蟹沢美術館

神山はる

第1話 蟹沢美術館

 ひんやりとした廊下に、白くて敬虔な光が満ちていた。両側の壁いっぱいのはめ殺しの窓から差しているのだ。磨かれた石の床が、それを反射してぼんやりと浮き上がって見える。天井には間接照明がつけられているが、外光に負けてほとんど意味をなしていない。窓の外には、一面の白砂利と四角い池という無機質な中庭が広がっていた。

 天使はいないのかしら。

 自分のヒールがコツコツと床を叩く音を聞きながら、そんなことを思う。だってなかなかに天国向きの佇まいではないか。しかし、美しい廊下にも窓の外にも、生きているもの――天使を生き物と呼んでいいかはわからないが――の気配はおよそいっさい感じられなかった。何となく手に持っていたチケットを確認する。灰色のチケットにはそっけない明朝体で


蟹沢美術館 特別展示 うずもれた人々

1800円(税別)


とだけ記されており、「現世発あの世行き」とか「死亡証明手形」などとは書かれていなかった。

 視線の先、廊下の突き当たりには、重厚な木の扉が構えていた。その上には、金のプレートに「展示室A」の文字。鳶色のつややかな扉は両開きで、右側だけが奥に向かって開いている。近づくにつれ、その先にアイボリーの壁が見えると、私はなぜか「惜しい」と思った。少なくとも天へと続く階段ではなさそうだ。

 冷えた扉にそっと触れて、展示室へと足を踏み入れる。とたん、私の足音がすっと消えた。かわりにヒールのかかとがわずかに沈み込む。カーペットが敷かれているのだ。見下ろすと、深い海のような群青だった。買ったばかりの赤いエナメルのパンプスは、熱帯魚のように毛足の長いカーペットへ潜りかけていた。

 展示室Aは静かな部屋だった。

 窓のない四角い部屋の中に、額縁や彫刻が転々と飾られていた。もちろん、ここにも生きている何かの気配はなかった。客どころか、職員さえいない。ただ居場所を与えられた作品たちが、黙って虚空を見つめている。入ってすぐの右の壁には、一枚、展示会の趣旨を書き連ねたパネルが掲げられていた。


『世には類稀なる才能と消えることのない情熱とを持ちながら、時勢のため環境のため、または自身の性質のために歴史に名を残さないまま消えていった芸術家たちが数多く存在する。本展示では、ほとんど評価されることのないままこの世を去った名も無き天才たち――うずもれた人々を各国の芸術家、美術商、研究家たちの話をもとに集めたものである。』


 なるほど、そういう意味だったか。

 短い文章に目を通して、私はようやくこの特別展示の内容を知る。タイトルに惹かれてしまっただけで、こんな美術館があることも、何ならこの街自体の存在も今日の朝――正確にはおそらく昨日――知ったのだ。


 今朝、目覚めてみると見知らぬ部屋にいた。

 こぢんまりとした和室だった。日に焼けた畳。角のすれた机。ずっしりとした掛け布団。二月の冷たい空気に、古くさい藺草のにおいが満ちている。遠い昔に里帰りしていた、祖父母の家が思い出された。外から水の流れる音と、鳥のさえずりが聞こえてくる。うっすらと明るくなっている障子窓を見ながら、身を起こした私はしばし呆然と布団の上に座り込んでいた。

 自分のことを見下ろして、旅館らしき浴衣をまとっていることに気づく。おそるおそる窓辺に寄って少し障子を開いてみると、眼下には小さな前庭と玄関の瓦屋根が見えた。

 部屋の机の上にはフリーペーパーが一冊、ぞんざいに置かれていた。しばらくの間丸められていたのかくるりと曲がった冊子には、表紙に大きく「人生で一度は訪れたい北陸の旅」と書かれており、後ろの方のページの角に折り目がつけられている。開いてみると、「秘境 蟹沢温泉でゆったりした一日を」と書かれていた。

 眉間に力を入れて、私はここにいる経緯を思い出そうとした。頭が重く痛んで、これは酒を飲んだなと思う。弱いたちなのでビール一杯でも飲めば確実に二日酔いになれるのだ。

 昨日、いつもどおりに東京にある一人暮らしのアパートを出たところまでは覚えている。けれどその後――家を出てからここにやってくるまでのことが、デリートボタンでも押したように、すっぽりと記憶にない。何も思い出せない。いったいなぜ、私はこんなところにいるのだろう。そもそも、ここはどこなのか。

 何かヒントは隠れていまいかと、机のそばに置かれていた自分の鞄をさぐる。化粧ポーチ、手帳、ペットボトルの水、携帯電話、財布といったいつもの荷物の中に、四つ折りにされた宿の宿泊票が挟まっていた。「蟹沢温泉 ささや旅館」というのが、この宿の名前らしい。フリーペーパーを確認してみると、右下に紹介されている「蟹沢で最も歴史のある老舗」と同じだった。おそらく昨日、自分で書いたであろう宿泊票の名前と住所の文字が存外しっかりしていて、少なくともきちんと受付はしたらしいことに安堵する。携帯電話を取り出してみるも、充電が切れてうんともすんとも言わなかった。

 どうやら昨日の自分は、どうにかして家からはるか離れた北陸までやってきて宿を取ったらしい。そこまではぼんやりと理解するも、寝ぼけた二日酔いの頭では、そこから先へ思考が進まなかった。一体今が何時なのかもわからない。見回してみるも部屋の中に時計はなかった。部屋の端にタオルが置かれているのを見て、ああ、そういえばここは温泉らしいと思い出し、酔いざましに入ってみたくなった。ふらふらと部屋を出ると、薄暗い廊下は静まり返っていた。見たところ、随分と小さな宿のようだ。歩くたびに鈍い頭痛に襲われながら、きしむ階段を降りる。途中ですれ違った仲居さんが、私を見て驚いたように小さく頭を下げた。

「おはようございます」

「おはようございます。あの、お風呂、入れますか」

「あっ、はい。一階まで降りて、左手奥にございます」

「ありがとうございます……それから」

「はい」

「いま、何時ですか」

 私の質問に、仲居さんは不思議そうに首をかしげた。

「さあ……六時半くらいかと思いますけれど」

「朝の、ですよね」

「はあ。そうですね」

「そうですか」

 礼を言うと、彼女は銀鼠色の着物の背をかがめて、私の前を通り過ぎた。

 言われたとおりの場所に見つけた浴場は、昭和の遺物のように狭くて古臭かった。誰もいない浴槽から白い湯気が立ち上り、私が引き戸を開けたカラカラという音が、こだまのように反響してその向こうに吸い込まれていく。温泉独特の硫黄のにおいがむわりと香る。石造りの浴槽はゴツゴツとして座りにくかったが、ほんのりと白くてとろみがある湯に浸かると、とたんに凝り固まっていた体の芯がじわりと解けていくのがわかった。

 湯の注ぐ音、通気窓から聞こえる木の葉のざわめき、目の前で揺らぐ水蒸気の粒子。永遠に続きそうなそれらを、私は湯船につかったままぼんやりと受け止めた。


 風呂から上がり、部屋に戻ってしばらくすると突然外から戸が叩かれた。

「おはようございます。お食事をお持ちしてもよろしゅうございますか」

「あっ、はい。どうぞ」

驚いた。部屋で朝食をとる旅館なんて何年ぶりだろうか。

失礼します、と入ってきたのは先ほどの仲居さんだった。お盆に載せて運ばれてきた料理は豪華ではなかったが、どれも品のよい味で、二日酔いの体に優しかった。特にこのあたりの特産だというかぶを使った煮物は格別で、思わずこれが最後の晩餐でもよいかもしれない、などと考えた。

仲居だと思っていた女性は、話してみると実はこの宿の女将だった。

「こんな小さな宿ですからねぇ、仲居を何人も雇う余裕なんてないんですよ」

そう言って温まった湯豆腐の小鍋の蓋を開ける。五十代半ばだろうか、いやもう少し上かもしれない。自分の母親とどちらが上だろうか。ふっくらした顔には縮緬のような細かなしわがところどころに刻まれていた。

「昨晩お客様が飛び込んでいらしたときにはね、びっくりしましたよ。もうね、死にそうに青白い顔をしていらしたもんだから。今日はだいぶお顔の色もよくなって」

訛りの隠しきれない標準語で女将が話すので、思わず肩をすぼめる。昨夜のことをまったく覚えていないから、さらにたちが悪い。

「すみません……ご迷惑だったでしょう」

「いえいえ、とんでもない。でも」

 言いかけて女将が含み笑いをする。

「タクシーの運転手がびっくりしとりましたよ。万札を出してお釣りはいらないなんて、都会の人はみんな金持ちなのかねぇって」

 どうやら昨日の私はタクシーでこの宿に乗りつけて、寄った勢いで恥を晒したらしい。穴があったら入りたいとはこのことだ。入れる穴がないので、せめてせいいっぱい目線を落とす。ちなみにどうして私がここにいるかご存知ですか、などとはとても聞けなかった。

「でもまあほんと、こんな何もないところに、ようおいでになりましたねぇ」

「ええ、まあ……良いところですね」

「はあ、そうですか。失礼ですけれど、お客さん、お年は?」

「三十です」

「まあまあ、やっぱりまだお若いじゃないの」

 大袈裟に目を見開いて、女将は金魚のように口をぱくぱくさせている。三十は、果たして若い部類に入るだろうか。

「ここに来るのはみーんなご年配ばっかりなもんでね、若い方のご趣味に合うかわかりませんけれども……お湯だけは、いいものですからね」

「はい、すごく気持ちよかったです」

 そうでしょう、と得意げに女将の口元が緩んだ。

「ほんと、何もないところですけれど、ゆっくりしていってくださいねえ」

お部屋は今日いっぱい使っていただいて構いませんから。そう言って、女将はふくよかな体に似合わないなめらかな動作で部屋を出て行った。


朝ごはんを食べ終えたところで、やることがなくなった。時計も仕事もないと、いやに時間が長く感じられた。目覚めてからどれくらいの時間が経ったのか、一日の終わりまであとどれくらいあるのか不確かで、自分がふわふわと浮いているような気分になる。

 しばらく部屋の中に座り込み、起き抜けよりはだいぶよくなってきた頭で一人考えてみたものの、相変わらず昨日のことは思い出せなかった。人間の記憶とは、こうも頼りにならないものだったろうか。昨日、私は仕事へ出かけたのではなかったのか。少なくとも家を出るときはそのつもりだったはずだ。まさか若年性のアルツハイマーなどではないだろうな、と薄ら寒くなってくる。手帳のページは昨日も今日も空欄で、あいにく携帯電話の充電器もない。今日が仕事のない土曜日であることが、せめてもの救いだった。

 そのうち考えるのも面倒になり、ええい、もうどうせならゆっくり観光でもしてやろうと、私は畳から重い体を持ち上げた。会社に謝ろうにも説明できる事情が思い出せない。どうせ家に帰ったとて、待っている人もいないのだ。

 いわく「秘境」の蟹沢温泉は、温泉街とは名ばかりのさびれた街だった。旅館を出てみると、あたり一面が鬱蒼とした山に囲まれていた。薄曇りの空がやけに広い。旅館は緩やかな坂道の途中に建っていて、目の前を川が流れていた。温泉が流れているのか、薄く濁って湯気を立てている。周りにもぽつぽつと古い旅館や民宿が見えたが、残りのほとんどは民家だった。

 坂を下ったところには小さな商店街があった。薄暗い土産物屋以外はたいした観光客向けの店もなく、並んでいるのはほとんどがシャッターの閉まりかけた酒屋や八百屋だった。土産物屋の店先では、店主らしき老人が置物のようにちょこんと座って居眠りをしていた。商店街を通り過ぎたところに、ぽつりとひとつバス停が立っていた。覗いてみると、時刻表には数字が三つしか載っていない。街の入り口には「ようこそ蟹沢温泉へ」という巨大なアーチ型の看板が立っていたが、老朽化のせいで金具がゆるんだか、「ようこそ」の「よ」の字が逆さを向いていた。

 時代に取り残されたような街は、普段私が生きている東京とは対照的に、ひっそりと人の気配がなかった。大通りを行き交う車も、リアルタイムのニュースを垂れ流す大型画面も、早足で歩くサラリーマンの群れもない。まるで時間という概念がなくなってしまったような場所。私はなぜかそれをとても好もしく思った。

 空気は刺すように冷たかったが、腹の中には、まだ朝食の温かさが残っていた。時折吹く風が、ロングスカートにまとわりついてはどこかへ旅立っていく。つんと鼻を抜けていく冬の空気が清々しく、私は地図も見ずにめちゃくちゃに歩いた。そして、美術館を見つけたのだ。

 温泉街から少し離れた上り坂の頂上に、それはぽつりと現れた。小高くなった平地の真ん中に建てられた、真新しい建築物。四角くて真っ白なその様子を見て、思わずケーキの箱を思い浮かべた。控えめに「蟹沢美術館」の名が記されているほかは、何の案内もない。中をのぞいてみたら自動ドアが開いてしまい、受付の中年女性がうろんげな視線でこちらを見てきたので、引き返しにくくなってそのまま中に入ってしまった。

「あの」

声をかけると、女性は黙って受付台の上にある料金表を示した。常設展示と特別展示「うずもれた人々」の二種類。何が飾ってあるかもわからない、タイトルだけの案内。その潔さがむしろ印象深くて、気がついたら特別展示の文字を指差していた。

 

 入口のパネルにはあの序文以外、何も書かれてはいなかった。私は部屋に飾られた作品を、ひとつひとつゆっくりと眺めていった。

 飾られているものには絵画も彫刻も織物もあったが、半数近くは実物ではなく写真か、あるいはその作品や作家を知る人から聞き取った話をまとめたパネルだった。それがいかに作者たちが「うずもれた人々」であるかを十分証明していた。

 貧しい家に生まれて木像しか彫れなかった少年。

 画家一族に生まれながら、時代の画風に合わずに笑われ続けた男。

 作品のすべてを師匠の名で世に出した女浮世絵師。

 ひとつの作品に時間をかけすぎて死を迎えた晩成の壁画家。

 人に決して作品を売らなかった彫刻家。

 そこにあったのは、作品というよりも彼らの生きた人生だった。もはや作品すらもこの世には残らなかった芸術家たちの、哀れで滑稽な一生。

 彼らは一体どんな気持ちで最期を迎えたのだろう。

 そう考えたとたんに頭に鈍い痛みが走って、一体何杯飲んだのか、と昨日の自分を恨む。

 最後まで世に認められなかった彼らは、自らの才能と美とを信じ続け、報われぬ人生に唇を噛んだろうか。それとも、これが自分の宿命だと受け入れただろうか。いや、そんなはずはないだろう。きっと彼らは感じていたはずだ。何者にもなれない恐怖を。時代の波からはぐれ、忘れられ、ゆっくりとうずもれていく失望を……。

 作品から、パネルの文字から暗い闇が滲み出てくるような気がした。こめかみの向こうがぐらぐら揺れる感覚がする。私の中で、何かが頭をもたげる。何だろう、と思わず閉じた瞼の裏に真っ赤な色が浮かんで、私ははっと目を見開いた。

心臓が早鐘のように鳴る。

やめてくれと脳が叫ぶ。

頭を振り、赤色の残像を無理やり消し去る。

そのときだった。

 ちらり、と視界の端で何かが光った。

 え、と反射的に声が出る。自分がいるのとは反対側の部屋の壁。その前に置かれた小ぶりな石像の足元を息をひそめて見守っていると、再び何かが鈍い光を反射した。カサカサとカーペットの擦れる音がする。

 ……ネズミ? ゴキブリ?

 すばやくいくつかの可能性を頭に巡らせる。先ほどまで、あれほど静まり返っていたのに、いつの間にそこにいたのだろうか。私が気づかなかっただけなのか、と内心首を傾げる。そうしている間に、またそれが動き出したので、思わず数歩後ずさった。そして、彫刻の影からそれが顔を出し、部屋の真ん中へと歩き出したとき、私は今度こそ本当に首を傾げた。

 それは、小さな蟹だった。

 小指の長さほどしかない蟹が一匹、群青のカーペットの上をちょこまかと横歩きしているのだ。甲羅はたったいま水から上がってきたかのように艶めいた黄土色。

「……なんで、こんなところに」

 唐突に現れた不可思議な光景に、頭が追いつかなかった。思わずいくらかそばに寄ってじっと観察する。蟹はこちらに気づいていないのか、逃げるそぶりもなく部屋を横切っていく。その歩みがぴたりと止まったのと、あの声が聞こえたのは、果たしてどちらが先だったろうか。


「見えるんですか、あなたも」

 目の前の蟹が口をきいたのかと思った。あまりにもタイミングがぴったりだったのだ。一瞬ののち、慌てて周囲を見回す。さまよっていた私の視線は、展示室の入口でふいと止まった。あの重たげな扉に手をかけて立つ人影があった。

「お見えになるんですね、その蟹」

 静かな部屋に柔らかいテノールの声が響く。パイプオルガンを鳴らしたときのような、不思議な余韻のある声だった。

 立っていたのは、ひょろりとした男性だった。声の印象以上に顔立ちは若い。もしかしたら年下かもしれない。面長の顔にフチなしのメガネ、柔らかそうな黒髪、特徴のない白ワイシャツにスラックス姿。首からは職員証のストラップがかかっており、胸には名札らしきものも見えた。

 私は返す言葉もなく、忽然と現れたその姿をただ見つめていた。彼はいつからそこにいたのだろうか。どこからやってきたのか。まさか、あの石の廊下を音も立てずに歩いてきたのだろうか。天使はいないのかしら、と考えたことを思い出す。天使というにはいささか存在感のない姿だった。男性はただうっすらと穏やかな笑みを浮かべている。

「この蟹」

 ようやく出した声は自分が思っていたよりもずっと小さく、ほとんど囁き声だった。

「この蟹、あなたのものですか」

 気づいたら、そんなことを尋ねていた。

「いいえ」

 男性が小さく首を振った。

「では、誰が連れてきたのです」

「誰も。彼女はここに住んでいるんです」

「彼女?」

「メスなんです、その蟹」

「住んでいるって」

「はい、ここができてからずっと。蟹沢だけに、洒落てるでしょう」

 といっても、オープンからまだ何年も経っていないんですが。そう付け足しながら、男性はゆっくりと私のところまでやってくると、なぜか嬉しそうに頷いてその場にしゃがみこんだ。細長い指がリズミカルに床を叩く。するといつの間にか別の方向へと歩き出していた蟹がぴたりと止まり、方向転換すると男性のほうへと近寄ってきた。

 股の下をくぐり、うろうろと自分の足のあたりを行き来する蟹をそのままにさせながら、男性は「ね、いい子でしょう」と私を見上げた。眉にかかった前髪がその拍子にさらりと流れる。無邪気な表情が、さらに彼を幼く見せた。胸元の名札に「蟹沢美術館 館長 笹川泳一」の文字を見て、私は心ひそかに驚いた。まさか、まだ若そうなこの男性はここの館長なのだろうか。

「さっき、見えるのかっておっしゃいましたけれど」

「ええ、大抵の方はお見えにならないので」

「えっと、それはどういう……」

「さあねえ」

 たいしたことではない、と言わんばかりののんびりとした口調だった。

「どうしてか、ぼく以外の人にはこの子が見えないらしいのです。来館者の方も、他の職員にも。だってこんなものが美術館にいたら、普通はちょっとした騒ぎになるでしょう」

 その通りだ。少なくとも建物からは追い出されるだろう。

「でもみんなちっとも気づかないんですよ。ほら、受付に無口な人がいたでしょう。彼女に以前相談してみたことがあるのですが、そのときばかりは感情のこもった声ではっきりと『病院に行ったほうがいい』と言われましたね」

「つまり、幻覚か何かだと」

「ぼくだけだったらそれで済んだのですが」

 ほら、と男性は手のひらを私に向けて「他にもいるとなれば、事情がちがう」と言った。

 私はもう一度、目の前の蟹をしげしげと眺めた。甲羅の質感といい、不規則な動きといい、カーペットの沈み具合といい、どうやっても幻覚とは思えない。試しに思い切ってえいやっと背中に触れてみたところ、すんでのところで逃げられてしまったが、指の下をするりと抜けていく感覚が確かにあった。

 あの蟹は本物だ。間違いない。少なくとも今の私には疑いようがない。ならば、おかしいのは私とこの男性のほうなのだろうか。

「私、特に霊感の強いほうではないのですが」

蟹に触りそびれた右手を眺めながら呟く。

「ええ、ぼくもですよ。幽霊なんて見たこともないし」

「美術館にいると、色々と出そうですね」

「会えるものなら会いたいですね、この美しい作品を作った人々に」

 男性はあいかわらず飄々としていて、少しも不安に思っている様子はなかった。

「館長さん」

「はい」

「なんですよね」

「え? ああ、そうです。すみません、ご挨拶が遅れまして」

 男性は立ち上がりながら「館長の笹川です」と笑みを浮かべた。その拍子にふわりとあの温泉のにおいが香ってきて、ああ、この土地の人なんだな、と思う。近くに立つと、彼の身長はヒールを履いた私より頭ひとつ分大きかった。疑わしげな目線になっていたのだろうか、彼は私の顔を見てクスリと笑い、「本当ですよ」と続けた。私は何となく恥ずかしくなって目をそらす。

「あの、蟹――彼女は、放っておいて大丈夫なのですか」

「大丈夫、とは?」

「ええと、ですから、作品を傷つけたり、人を襲ったり、とか」

「そんなことはしませんよ」

 笹川はゆったりと首を振って、それに、と言葉を継いだ。

「多少傷つけたからって何だというのです。作品も人間も、この世に生まれた時点で、傷ついていく運命なのです。空気に触れているだけで、銅像は酸化し、絵は褪せていく」

 静かな口調で、笹川は美術館の職員とは思えないせりふを吐いた。その声は淡々としていたが、私の胸はなぜかどくりと波打った。その拍子に二日酔いの頭がまたずきりと痛む。蟹は笹川にじゃれるのに飽いたのか、再び群青のカーペットへと繰り出していく。

「当館へのご来館は初めてですか」

 笹川が、今度は館長らしいあたりさわりのない問いを出した。

「ええ、散歩の途中に見かけて」

「分かりにくいでしょう、ここ」

「そうですね。ぱっと見ただけでは何だか分からなくて……お客さん、来ますか」

「上の山に山菜を採りにきた地元の人が、ついでに寄ることはありますね。たいていは受付で世間話をして帰っていきますが。あとはあなたのような方がたまに」

とても収支が合っているとは思えないが、どうやってお給料を支払っているのだろう、と私は受付の女性を思い出す。そもそも、客の私にすらチケットの値段しか発言しなかった彼女と世間話なんて可能なのだろうか。

「ここの展示、もうご覧になりました?」

笹川は見た目に見合わない老成した仕草で腕を組み、室内を見回した。

「ええ、半分くらいは」

「ぼくは大好きなんですがね、知人たちには不評で。もっと有名な作品のほうが面白いと」

「そうですか」

 確かに無名の芸術家たちの作品が並んでいるのを、金を払ってわざわざ見たい客は少ないのかもしれない。

「お客様も、やはり面白くなかったですか」

 笹川が不安そうに少し眉を寄せて尋ねる。

「いえ、そんなことは……でも、ちょっと、怖かったです」

 ほう、とメガネの奥の澄んだ目が興味深そうに私を促した。

「だって、ここにあるのは歴史に残れなかった人なんでしょう。そう思ったら、作品がみんな泣いているみたいで」

「なぜ?」

「はい?」

「なぜ、作品が泣いていると怖いのですか」

「それは」

 そのとたんだった。

 作品を見ていたときに感じた、あの重たい何かが蘇った。体の奥からむくむくと沸き上がってくる何かが、喉元までやってくる。車に酔ったような気持ち悪さ。頭痛。視界に広がる赤色。吐き気がして、私は思わず口元を押さえた。

 何なのだ、これは。

 溢れ出しそうになる、得体の知れないものを必死で抑え込む。

 これは、いつもの二日酔いではない。

 震えている唇からゆっくり息を吐く。

「お客様?」

「ええ……だから、ええと、天才になれなかった人の、嘆きがこもっているみたいで、呪われそうでしょう」

 心配そうにのぞき込んでくる笹川になんとか答えてから、違うと思う。違う。私が感じていた怖さはそういうものではない。うまく言葉にできていない。

 テストの答えを間違えたような不安に襲われて笹川を見上げる。目が合うと、彼は「そうですか」と言ってふわりと笑った。その柔らかい風が吹くような笑みに、急に懐かしい感覚に囚われて、小さく息を止める。誰かに似ている。ずっと前から知っている誰かに。思い出せない。そう思ううち、自分の中の化け物は少し静かになったが、頭の奥にはまだ、電子機器のモーター音のような鈍いしびれが残っている。

 瞬きをすると、笹川の顔はもう見慣れないただの笑顔だった。

「この展示は、館長さんが企画したんですか」

 息を整えながら尋ねると、笹川は小さく首を振った。

「ええ、お義兄さん……この美術館のオーナーと話すうちに思いついて」

 姉の結婚相手なのですよ、と肩をすくめる。

「義兄は資産家で旅好きで、審美眼もある人です。彼は有名無名かかわらず、自分が好きだと思ったものは迷わず手元に置く人で……各国で集めてきた自分のコレクションを管理するために、愛する妻の故郷に美術館を建てたというわけですね。ぼくはコネで雇われたにすぎません……ああ、別にそれを悲観しているわけじゃないんですよ。義兄のコレクションは興味深いものばかりだし、ぼくにはこの街くらいがお似合いです」

「でも、あまり訛っていませんね」

 私はふと気になってそう言う。最初からずっと、笹川の言葉はきれいな標準語だ。

「ここに勤めるまでは、東京にいたんですよ。普通の学芸員として仕事をしていました」

「ずっと東京にいようとは思わなかったんですか」

 東京の美術館のほうがはるかに作品数も多いだろうし、やりがいがありそうではないかと思った。

「苦手だったんですよ、東京は時間の流れが早すぎて」

 笹川が苦笑する。

「すべてがきちんと噛み締められる間もなく過去になっていくさまが恐ろしくて、しまいには駅で早足に歩く人たちを見ただけで体調を崩す始末で……結局、逃げてきたようなものですけれど」

 それを聞いて同じだ、と思う。同時に、あれ、と思った。

 一体何が「同じ」だというのだろうか。私は学芸員ではないし、東京暮らしに嫌気などさしてはいないのに。私の中のモーター音が少し大きくなる。ずきりとこめかみに痛みが走る。

「この街は、東京とは全然違いますね。静かで、時間さえ存在しない感じがして」

 今だって、何時何分なのかわからない。流れる水の音、薄曇りの空、温泉のにおい、人のいない街、天国じみた美術館。ここでは、すべてが永遠にそのままのような気がする。私の言葉を聞いて、しかし、笹川は首をかしげた。

「そうでしょうか。確かにゆっくりとしているけれど、ここにも時間は流れていますよ。もしかしたら東京以上に確かに」

 そうなのだろうか。こんな静かな、何十年もこのままのような街に、時間が流れている? そう考えたとたん、ぐわんとモーター音が拡大した。きんと耳鳴りがして、締め付けられるような痛みがやってくる。

「知っていますか」

 笹川のパイプオルガンのような声が、痛みとともに頭の中で反響する。

「このあたりは、昔は海だったそうです」

「ここが、ですか」

 半ば朦朧としながら答える。蟹沢から海は見えない。むしろあたりは山ばかりだった。

「もう何百万年も前の大昔ですよ。日本列島が今の形になる前、ここは海の中だったそうです。もちろん、ここより海側のところはみんな。この子は、その名残なんだとぼくは思います。この地を流れていった時間の名残」

群青のカーペットを闊歩する蟹を眺めながら、笹川が呟く。

 痛みに眉を寄せながら、私は必死に想像する。かつてここいっぱいに満ちていた青い水を。頭上を横切っていく太古の魚を。その中を変わらず歩く蟹の姿を。

「どうして……そんなものが見えるんでしょう」

 なぜそんな大昔の名残が、私に見えるのだろう。昨日のことすら思い出せないのに。

「そうですねえ」

 笹川がのんびりと相槌を返す。蟹が壁にぶつかって、こつんと止まる。視界がぶれ、その姿が揺れる。心臓の鼓動が体を打つ。

「人よりも時間というものに固執しているからじゃないかと思っています、ぼくは。みんながためらいもなく忘れ去っていく時間が、ぼくにはとても無視できない」

 東京の時間から逃げ出して、秘境の美術館で生きる笹川。

 だとしたら、私は何の時間に固執しているというのだろう?

 どうして太古の海の名残が見えるのだろう?

 どうして昨日が思い出せないのだろう?

 ああ、痛い、重い。くる、何かがやってくる。

「ああ、そういえば」

 笹川が優しい顔で私を見る。

「お客様は、どうして蟹沢へ?」

 その瞬間、すべてが弾けた。

 

 頭痛、吐き気、めまい。突然すべてが波になって押し寄せてきて、私は床に座り込んだ。

 記憶がすべて欠片になって降り注いでくる。

 それは、ずっと思い出せなかった昨日の記憶だった。

 携帯電話の着信音。温泉のにおい。窓の外を流れていった景色。群青のカーペット。喉を焼く酒の味。新幹線のチケット。蟹。床に散らばる絵の具チューブ。干からびた筆。割れた金時計。そして、赤い赤い絵。

「お客様、大丈夫ですか、お客様」

 笹川の声がする。肩をさすってくれている。

 しかし、それに応える余裕はなかった。頭が痛い、心臓が痛い、気持ち悪い。喉が締め付けられて、うまく息ができない。目をきつく閉じて必死に耐える。細切れに酸素を吸う。

 思い出したくなかった。思い出したくなかったのに。

 けれど一度戻ってきた記憶は、どんどん鮮明になって、点と点が線でつながり、形を成していく。それとともに、痛みが少しずつ引いていく。

 ああ、だめなのか。

 体の安らぎと反比例して、諦めの苦い味が口に広がる。

「救急車を呼びますか」

「いえ……大丈夫、です」

「でも」

「大丈夫」

 心配そうな笹川の声を、低く打ち消す。

 深呼吸を何度か繰り返すと、昨日の記憶を残して、痛みはゆっくりと去っていった。

 私の中に、静かな美術館が戻ってくる。自分の荒い呼吸の音と、笹川が肩をさすってくれる衣擦れの音だけが聞こえる。

「友人が、おりまして」

 深く吸った空気を飲み込んで、唐突に私はそう言った。

 肩をさすっていた笹川の手が一瞬止まる。それでも私は話を続ける。

「大学時代の親友です。このところ、しばらく会っていなかったんですが、この間久々に彼女のアトリエに行ったんです……ああ、彼女、画家なんですよ。そうしたら今度の大きな展覧会に出す作品を仕上げている最中でした。すごくいい絵だったのに、彼女は不安がっていました。だから私は彼女にワインを飲ませて言いました。『納得するまで書き直せばいいじゃない。あなたなら最高のものが書けるよ』って」

 あの日、こぢんまりしたアトリエのダイニングスペースで、私は持ってきたお菓子と赤ワインを彼女に差し出した。私は全然飲めないけれど、彼女はお酒が好きだったから。彼女は喜んで、不安を打ち消すように次々と杯を空けた。

「彼女はどんどん元気になって、その絵をチューブから出した赤い絵の具で塗りつぶしてしまいました。『こんなのじゃ納得できない。書き直す』と。そうしたら昨日、家を出てすぐに電話がありました」

 それは、彼女の母からだった。娘が見つからない、どこへ行ったか知らないかと。

「彼女、展覧会に絵を間に合わせることができなかったんです。それを聞いて、慌ててアトリエに行きました。部屋はぐちゃぐちゃに荒れていて、彼女はどこにもいなかった」

 荒れた部屋の真ん中で、自分のしたことの恐ろしさに震えが止まらなかった。絵の具のチューブや絵筆に混じって、彼女が学内展示で最優秀賞を獲ったときの金時計が、割れて床に落ちていた。そして部屋の奥には、あの絵があった。あの日彼女が塗りつぶした――いや、違う、私が塗りつぶした赤い赤い絵が。

「そうです、私はわかっていたんです。彼女がお酒に酔うと気が大きくなることも、作品を作るのにすごく時間をかけることも。わかっていて、あの日、お酒を飲ませた。だって」

 あの日の震えが蘇ってくる。手の平が冷たくなる。

「だって、私も画家だから」

 彼女と私は、美大の油絵科で同期だった。

 卒業後、私は小さな印刷会社に就職し、彼女は専業作家として生きていく道を選んだ。彼女は順調にキャリアを伸ばし、ときおり雑誌にも取り上げられた。私も休日を使って描き進めては賞や展覧会に申し込んだが、一度も選ばれることはなかった。まして絵を買ってくれる人がいるわけもない。安月給のほとんどは画材に消え、誰にも見てもらえない絵は、私のマンションの隅に山積みになった。

「嫌だったんです。このままじゃ、名前も、顔も、作品すらどこにも残らないまま死んでしまう。それが嫌でたまらなくて、目の前で歴史に名を残そうとする親友を引きずり下ろしたのです」

 ここの展示が怖かったのは、何より自分が「うずもれた人々」だったからだ。流砂のように流れていく時間に飲み込まれて、何も残せないまま、誰にも知られないまま死んでしまうのを、誰より恐れていたからだ。だから、彼女から「相談にのってほしい」と久しぶりに連絡が来たとき、自然と手土産に酒を探していた。ためらいもなく、無意識に。

「彼女のいなくなったアトリエから、私は逃げ出しました。新幹線に飛び乗って、飲めないビールを無理やり飲んで」

 途中で気分が悪くなって降りた駅で、フリーペーパーに書かれていた蟹沢温泉を見つけた。そこからは、酔ったままタクシーを捕まえて蟹沢にやってきた。窓の外には黄昏時の空と、黒々とした闇を抱えた山がいくつも通り過ぎていった。

 アトリエを飛び出してから、何度も彼女が死んでしまうところを想像した。高いビルから飛び降りる彼女、線路に飛び込んでいく彼女、首に縄を掛ける彼女……そのとき、殺人犯は間違いなく自分だ。

 私は逃げたのだ。全部夢だと思いたかった。過去も未来もないような場所へ逃げて、彼女と私しか知らない裏切りから、目をそらして、蓋をしてしまいたかった。

 だから私の脳は、昨日の記憶を消したのだ。

「馬鹿な女ですよね」

 乾いた笑いが漏れる。泣きたくても涙は出なかった。笹川はずっと、黙って私の話を聞いていた。

 でも、そこまでしたのに、結局逃げられないのだ。この静かな蟹沢の地でさえ、太古の海の記憶が、蟹の幻が私を追いかけてくる。醜い過去からも暗い未来からも逃れることはできない。あのまま忘れられていたなら、どんなによかっただろう。それなのに、私は思い出してしまった。

 きりきりと軋む痛みが、私の胸を焼く。

「あの絵、見えますか」

 笹川が、うずくまったままの私の隣ですうっと腕を上げた。

「ぼくの一番のお気に入りです」

 細い指先が示した先に飾られていたのは、25号キャンバスに描かれた抽象画だった。青を基調に、赤、黄、紫、さまざまな色が幾重にも塗り重ねられている。その中でぼんやりと人影のようなものが浮かび上がっていた。蟹が何を察したか、その絵に近寄っていく。題名はフランス語で「quelqu'un(だれか)」。

「あの絵を描いた画家は記憶喪失でした。彼が発見されたのはフランスの海沿いの田舎町で、見つかったときにはもう随分と老いていました。国籍も名前も、言葉すら失っていたといいます。彼は元美術学校の教師だった人に匿われ、そこで絵を描いて暮らしました。才能を見抜いた元教師が彼をパリに行かせようとしましたが、一人で生きていくには彼は不自由すぎた。なにせ会話すらまともにできないのですから。結局彼は、その名を世に知らしめることなく流行病であっけなく亡くなりました」

 慣れた様子ですらすらと、笹川は絵のことを語った。蟹が、その絵が最もよく見える角度を探しているかのように動き回っている。

「元教師はあの絵を『これは彼の自画像だ』と言っていたといいます。それを知って、ぼくはあの絵が大好きになりました。ああ、なんて愛しいんだろうと思ったんです」

「愛しい?」

 笹川が言おうとしている意味がわからずに、私は眉を寄せた。確かに美しい絵ではあった。しかし愛しさという感情は、私には湧いてこない。

「この世界で、足掻いて足掻いて、名もない時間にうずもれていく。それって生き物としてとても正しい姿だと思いませんか」

 またも笹川が含みのある言葉を重ねる。こちらに問いかける顔はただ穏やかで、何を考えているのか読み取れない。

「多くの生き物は言語を持たないし、絵も描かない。彼らには彼らが生きた証を残しておく術はないのです。あるとしたら体だけ。地球ができてからずっと、たくさんの生き物が生きて死んできました。ぼくたちがいま立っている蟹沢の土地にも、何億もの死骸が――生きていたものの名もなき時間が――折り重なっている」

 ここにも時間は流れていますよ。もしかしたら東京以上に確かに。

 彼の言っていた言葉を思い出す。艷やかな蟹の背が光る。

「だったら、芸術家だって何が違うというのでしょうか。あの絵を描いた画家は、自画像を自画像にすらできなかった。ぼんやりとした『だれか』にしかなり得ないまま、時間の流れの中に消えていきました。それでも、あの絵は美しい」

 迷いのない口調だった。

 私は25号キャンバスの中に凝縮された、誰でもない自画像をじっと見つめた。彼の人生を、そして自分の人生を思う。

 本当だろうか。名を残せない人間にも、時間の中でもがいてうずもれていく人々にも意味はあるのだろうか。わからない。しかし笹川の静かな声が、軋む私の胸にすっと染み込んだ。

 それでも、あの絵は美しい。

「私、行かないと」

 ほろり、と言葉がこぼれる。蟹がしゃがみこんだ私のそばを通り過ぎていく。手を差し伸べると、彼女はふいとそれを避けて去ってしまった。

「お帰りに?」

「いいえ。彼女を探しに」

「蟹沢は、お気に召しましたか」

 丁寧に笹川が問う。

「いいえ、期待はずれでした。こんな美術館があるなんて」

 自分を忘れてしまうには、蟹沢はいい町だった。何もかも忘れてしまえる静かな場所だった。ここに来なければ、思い出さなかったかもしれない。この展示を見なければ。笹川に出会わなければ。蟹を見なければ。でも思い出さなければ、私はずっと見えないものから逃げ続ける人生だった。

 じゃあ、と笹川が立ち上がって私に手を差し伸べる。

「お気をつけて」

 その笑顔が、大好きで大嫌いな親友によく似ていた。


 蟹はいつの間にかどこにもいなかった。

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蟹沢美術館 神山はる @tayuta_hr

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