達筆とタイプライター


私の母親はかなりの読書家であると共に、俗にいう『達筆たっぴつ』な人であった。


家族ゆえの贔屓目ひいきめを差し引いたとしても、その気になれば市井しせいの書道家や書道教室の先生くらいにはなれるレベルだったろうと思うし、実際に周囲からはそう言われていた。


しかし、彼女の書いた文字は実に読みにくかったのだ。


時々、テレビのドキュメンタリー番組などで、旧家の蔵から発見された古文書の内容が映し出されたりすることがあるが、我が母の綴った手紙もそれと似たような雰囲気であった。正直ムリ。


毛筆や筆ペンは言うまでもなく、万年筆で書いた文字でも厳しい。

当時は私が小さな子供だったからという面も大きいが、「学校関係のお手紙」に母親のコメントを書いてもらい、教師のところに持って行ったら、若い教師がその解読に相当な時間を費やしていたことも一度ならずあったほどだ。


もちろん、幼子おさなごである私宛のメモなどは、丁寧な楷書で書いてくれた(本当に幼い頃だけであるが)ので、日常生活に大きな不便はなかったが、慌てて書いたものや大人向けの手紙などは、かなりの確率でまともに読めなかった。


生意気なガキンチョだった私の感覚では、これは決して『上手に崩した字』ではない。


むしろ『カッコよくし過ぎて文字ではなくなった何か』であった。


まあ実際は単なる草書風の書体であるが、当時の私は実に生意気なことに、強いて分類するならばこれは通信手段ではなく、今で言うアートやパフォーマンスの一種だと感じていたのである。


しかし、周囲の大人たちは母親のことを『達筆で羨ましい』と褒めそやす。

もちろん本人も自分の字に満足している。

それはそうだ。

長年、確たる美意識を持って自分に読める文字を書いているのだから、それが読みにくいと言われてもピンとこないのであろう。


しかし、生意気なガキンチョにとっては謎であった。


やがて私も少し成長し、母親の草書体に慣れるとともに、児童文庫にあったエドガー・アラン・ポーの名作「黄金虫おうごんちゅう」も読んで、母親の手紙をかなり解読できるようになった。


相変わらず生意気な小僧であった私は、ある日、母親に面と向かって『あなたの書く文字は、機能的な意味での文字、つまり通信記号としては不適切である』と告げた。

(もちろん、これは政治的に正しい表現であって、実際に口にした言葉は全く違っていたが。)


しかし、彼女は私の意見を一笑に付し、『文字は美しい方が良いに決まっています』と、にこやかに笑って答えたのだった。無論そのこと自体は否定しないのだが、『ものには限度がある』というのが私の見解だ。


いやマジに、普通に楷書で、せめて行書で書いて欲しい。

私だって、読めるレベルの達筆であれば羨ましいと思う。


結局、母親に限らず、達筆な人々の書く『読みにくい文字』というものが、自己主張のためのアート/パフォーマンスであると同時に、テーブルマナーと似たような位置付けで「教養」と呼ばれる『文化的な識別因子』であることを理解したのは、そのずっとずっと後に、私がさらに生意気な若造になってからのことである。


私の母親のように古風な書体を操る人は、すでに当時でさえも珍しかったと思うし、彼女に対する周囲の賛辞も、現代基準でいうなら『イラスト上手いねー!』というようなものだったのだろうと、今では思う。


もしも、筆の上手さで社会的なポジションが推し量られるとするならば、歌でコミュニケーションを取るらしい「鯨」の社会では、歌唱力の差でヒエラルキーが生じたりするのだろうか?



個人的な顛末を言えば、私は母親からの再三の要請にも関わらず、むしろ、それへの反発心だったと思うが、『字が上手くなるための練習』を可能な限り拒否し、欧米のタイプライター文化を羨みながら、かなり朴訥シンプルな文字しか書けないまま超生意気な大人に成長した。


今となっては憧れゆえの誤解も大きかったと思うが、20世紀初頭からタイプライターが普及している欧米では、学生が『手書きでレポートを出すと教授に突っ返される』とか、『企業の公式な文章が手書きというのはあり得ない』などと聞いて、『なんと公平な社会だろう!』と羨ましく思ったものだ。


また、欧米ではタイピストを雇って口述筆記する文筆家も多いことを知った時には、『このお大尽め!』と思うよりも、専門性が職業として分担されていることを素晴らしいと感じた。


そこでは、手書き文字の上手い下手で人物を推し量ることがない。


人に渡される書面は誰にでも読みやすいことが重要であり、それは「情報伝達の手段としての文字」を正しく活用しているという感覚がある。


元になる原稿が『達筆』と言われた母親の文字でも、『ミミズが這ったような』と形容される私の文字であっても、(中身はさておき)タイプした後の扱いとしては平等である。


もちろん、これはレタリングやカリグラフィ、書道などを軽んじているというわけではなし、タイプフェース(書体)のバラエティやそのデザインに無頓着なわけでもない。


むしろ感性を大事にするためには、利用できる書体のデザインというか、タイポグラフィの自由度は高ければ高いほど良い。

アートでなくとも、目的を持って文字情報にデザインを施すことは、意志を持ってコミュニケーションを饒舌にする行為であり、相手への伝わりやすさを軽視する姿勢とは、根本が違うからだ。


何れいずれにせよ、それがデジタルフォントであれ、写植文字や活字、タイプライターであれ、「既製のフォント」を活用できるテクノロジーであれば、執筆者のアウトプットは、こと文字の見た目に関してだけは等しくなり、「字」そのものを描くための技巧が必要とされないのは確かである。


そんな私の目に「ワードプロセッサー」と言うテクノロジーが、どれほど素晴らしいものに映ったか...。


詳しく説明するのは省くが、『ヒャッハー!』と快哉を叫びたくなるものであったことは、なんとなく分かって頂けるだろうと思う。


蓋しけだし、プリントアウトは誰に対しても公平だ。


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< 「黄金虫(The Gold-Bug)」は、怪奇小説や推理小説の草分けとして名高いエドガー・アラン・ポーによる1843年の小説で、キャプテンキッドの宝をめぐる『換字式暗号の解読』がストーリーの鍵となっている。>


< 換字式暗号の解読を道具立にした小説としては、シャーロック・ホームズ・シリーズにおける「踊る人形(The Adventure of the Dancing Men)」という短編も有名だ。ホームズの出番を作る以上は仕方がないが、こちらはもっと生臭い殺人事件の話である。>


< スティーブ・ジョブスが、リード大学を中退後にカリグラフィのコースを受けていたこと、そして、その経験がなかったらMacintoshコンピューターに多彩なフォントが搭載されることにならなかっただろうと言うことが、 2005年のスタンフォード大学卒業式に招待された際の祝賀スピーチで、本人の口から述べられていることは有名だ。>


< 欧米においても草書体ならぬ「筆記体」の利用シーンはダダ下がりで、書かない・書けない人も増加しているそうである。>

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