第5話 助け
音が聞こえた。べちゃくちゃと何かを咀嚼する気持ちの悪い音。興奮して低く鼻を鳴らす獣の声。体を動かしたいのに、凍りついたように指一本動かせない。必死に目を開けると、周りの様子がうっすらと見えた。
薄青い闇が辺りを包み込もうとしている。日が沈みかけている頃の暗さ。うっすらと雪の積もった枯れ葉の上にいた。胸を射られたのに生きているなんて信じられない。矢は未だ体に突き立ったままなのに。一瞬、生きた死体という自分の噂話を信じそうになったけれど、濡れた服の冷たさに助かった理由に思い至った。
胸に下げていたアリアルスの癒やしの水の入った革袋。あれが衝撃を緩和し、破れた袋から零れた水が気を失っている間も傷を癒やし続け、命を繋いでくれていたに違いない。
でもそれもこれまでだ。視線の先には、私を射た盗賊の腹を裂いて顔を突っ込んでいる黒い大きな獣がいた。熊。獣だろうか、魔物だろうか。
死んだ男は顔をこちらに向けている。首に斬られた傷が口をあけているのが見えた。彼はあれから誰かに殺されたのか。その体の脇に色とりどりの魔石が散らばっているのに、その時初めて気がついた。魔力を貯めておく宝石。彼の私物だったのだろう。
ではあの熊は魔物。あの魔石の魔力に惹かれてあそこにたどり着いたのだから。私には気づいてすらいないのかもしれない。満腹になれば去って行ってくれるかも。
唯一動く目を動かして周りを見ると、少し離れたところに、食い散らかされたギイの体がほうられているのを見つけた。あれだけ食らえば満足するだろう。
ほんの少し希望が見えた。あれが去れば。少し待って体が動くようになったら。なにが起こったのかもわからないけれど、生き延びさえできれば。
知る限りの精霊に祈りを捧げながら、ただ息を殺してじっとする。魔力がないことに初めて感謝した。
熊の魔物は盗賊で満腹になったのか、のそのそと歩いて去って行ってくれた。ほっと息をついたものの、その頃には辺りは闇に包まれ、今度は凍えて体が動かない。
必死に体を動かそうとあがいてみたけれど、どうしても起き上がれなかった。声も出ない。
諦めたくはないけれど、もうどうすることもできない。動こうとするのをやめ、体から力を抜いた。湿った枯れ葉の上に四肢を投げ出す。ここまでだ。
森を風が渡る音だけが聞こえる。
この寒さだ。眠れば次に目を覚ましはしないだろう。そう思ったら、涙があふれた。ここで終わり。
でも泣きながら、どこかほっとする気持ちもあった。これでもう、いろんなものから逃げられる。父の心配そうな顔。召し使いたちの視線。妹と比べられること。年老いた冷たい結婚相手。領主の娘としての責任。ふるまい。聞こえていないふり。気づいていないふり。理解していないふり。傷ついていないふり。
ぜんぶぜんぶ置いて行ける。常春の精霊たちの国に。長い長いため息をひとつついて、ゆっくりと目を閉じようとした。
と、その瞬間、針で刺された痛みに似た恐怖が生まれ、私の心をゆり起こす。聞こえた。複数の獣の息づかいが。
目を開けても、見えるのは暗闇ばかり。それでも耳は、確かに近づいてくる獣の群れの気配を聞き取っていた。血のにおいに呼ばれて来たのだ。怖い。死んだあとに体が食べられるのはいい。でも生きながら食われるのは嫌。
歯の根が合わず、がちがちと鳴る。誰か助けて。お父さま、助けて。
がさり。心の叫びに応えるように、すぐ近くで何かが枯れ葉を踏む音がした。
「なんだ――ずいぶん集まってきているな珍しい」
低く静かな男の声。
「ジーン、行ってこい」
その声に従って、放たれたなにかがすぐそばを駆け抜ける気配がした。うなり声と、獣たちの走り出す音がする。
ふ、と視界がほのかに明るくなる。男が明かりをともしたのね。私の体の上から、その先の枯れ葉まで、大きな人間の影が長く伸びて揺れている。
「貴族の女……盗賊に襲われたか。哀れな」
呟きとともに明かりが動き、男の影が形を変える。がさり。また枯れ葉を踏む音がして、一歩、男が近づいたのがわかる。少しでも身動きできれば、気づいて助けてくれるだろうか。でもどんな男かわからない。ひどい目にあわされるかも。女を慰み者にしたり、父に身の代金を要求するよからぬ輩だったら。
そう思うと動けなかった。
と、明かりに導かれたのか、何匹かの狼が暗闇から飛び出してきた。あれは狼の群だったのだわ。
「ジーン!」
男が叫んだ。それに答え森の暗闇の奥から、犬の吠える声だけがした。
「ふん、いい気なもんだ。主人に働かせる気か」
ぶつぶつとぼやきながら、男が私の脚を跨いで数歩進む。大きな体の男で、濃い紺色のマントの下に、暗い赤色の魔術師のローブを身につけているのがちらりと見えた。顔を動かせないので表情は見えない。
魔術師の男は右手を軽く振り上げると、炎を矢にして複数放つ。その後ろ姿に驚いた。男の少し後ろには、魔力で灯した光の玉が浮かんだままなのに。二つの魔力を同時に扱えるなんて。
放たれた火はまっすぐに狼たちに向かい、彼らの体を貫いた。痛みを訴える短い鳴き声をあげ、狼の一匹は倒れ、一匹は森に駆け戻っていく。
「ジーン! まだか!」
いつの間にか、暗闇の獣の声が静かになっている。少し後になって、その闇から溶けだしたような黒い大きな犬がゆっくりと姿を見せた。
犬は男の姿を認めると一直線に戻って来て、前脚をあげて男にまとわりつく。
「落ち着け、ほら」
男は犬を撫でながら、もう片方の手のひらを差し出し何かをやった。嬉しそうにそれを食べる犬が長く黒い尻尾を振るたびに、ばしばしという音が響いている。
その犬が、突然私を見た。ぴんと姿勢を正し、耳を立てて。
「どうした? ああ、それか。死んでる」
私は、まだ気持ちを決めかねていた。このまま男を行かせ死ぬのか、男を信じてまた生きるのか。
のそり、犬が一歩私に近寄った。
「やめろ、ジーン、魔力を感じない。死体だ、関わるな、捨てておけ」
男が振り返る気配を感じて、そっと目を閉じた。さっき犬を撫でていた男の手は温かそうだった。酷い男があんな風に飼い犬を撫でるものかしら。
「よせ! ジーン!」
鋭い制止の声と同時に、頬に犬の湿った鼻がおしつけられた。噛まれる! 逃げ出したかったけれど体が動かない。ただ恐怖に震え、はあっと息をついた。
「呼吸を?」
しまった。いえ、これでいいのか。思った瞬間ぬめった長い舌でべろりと頬を舐められ、たまらず目を開けた。くさい。
いつの間にか屈んで私の顔を覗き込んでいたらしい男と目が合った。赤銅色の瞳は強い光をたたえ、眉根を寄せ訝しげに私を見ている。髪も瞳と似た錆色で、どこか険しい、獣みたいな雰囲気の体の大きな男。
「死霊術などあるわけもないか?」
そう言った男は、なんの遠慮もなく手を伸ばし私の首を触った。熱い大きな手。首を締められたら。恐怖に顔を歪めた。
「動くな。殺しはしない。拍動を確かめさせろ」
男はしばらく私の首に手を当てていたかと思うと、突如舌打ちをして、忌々しげにこう言った。
「くそ、生きた人間だ」
くそ。聞いたことはあるけれど、面と向かって言われたのは初めてだ。
意を決して口を開いた。声は出るだろうか。口の中は乾いてからからで、それでも残った力を振り絞って言う。
「……助けなくて、いい……お行き」
か細いけれど、ちゃんと声が出た。ほっとして、体から力を抜くとそのまままた目を閉じた。男はなにも言わない。ただ私の首から手を離した。
これでいい。男が去るのを待っていたけれど、その気配がない。かわりに突然体が宙に浮いて、驚いて目を開けた。怒った不機嫌そうな男の顔がすぐそばにあった。抱き上げられている。
「命令されるのは嫌いだ」
ぼそりと男が口にしたのはそれだけだった。
抵抗しようにも、なんの気力も残ってはいなかった。だらりと下がった腕を持ち上げることもできない。男の腕は温かく、それにどこかから夏の草原のような、柔らかないい香りが漂ってきている。
まぶたが閉じようとするのにあらがうのは難しく。私はそのまま眠りについた。
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