自動運転車の普及と交通事故の減少


車の完全自動運転が『技術的には普及可能』になったとしよう。


もちろん当初は自動運転車も様々な事故を_起こす_だろうし、その度に大々的にニュースに取り上げられて、『ほら見たことか、自動運転なんて危険だ!』と騒ぐ人々も大勢いそうな様子は目に浮かぶ。


だが、それでも自動運転車は着実に普及していくだろう。

なぜなら、今現在、世界各地で日常的に発生している交通事故の件数を見るに、車が自動運転車に入れ替わっていくことで、『事故発生件数全体がさらに増加する』とは、とても思えないからだ。


自動運転車の事故の際に恐らく言われるであろう、『人間が運転していたら避けられたはずだ』という主張も、そうかもしれないが、そうでないかもしれない。

仮定に仮定を重ねるような話で恐縮だが、疲労で注意力散漫になっているなど、『良いコンディションではない人間』でも、同じような事故になる可能性はある。というか、日々、沢山の事故を起こしている。


それに、AIは意図的な危険運転もしないし、加えて「酒酔い運転」の可能性も劇的に減らすことができる。


車で出かけて酒を飲むためには、帰り道は誰か素面シラフの人に自分の車を運転してもらうしかないので、公共交通機関の少ない地方に行くと、夜の繁華街に、ずらりと「運転代行」のサインを掲げた車が並んでいるのを見ることができる。

当然、そのサービスを提供するためには、運転代行者と共に、運転代行者を送り迎えするための車と運転者が必要なわけで、一人と一台を送り届けるために、もう二人の運転者と一台の車を往復させる贅沢なサービスである。


これが、自動運転車なら自分自身は酔っ払って寝ていてもいいわけだ。


個人的な事情でいうと、『今日は車なので・・・』と飲み会を断る口実がなくなってしまうのは非常に大きな問題だが、まあ致し方ない。

それに『そのままガレージで寝てしまって真冬に凍死する人が続出する』とかはまた別の危機管理というか、システム設計の問題である。


それはともかく、車に限らず人間の引き起こしたエラーによる事故の件数はとても多い。


事故の統計数字をどうこねくり回しても、機械の故障や設計/設定不良などのエンジニアリング上の問題や天候などの不可抗力よりも、単純に『人為的なミス』で事故になったケースの方が圧倒的多数なのだ。


(もちろん、エアバッグ問題やいくつかの航空機事故のように、機械側の不備や避けようがない天候不順などで事故が発生したケースも色々と存在するし、製造側がコスト優先で判断すると、「フォード・ピント事件」のような大問題も起こりうる。)


確かに人間の能力は素晴らしく、驚くほどのパフォーマンスを発揮する人も多い。

しかし、それは人類の平均値ではないし、そもそも『運転免許を持っている』というのは、『最低限の基準をクリアした保証』に過ぎない。

優れた自動運転車を持ってしても、優れた運転能力を持つ人には劣るかもしれないが、平均値を下回る人々(含む私)をカバーすることはできるだろう。


是非カバーしてほしい。


だから私は『自動運転化の推進で交通事故全体は減る』方に賭け金を乗せるし、『完全自動運転車よりも人間が運転する車の方が危険』だと、一般論として社会に見なされる時代が必ず来るだろうと考える。


交通事故への対応には、救命活動から事故処理、渋滞に巻き込まれた人々の機会損失、事故当事者の医療費や将来の生活への影響など、様々な方面で莫大なコストが発生する。

事故率の減少に伴う、この社会的コストの削減効果は凄まじい物になるだろうと思う。


つまり、自動運転は人間がラクをするためや、輸送における人件費を削減するためだけでなく、『交通事故を減らせるから』こそ普及していくのだ。



自動運転による社会的コストの削減効果はあらゆる範囲に渡るだろうが、個人レベルにも関係のある部分では、例えば、保険金支払額の減少が期待できる。


単純な話にすれば、生命保険や損害保険の算定は、すべて「確率」で決まる。

過去の事例に則った複雑な数式でリスクをはじき出し、その事故が発生する確率はいかほどか? という観点で、費用も補償額もすべてが決まる訳で、自動車保険も事故の発生率が高ければ掛け金は跳ね上がるし、低ければ下がる。


若くてスポーツカーに乗っているドライバーの保険掛け金は高額で、免許取得から20年無事故無違反の熟練ドライバーの掛け金は割安だ。

さらに車種や平均走行距離によっても掛け金は変わる。

いずれにしても、それは思い込みやイメージではなく、『過去の事故率実績』に基づいた算定なので文句は言えないだろう。


さて、自動運転車はどうなるかと言うと、Level-5の車両などで「完全自動運転状況」の場合は操作に人間が介在しないので、『単なる交通事故』に対して運転者の責任を問われるのは不自然だ。

と言うか、それはタクシーやバスの事故や違反行為で乗客が連帯責任を負わされるようなものなので、たまったものではない。


当然、ドライブレコーダーも360度全方位の映像を録画するだけでなく、航空機における「フライトレコーダー」のように、車の挙動の全てを記録していくものにならざるを得ない。

完全自動運転車は事故に対して、『自車に原因がない』ことも証明しなくてはならないからだ。


やがてLevel-5の自動車保険は所有者の全額負担から、製造物責任法(PL法)の延長で自動車メーカーも負担し、所有者は整備義務や改造の有無、使用条件の逸脱などの運用責任に限定的な責任を持つと言う形になっていく可能性もある。


そうなるとユーザー側にとっても、「手動運転車両」特有の高い保険料金を払い続けてまで、自分で運転したいと思う人は、ごく少数だと思う。

当初は手動運転も楽しめる車を所有していたいと思う人が大勢だろうが、長期的に見ると、多くの人は高いコストと労力を負担してまで、自らがハンドルを握ることに固執したりはしないはずだ。


最初は抵抗感があったとしても、楽な方式に慣れた人々が後戻りした例を、私は知らない。


そして、その数が減っていくほど「手動運転車特約?(仮)」の保険料はグングン上がっていく。

現在でも衝突軽減ブレーキを搭載した車への保険料の割引などは一般的だし、すでに標準化が進められているアンチロックブレーキ(ABS)や横滑り防止装置(ESC)とともに、自動ブレーキの搭載も義務付ける方向へと世界的に進んでいる。


自動運転技術は、事故防止の観点ではその延長線上にあるものだ。


と言うわけで、まだまだ先の話ではあるが、いつか手動運転できる車両を保有するコストが自動運転車と逆転し、それを境に、雪崩のように自動運転へのシフトが起きるだろうと想像している。


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< 「ピント(Pinto)」は、1970年初頭にフォード社から発売された車で、後端のバンパーとガソリンタンクが接近した設計と部材の強度不足が重なり、『追突されると容易に炎上する車』となっていた。

それ自体はエンジニアリング上の欠陥だったが、フォード社の経営陣は費用を試算した結果、リコールのコストを負担するよりも、事故の犠牲者に賠償金を支払う方が合理的(全体として安上がりである)という判断を下して、欠陥を知りつつ対策を実施しなかったことが後に発覚した。これが「フォード・ピント事件」と言われるものだ。>


< ジーン・ハックマンの主演による1991年の20世紀フォックス映画、「訴訟」(原題:Class Action)は、フォード・ピント事件を題材にしている(ただし史実の映画化ではなく、あくまでもフィクションの法廷ドラマである。)

ちなみに原題の「Class Action」というのは、アメリカ合衆国でよく行われている、企業などを相手取った「集団訴訟」のことだ。>


< 個人的な意見であるが、車自身が全てを制御している時でさえ『ドライバーがハンドルに手を添えて状況を監視する』ことを要求するLevel-3の運用条件(もちろん事故の責任は常にドライバーが負う)は不条理というか、現実的な運用と言えないだけでなく、条件によってはむしろ危険でさえある。その理由は、いずれ議論したい。>


< これまでの(自動運転以前の)工業製品としての車の進化と交通事故の関係は、また別の機会に考えてみたい。>

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