文字盤

安良巻祐介

 

 私はある取り決めを交わした。

 空を見ないという取り決めである。

 難儀なことであるようにも思えるけれど、どうせいつも下ばかり向いて歩いているのだし、それに、空を見なければいちいち雨だの晴れだので一喜一憂せずともよくなるのだから、返っていいことずくめだ。

 契約を自分に告げに来たのは背の低い、煤けた服を着た老人で、確か3だか5だか1だかそういう名前を名乗っていたが忘れてしまった。

 老人の背は私の膝くらいまでしかなく、見下ろす私の前で上がり框に両手をついて、禿げた頭を床にぴたりとくっつけながら上がってきた。お茶を出すと、湯呑みには手をつけずに角砂糖ばかりを食べた。いやな人だと思ったがそれでいいような気もする。

 老人は、私に二言三言説明した。罰則はないのかということを私が何度も問いただすと、老人はその度に、はあ、それはもう、町が狭いですから……と繰り返す。

 私が印鑑と通帳を持ってくる間中、老人は福助のような格好でずっと砂糖を舐めていた。そして、盆に盛った角砂糖と印鑑通帳を運んで来た私に、もうすぐ十五夜なのでこの町の駅も見修めですよ、と言って、にやりと笑った。

 もうすっかりこちらの有利に話を進めた気になっていた私はさっと背筋が寒くなったが、そうと気取られては大変だと思い、はあ、最近の星観測は大分と進んだようですね、とさも落ち着いたふりをして答えてみせる。

 老人は日の出前には帰った。かれこれ一日以上も家にいたことになる。私は後々訴訟沙汰にでもなった時の為にと思って、メモを持ち、玄関前の大時計の前に立った。朝の気温に冷えた玄関で、大時計はブリキの盤を光らして、ごち――ごち――ごち――ごち――と時を刻んでいた。

 大時計には珍しい楕円形の針がゆっくり文字盤の上を進んで行くのを見ながら、私は奇妙な不安を覚え始めた。何か、大変な失敗をしでかしてしまったような気がする。

 私は慌ててメモを開き、書き付けたことを舐めまわすように見た。当たり障りのないことばかり書いてあるようだったが、胸の中で不安はどんどん募ってきた。私はもう一度時計を見た。そして、文字盤の上の数字を目で追っているうちに、爪先から頭の天辺まで、身体の産毛が一本ずつ立ち上がってくる心地がした。電話番号だ。あの老人の告げて行った名前は私の家の電話番号だ。騙された。

 私はがんがんと頭が鳴るのを聞きながら、老人を追って外へ飛び出した。けれど老人の姿はもうどこにも見えなかった。頭がひどく重かった。朝もやの向こう、街の風景がいつもより平たく潰れて見えた。

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文字盤 安良巻祐介 @aramaki88

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