文字と記憶とソクラテス


ソクラテスは、口頭での伝承こそが重要で、文字の使用は記憶を破壊すると論じた。


彼は対話の存在しない、文字のみからの知識の吸収では、その知識が表面的なものにとどまり、それと同時に、得た知識が表層的であるにも関わらず、本人はその知識の本質を理解したと「誤解」してしまうと危惧したようだ。


おそらく、暗記していない知識は深く理解と結びついておらず、また、対話でこそ、それを真に伝承できると考えていたのであろうが、これは、「のどかな時代」だったからこそ有効な論理だと思う。

言い換えれば、「知識の少なかった時代」あるいは、選び抜いたテーマだけに自分の「思考を絞る」ことが許されていた時代と社会、ならではの考え方だと言えるかも知れない。


口頭伝承では、ある程度高度化した文明社会を維持することは不可能だ。

だから、現代社会で最も重要な「知識の道具」は、文字という視覚的記号である。


とは言っても、「だったら、すでにどこかに書かれていることは、必要になった時点でそれを参照すれば良いのか?」というと、それも極端だ。


誰かと議論する状況になってから、慌ててWikipediaを検索して、そこに書かれている情報でロジックを組み立てようとしても(掲載情報の真偽はともかく)、まともな議論はできないだろう。


もし、それで十分に議論が成り立っているように見えているとしたら、それは、自分だけが勝手にそう思い込んでいるか、そもそも相手と非常に表面的で浅い議論しかおこなっていない、と考えても間違いでは無いと思う。


なぜならば、ソクラテスほど極端なことを言わずとも、やはり、記憶されていない知識は、思考の「材料」となりにくいからだ。


(正直に言うと、私は会議中に手元のスマホでこっそり検索してから発言するということを良くやっているが、これは自分の記憶が正しいかどうかを確認する程度に自制している。ということにしておきたい)



大抵の場合、思索という行為は、全くの無や混沌からなにかを生み出すようなものではなく、色々な材料が溶け込んでい入り交じった「るつぼ」もしくは「ミックスサラダボウル」をあれこれをいじり回しているうちに、思いも掛けず、目新しいものがポロリと生まれてくるという風に感じている(個人の感想です)


このときに、サラダボウルに入っている材料は、多いほどいいとは言わないが、それなりにバラエティに富んでいる方がいいことは確かだ。


(多いほどいい、と単純に言えない理由は、また稿を改めて議論したい)


ソクラテスも、文字そのものを不要と考えていたわけではないが、書き手による表現を受け取るしかない文字は一方的な情報伝達であり、そのため読書による知識の習得は、対話による教育よりも遙かに劣ると捉えていたらしい。


もちろん、現代でもなぜ学校教育に教師が必要か、そして、教科書を読むだけの独学では、仮に生徒がやる気満々であったとしても教育プロセスを完成させられないのかを考えてみれば、それ自体は納得できる。



さらに昨今の「文字数は少ないほど良しとする」ネットでの交流文化は、徐々に対話という概念さえも破壊しつつあるように思える。


念のために言うと、これは「読解力が云々」とか「最近の若者の...」みたいは話ではない。


むしろ、文字数を少なくすることを良しとする文化は、私より遙かに年上の、初期のハッカー文化、特にUNIXカルチャーの人々から生まれている。

使用する文字は一文字でも少ない方が、タイプするのも読み取るのも楽である、というのは合理的な思考かも知れないが、それは私の目にはテクノロジーの呪縛に陥っている人々のように見えるのだ。(ごめんなさい)


「List」を「ls」と、「Copy」を「cp」と略したところで、どれほどの恩恵があるというのか...もちろん、膨大な行のプログラミングをしていく中で、塵も積もれば山となることは分かっている。そういう意味では、コマンドのスペルを減らしたことは、タイピングの労力とスペルミスのリスクを大幅に削減したことは事実だろう。


だが、それを「恩恵」と考える思考こそが、ドキュメントやコードの可読性を軽視するプログラマと同じように、もっと大切なものを見なくなっていた証拠のようにも思える。(完全に個人の感想です)


まあ、「自分が生み出したものに自ら囚われる」と言うのは、いつの時代、どんな分野でもありがちな呪いだ。



さて、少々、話がとっちらかっている様に思われたかも知れないが、つまり、ソクラテスの時代には「文字/書物」というのは最新の情報テクノロジーだったわけで、この技術を使えば、人と人が直接、顔をあわせなくても、空間も時間も越えて情報を伝えあうことができた。


ソクラテスは、その技術に頼り切ることによって知識の扱いが表面的になり、言ってしまえば人々が「馬鹿になる」こと、さらに「馬鹿になっていることに気がつかない」ことを恐れた。


なんとなく、いまのネットでの情報収集と知識交流にも重なる話であり、『人間と情報テクノロジーの本質的な関係』は、いまも昔も変わっていないなあ、と考えさせられたりするのである。


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< 文字を嫌った(と言っていいのかどうか分からないが)ソクラテスの言葉がなぜ後代に残っているかと言えば、プラトンをはじめとするソクラテスの弟子達が、彼の言葉を文字にして残したからだ。うむ、人生とはそんなもんである。>


< 個人的な意見だが...正直に言って、ソクラテスは結構アレな人だと思う。もしも現代に生まれていたら、哲学者や思想家ではなく、天才的なオタク系クリエイターになっていたかもしれないと思わなくもないひていのれんぞく。>


< 文字数を少なくするSMS文化・掲示板文化と同じように、知識形成を阻害しつつあると思えるのがスマホの推測変換・予測変換という技術だ。これについては、また改めて考えてみたい。>

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