父さまと出発する。ガウディールまでついてきてもらうわ。婚約式にも出席してもらう。侍女も連れて行こう、髪を編んでもらいたいし。

 ああ、なによりもそろそろ入浴したい、肌着も洗いたいわ。私もジーンみたいな臭いになっていたらどうしよう。本当なら今頃、ガウディールで……。

 

「どんな扱いを受けていたのか」

 

 さすがにこんな窓もない小部屋に閉じこめられはしないだろうけれど、ここほど暖かいかはわからない。ジーンのように心慰めてくれるものも、いるのかどうか。

 

「バルバロスさまとラスティでは、どちらが怒りっぽいのかしらね、あなたはどう思う? ジーン」

 

 体を起こし暖かい壁にもたれかかりながら、寝床に上がって足元でくつろいでいるジーンに声をかけた。ジーンはじっと扉の方を見つめている。

 

「俺がなんだと」

「ラスティ!」

 

 なんの予告もなく扉を開けてラスティが入ってきたので、急いで掛け布団変わりのマントをかき寄せて体を隠した。けれどラスティは、私の姿になど全く興味もない様子で、疲れた顔をして立っている。髪もボサボサで、毛先があちらこちらに飛び出していた。眠っていないのだろうか、目の下にはうっすらくまが。そうして、手にはいつもの盆。

 

「遅れた。腹が減っただろう」

「遅れた? 眠っていたし時間の感覚がないわ」

 

 意味もないのに部屋を見回す。時間の経過を教えてくれるものが、ここには何ひとつない。

 

「そうか。それはなによりだ、あと何日か眠っておけ」

 

 ラスティはちらりと私を見た。鋭い視線を向けられ、体が竦む。それでも聞きたいことがあった。乾いた唇を舐め、口を開く。

 

「あなた……ねえ、そのエールになにか入れている? それを飲むと眠くなる気がするのだけれど」

「今頃気がついたか、呑気なものだ」


 ラスティは悪びれずもせず答えると、いつも通り机に盆を置いて出て行こうとした。

 

「待ちなさい、どういう意味? 説明して」

「どうもこうもない、お前の相手をしている余裕はない。それを飲んで眠っていろ」

 

 煩わしそうに言われ、かっと胸の中に怒りが生まれる。

 

「なんですって? そんな扱い、お父さまが知ったら……」

 

 反射的に父のことを言ってしまった。言ってすぐにしまったと思ったけれど、口から出た言葉を取り消すなんて魔術師でもできない芸当だ。

 振り返ったラスティは、赤銅色の瞳をぎらりと輝かせてまっすぐに私を射抜く。私はうつむいて下唇を噛んだ。寝台に敷かれた毛皮の尻尾の部分が見えたので、それをそっと撫でる。

 

「そうか、ならばその“お父さま”とやらをここに連れてきてみろ。お前は自分の立場をわかっているのか? 言いたくはないがな、お前の命も評判も、俺の気持ち一つでどうとでもなる、忘れるな」

 

 寝床の脇に立ったラスティが、低く静かな声でゆっくりとそう言った。私は彼を見られない。彼の言う通りだ。黙ってうつむいていると、上ではあっとため息の音がした。


「研究が大切な局面を迎えている。お前のあれこれで煩わされたくない。眠ればそれだけ傷が早く治るのは知っているか?」

「知りません……」

「治るんだ。とにかく今夜まではそれを飲んでくれ。あれこれ頼まれたり泣かれたり、面倒でしかない。明日からは入れん。約束しよう」

 

 約束。平民のそんな言葉にどんな重みがあるというのか。そう思いながらも、私は表情を動かすこともできず、ただ黙って頷いた。それでもこの不愉快な魔術師になにか言ってやりたくて、必死にエールでぼんやりとしている頭を働かせて言葉を探す。


「もうひとつ約束してちょうだい。部屋に入る時は扉を開ける前に呼びかけて。突然で驚くし、失礼でしょう」

「努力する」

 

 思いがけず受け入れてくれたラスティの、短い答えに驚いて目を向けると、彼は机のところに戻って昼食の盆を手に取っていた。皿を見たラスティの表情が険しくなったのが寝床からでもわかる。

 

「ほとんど食ってない」

「申し訳ないと思っているのよ、でも食欲が沸かなくて」

 

 心の底から謝罪した。冬の終わり。多くのものが食料に困窮する時期だ。

 

「睡眠時間を割いて貴重な食料を持って来てやっているんだぞ」

「感謝しています、ラスティ。でも一日横になって眠り続けているだけでは。薬のせいか、頭もぼうっとするの。明日から眠らなくていいなら、食べられると思います」

 

 ラスティはなにも答えなかった。小さく舌打ちをして、黙って出て行った。ああいやだ、怒りっぽく品のない平民の男。

 王の森に無断で住んで、一体なんの研究をしているというのだろう。きっといかがわしい術に違いない。早く出て行きたい。シファードに帰りたい。いいえ、違う。ガウディールに行かなくてはならない。

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