世界共通のインターネット時間という試み
「スウォッチ・インターネットタイム(Swatch / Internet TimeもしくはBeat Time)」というものをご存じだろうか?
いまでは知らない人(もしくは忘れてしまった人)の方が多いのではないかと思うが、これはかつて、「インターネットの世界は時差とかタイムゾーンとか無意味だよね?」という発想で作られた『時間単位』である。
20年ほど前、時計会社のスウォッチが、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボの創設者で所長だったニコラス・ネグロポンテ教授と開発して規定した単位で、1日24時間を1000で割って、それを@Beatという名称で呼ぶ。
(つまり1000beatで24時間であり、従来単位だと24時間は86,400秒なので、それを1000で割った1Beatは、86.4秒となる)
1000という数字からおわかりのように、これは十進法を元にした時刻単位で、従来の「十二分率(AM/PMを付けなければ二十四分率)+六十進法」という、論理的にはすっきりしない時刻体系にかわり、十進法で計算しやすく(コンピューターにも扱いやすく)、タイムゾーンもないので世界中のどこにいても同じ時間軸で話ができる。
普通は「朝10時にログインね!」と言われても、それがグローバルな場だったら、日本時間の朝10時でいいのか、先方のタイムゾーンの10時なのか、それともUTCの10時なのかは、事前にネゴシエーションしておかなければならない。
これがBeatであれば、「@700ちょうどにログインね!」と言われたら、それは世界中のユーザーにとって同じ時刻を指している。
(とは言え基準点は必要なので、UTCに替わり、スウォッチ本社のあるスイスの都市「ビール/ビエンヌ」を通る子午線を規定し、それをビール標準時 (BMT)としている。これは現実的にはUTC+1のタイムゾーンである)
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さて、この時間単位は発表当時のネットワーク社会で大きな反響を呼んだのだが、冒頭に書いたとおり、まったく普及せずに終わった。
いまではスウォッチ社自身も関連製品の製造を中止してしまったし、一般的な目線で見ると、商業的には完全に失敗して忘れ去られたと言っていいだろう。
なぜ失敗したかの理由はいくらでも言い様があるのだが、個人的な考えとしては「1/1000刻み」と言う単位が大きな問題だったのではないかと思っている。
ネグロポンテ教授は、インターネット時代の時間の使い方は、従来の社会/産業構造に縛られることなく、より小刻みな時間の積み重ねになるだろうと予測した。
これ自体は、現在のすきま時間の使われ方や、2時間の映画を見るよりも3分のYoutube動画を40本見て2時間を過ごす、という若者の時間の使い方を見ると予想通りだとは思うのだが、まだ社会全体がそれに合わせて動くと言うほどには至っていない。
なにをするのも、ざっくり「○時間」という単位だ。
例えば昼食にどのくらいの時間を掛けるか? と言われたら「1時間くらい?」とか「1.5時間」とかの答え方が一般的で、「60分」とか「90分」と分刻みで答えるのは少数派だろう。(所要時間が1時間以内の事柄でなければ)
同じように「昼食は40Beatで」とか「当社の既定勤務時間は320Beatです」とか「じゃあ110Beat後に集合ね!」というのは、皮膚感覚として据わりが悪い。
これは「慣れの問題」ではない。
もちろん慣れもあるが、まずは単位が細かすぎて頭の中で換算しにくいことが大きな理由だ。例え慣れ親しんだ時間単位を使っていても、「じゃあ、210分後にね!」なんて言う人がいたらイラッとするだろう。
もっとはっきり言ってしまえば、普通の24時間か、AM/PMを分けた12時間の枠組みであれば、一桁から二桁の足し算・引き算で概算の用は足りる。
これがBeatになると、基本的に「三桁の計算」である。
ほとんどの人間は、できるだけ数字の計算をしなくて済むことを良しとするので、Beatは面倒くさいと感じるはずだ。
例えば、「今日の仕事は8時間を4ブロックに分けて2時間ずつ充てるか」という思考を、Beatでは「今日の仕事は320Beatを4ブロックに分けて80Beatずつ充てるか」と考える必要がある。
8÷4=2と、320÷4=80であれば、冗談抜きで前者の方が脳への負担は少ないのだ。
「時間の見積もり」は日常的に非常に多く行われる脳内作業なので、この負荷増大は意外と馬鹿にならない。
だから、スウォッチ社とネグロポンテ氏は、一日を「1440分」と捉えて活動を采配する人間など世の中にほとんどいないと言うことを理解し、せめて1日を20分割ぐらいにした「BB / BigBeat=50Beat」といった、大雑把な単位も併用するべきだったと思う。
「昨夜はどのくらい眠れた?」 「うーん、5時間くらいかなぁ」
「昨夜はどのくらい眠れた?」 「うーん、4BBぐらいかなぁ?」
ぐらいだったら、まだ感覚として受け入れやすい。
これが6BBなら、まあ眠れた方だし、3BBなら睡眠不足だと咄嗟に言える。
アナログ表示の時計だって、作れないことはない。
「昨夜はどのくらい眠れた?」 「うーん、200Beatぐらいかなぁ?」
300BBなら十分だろうが、250BBならどうだろう? 180BBでは睡眠不足か?...
要するに『単位が細かすぎると大雑把に考えにくい』のだ。
これは、初期のコラム「ユーザーインターフェースとヤード/ポンド法」でも書いたことだが、論理的一貫性にこだわりすぎた単位は往々にして使いにくくなってしまう。
自然の事象を、人間の大雑把な感覚に沿う「刻み目」に置き換える、ということも『単位というユーザーインターフェース』の重要な役目だ。細かすぎて、扱いにくくなっては本末転倒なのである。
せっかく、自由自在に単位を活用できるデジタル世界でありながら、妙な理屈っぽさで世間に受け入れられなかったSwatch Internet Timeは、人間の皮膚感覚を忘れて理論に走ったことの、代表的な失敗事例のように思えている。
(もちろん個人の感想です)
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< あまり知られていないことだが、スウォッチ社初の「デジタル表示腕時計」は、このSwatch Internet Timeを表示する時計だった。と言うかアナログ文字盤では1000Beatの表示は難しい。>
< 実はSwatch Internet Timeが商業的に失敗したもう一つの理由として、「ビール標準時 (BMT)」という基準点の設定も大きいと思っている。
スウォッチ社は営利企業であり、マーケティングの点からも「本社所在地」を基準点にしたことは当然と言えば、当然だ。
だがこれは、この規格が呼び名も含めて「スウォッチ社のもの」であり「インターネットの共有文化」ではない、ということを強く印象づけてしまった。せめてUTCと同じ基準点に設定していれば、もう少し社会的に受け入れられたのではないかという気もする。>
< 規格の呼称として「Swatch Internet Time」あるいは「Swatch Beat」という社名を含んだ名前を全面に押し出したことも、話題作りというかプロモーション効果を狙いすぎて失敗した一因だと思える。登録商標などの問題もあったと思うが、もっとオープンな名称にするべきだっただろう。>
< ちなみに「Swatch Internet Time」の頭文字を略すと、hが挟まれてなくても口に出しにくい音になるということも、なぜスウォッチ社の人間やネグロポンテ教授が気にしなかったのか謎である。>
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