「自由と支配」に対する目線(かなり大袈裟)


もう随分と昔、パリの地下鉄でのことだ。


改札を過ぎてホームに降り立った私は、目前の壁に貼られた広告ポスターに目を引き寄せられた。


その写真は、まだ臍の緒へそのおが付いている生まれたばかりの赤ん坊が床の上に横たわっていて、その臍の緒の先にはゲームコントローラーが付いている、という強烈なビジュアルのCGだった。

ヨーロッパ系独特のアクの強さというか、ダークな表現の大胆さには慣れているつもりでいたが、さすがにあっけにとられてしまった。


ほぼ同時に目の前の電車に乗ってしまったので、そのポスターを見ていた時間は恐らく2〜3秒である。にも関わらず、そのグロテスクさは強く印象に残り、いまでも関連するビジュアルから思い出すことがある。(このコラム自体も、あるっきっかけでその時のことを思い出したので書いている)


正直なところ、その時に私の心を占めたのは「不快感」だったと言っていいだろう。だが、地下鉄の車両に乗りこんでから私は、「自分は、なぜあのCG写真をグロテスクと捉えて不快感を抱いたのだろうか?」と考えていた。


・無力な赤ん坊(それも、ふわふわニコニコと可愛い赤ん坊ではなく、まさに生まれ落ちたばかりの新生児の雰囲気)を粗雑に扱っているような気がしたからか?


・生物にハードウェアが付いているという発想を、無力な存在に対する暴力のように感じたからか?


・新たな生命がビジュアルの中心なのに、写真のトーンがまるで死を連想させるような暗い雰囲気だったからか?


どれも外れてはいないのだが、自分の中で腑に落ちない。

全部と言えば全部だが、無信心な私にとって、それは生命への冒涜とかいう大袈裟な物でもなく、どれも決定的要因ではないような気もする。


目的地はそれほど遠くではなかったので、電車はすぐに駅に到着し、私は地下鉄の駅から地上に出て、ちょうど枯れ葉の舞い始めた季節のレピュブリック広場の脇を通り抜けながら考え続けた。

あまりにも考え込んでしまったので、着ていたコートのベルトが抜け落ちてしまったことにも気づかずに歩き続け(もちろん回収できなかった)、目的地に着いてからも、まだ心の中に引っかかったままだった。


帰り道、再び地下鉄に乗るために広場に戻った私は、落としたコートのベルトは発見できなかったものの、そこで仲良くベビーカーを押して歩く若い夫婦の姿を見て、一つのインスピレーションを得た。


人間に限らず、多くの哺乳動物の赤ん坊は生存能力という点では、実に不完全というか未熟な存在だ。まさに文字通り「哺乳」が必要で、その生存は親の援助に100%依存している。守って貰うための「可愛さ」にステータスを全振りしていると言っていい。

それによって、赤ん坊は生き延びることができる。

例え利己的遺伝子の導くところによってであっても、親が子供を守ろうとするのは必然だ。

つまり、実際は親が子供をコントロールするのではなく、子供(の遺伝子)が親(の意識)をコントロールしているのである。


だから、あのCGの表現は現実とは真逆であった。

そしてもちろん、そうだからこそ広告表現に採用されたのだろう。


もしも人間がプログラマブルである、という趣旨だったら、ここまでの不快感は抱かなかったかもしれない。だが、ゲームコントローラーはプログラミングに使うキーボードではなく、「リモコン」の一種だ。

しかも、遊ぶのための物だ。


結局のところ、不快感を抱いた原因は、生命と機械の結合でも、赤ん坊の可愛いさが損なわれているからでも、生命への冒涜とか、生と死をひっくり返したような雰囲気からでもない。

それは、ゲームコントローラーという「他者への絶対的な支配権」を示す装置と「自我を持つ存在」を接続したことへの不快感だった。


それは、対象の意思を踏みにじる装置への不快感だった。


別の見方をすれば、(一方的で大変申し訳ないが)あの広告のビジュアルを作成したデザイナーや評価した広告主の「思考と感性そのもの」への不快感だったとも言える。


そう考えると、恐らく、ゲームコントローラーが繋がれている先が、赤ん坊ではなく大人の体であっても、あるいは犬や猫などの動物の体であっても、(いや、例えAIであっても)自我や自由意志を持つと確信できる存在でありさえすれば、きっと私の感じた不快感は変わらなかったのだろうと思う。


そこには、情報テクノロジーを支配の道具だと捉える認識が存在している。


 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 


< この広告のデザイナーが、他人のサイボーグパーツをハッキングで乗っ取り、フラッシュモブを見て陰でほくそ笑んでいるような人物と似たようなメンタルだと本当に思っているわけではない。私がこのビジュアルから感じた物がそれと同じ傾向だった、というだけに過ぎないので、そこは割り引いて考えるべきだろうとは思う。>


< レピュブリック広場(Place de la République)は日本語訳すると「共和国広場〜リパブリック広場」で、欧州にはこの名前の付く広場は多い。名称から察しが付くとおり、大抵は政治的意図を持って20世紀以降に名付けられたもので、地元民は無関係な古い名称で呼び続けていたりすることも良くある。

よりもよって「共和国」という名前の場所で、大袈裟に言えば「意思と権利」あるいは「自由と支配」に関連することを考えさせられた経験は、ちょっと面白かった。>

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る