クルマのカタログ写真が似たり寄ったりな理由


近年、自動車雑誌の記事(紙媒体もあればWebページやPDFもある)や、自動車メーカー内外各社のカタログなどを眺めていて感じていることがある。


それは、どのクルマも『ぱっと見』では同じように見えるということだ。


もちろん、ミニバンとスポーティーなクーペが同じに見えると言いたいわけではない。しかし、同じボディ形状のグループ内では、車種毎のデザイン的な特徴が埋没していてほとんど見えないのである。

そしてこれは、カタログでも、自動車雑誌やWebマガジンなどの記事に掲載されている写真でも似たような傾向だ。


だいたい、どの写真もトップの一枚目は決まっている。


『斜め左の低い位置からあおり見たアングル』だ。


「ワイド&ロー」という言葉があるが、確かに自動車には『低く幅広く見えるほうがカッコイイ』という感覚が普遍的に存在し、第一印象というか最初の掴みで、そのイメージを植え付けた方が良いのだ...という思考も分からなくはない。

分からなくはないが、そうすると同時に、車種毎のデザイン要素もほとんど見えなくなる。


これは当然であろう。トラックやワンボックス(ミニバンなど)はともかく、運転席前にボンネットのある2ボックスや3ボックスの形状なら、対角線で見たシルエットは、ほとんど違うはずがない。

しかも、通常の視線よりも遥かに下から見上げるような角度なので、リアクォーターのラインやフロントウィンドウの傾斜具合、ボディサイドのピラー配置など、意匠的に重要な差別化要素も分かりにくくなる。


なんとなくワイド&ローな雰囲気に感じるというだけだ。


さらに最近の傾向として、自家用車のフロントマスク形状は、どれも威圧的なつり目ランプとワイドグリルに席巻されていて、大枠では似たり寄ったりなデザイン。結果として、ウェブサイトのトップやカタログの表紙に出てくる『渾身の一枚』であるはずの写真は、一堂に並んだ就活生の面接用スーツ姿を彷彿ほうふつとさせるくらいに「没個性」である。


強烈に印象付けたいはずの代表イメージが横並びの没個性とは、なんのギャグなのかと言いたくなるが、まあ逆に日本らしいと思わないでもない。


ただ、メーカーの広報写真だろうが、雑誌やウェブの記事であろうが、どのメディアでも似たような写真を載せていると言うことは、自動車を専門に撮影しているカメラマンの腕やセンスが悪いと言うことではないと思う。

むしろ広告主であるメーカー自身はもちろん、コンテンツの編集者やデザイナーなど、掲載物を決定する側(カメラマンに依頼する側)に、そういう意向が明確に存在している、と言うことだろう。


実際にメーカー自身のカタログであっても、なんというか写真の撮り方が極端すぎて、実際の車の様子がよく分からないということも多い。


・サイズ感がわからないほど近寄った、部分的なクローズアップ。


・ボディのワイドさや室内の広さを強調するための、極端な広角レンズ撮影。


・実車で知覚できる空間とはかけ離れた印象を与えるインテリア。


そもそも、代表的というか規定演技となっている『斜め左の低い位置からあおり見たアングル』でさえ、車の前にしゃがみ込まなければ実現不可能だ。


いかに変人な私だって、街で見かけたかっこいい車に近寄って、いきなり路上にしゃがみ込んで眺めたりはしないし、そんなことをすればドライバーからの死角の存在次第では命に関わる。

自分が買うつもりの車でも、ダッシュボードの操作パネルを老眼鏡もとい虫眼鏡で拡大してまじまじと眺め、「いいデザインだなあ」と溜息をついたりはしない。


つまり、どれも実際に見ることはない絵柄だと言っていいだろう。


だがそれでも、カタログの写真は『最も見ることが多い姿』ではなく、例えそれが現実離れしていても、あるいは、どんなに在り来りありきたりであってさえも、最もかっこよく見えている_はず_の姿で提示される。


それはなぜか?


前回のコラムで、パーツの価格が『機能性や製造コスト』で決められるのではなく、『高価に見えるかどうか』という知覚的な要素で価格設定されつつある、ということを書いたが、実は今回の話はその延長線上にある。


自動車に限らない話だが、もはや『機能でモノを売れる時代は過ぎ去った』と、多くの企業が考えているのだろう。

今は、モノの売れ行きを決める最大要因は価格優位性とイメージであり、そのイメージの良し悪しは、ストーリー性のあるもの以外は、主に視覚的な要素で決まる。

ならば、そこに(ゲーム風に言うと)ステータスを全振りするのは、恐らく間違っていないのだろう。


それに、情報として正確であることや分かりやすいといったことに対して、どれほど律儀に注力したとしても、『最初の掴み』で失敗してしまっては、それこそ後が無いし、加えて言うと、「視覚的なイメージに訴える」ことは、必ずしも「良いデザインを行う」こととは一致しない。


とりあえずは個性を主張するよりも、横並びの最低線でもいいから一次選考を突破し、興味を持ってくれたら詳細な情報を提示して、そこからやっと比較検討の俎上そじょうに上げてもらえる。


そう考えると、現代の日本において『自分を売り込む』と言う観点では、新車を売りたいメーカーの『斜め左の低い位置からあおり見たアングル』への拘りも、大変失礼な話ながら、就職活動に勤しむ学生さん達の『お揃いの黒スーツ姿』も、全く同じ社会・文化に立脚したスキームであることに気がつく。


社会に受け入れられるためには、個性などの『他の個体とは違う』と言う特徴を打ち出すよりも、社会の全体ムードから逸脱していないことをアピールする方が効果的なのは当然かもしれない。


しかし、仕方のないことではあるが....なんと言うか、その、バラエティを受け入れる余裕のなさに、世知辛い話だなぁと思ってしまうのである。


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< 以前、車を買い換えようと思い立って色々と比較検討をしたのだが、私の場合は、最初の掴みで『どれもカッコイイなあ』と思うのではなく、『似たり寄ったりなビジュアルの洪水にうんざりした』と言うのが正直なところだった。>


< 口コミやレビューは、マーケティング的には『第三者と思える誰かが自分に伝えてくれたストーリー』である。

それが虚偽だとかヤラセであるという意味ではなく、『体験者が語る』という一定の文脈に沿って外部からもたらされた物語という意味であり、逆に言うと、レビューを数値データと同義に捉える人もいないであろう。>


< 仮に、似たり寄ったりなカタログ写真の理由が、就活生さん達の黒スーツと同じ文脈上で発生したものだと仮定するならば、それを『そうさせている』のは、消費者自身や学生さん達ではなく、個人の「才能」や「独自性」を評価しない企業側であると思う。>

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