風格のカゲボウシ
ぴろ式
風格のカゲボウシ
夢だというのは分かってる。
夢だというのは分かってるんだ……
熱い太陽が僕を照らしてくる。
ジリジリと肌が焼けるような錯覚に襲われ、思わず頭に乗せた麦わら帽子を深く被った。
季節は夏……なんだろう。もし今が1月とか12月なら、地球の滅亡は近いんじゃないのか?
なんて事しか、小学生の僕には分からなかった。今いる場所も、周りで生えている背の高い木の正体も、何も知らなかった。
木……そうだ木だ。なんで僕の周りに、こんな木が沢山生えているんだ。僕が知ってる景色は、辺りを見回してもコンクリートで造られた家やビルが目に入る所ばかりなのに。木なんて物は、街路樹くらいしか見たことが無い。
いや待て……本当にそうか? そんな事は無い気がしてきた。僕はこの場所では無いどこかの、田舎の景色を知っているんじゃないのか?
心の中に迷いが生まれ、その迷いを振り払うかのように僕は歩き出した。
道と呼べるようなのは存在しない。仕方なく僕は、木々を掻き分けながら進んだ。
しかし歩けども歩けども、目に入ってくるのは背の高く、大きな葉を付けた木ばかり。自分は今北に進んでるのか、南に進んでるのか。いやそもそもこの場所に東西南北という概念は存在するのか。自分はさっきから一歩も進まず、その場で足踏みをしているのではないか?
針の無い時計を見ているような感覚に陥りそうになった。このままだと歩くのすら出来なくなるかもしれない。
が、そんな弱気な僕の視界が途端に開けた。
辺り一面を覆っていた木々が突然途絶え、グルッと円上に枯れ草の野原が広がっている。
その真ん中にポツンと、しかし確かに、一本の樹が立っていた。
その樹に向かって駆け寄ったのは、言うまでもない事だろう。
その樹は周りの木々と比べるまでもなく巨大だった。
幹はずっしりと太く、そこから伸びた枝の一本一本が、一つの木として存在しているようだった。地面に伸ばした根っこも、負けじと大地
に食いついている。
生命の神秘のような物を感じさせるその樹に、僕はフラフラと近づいていく。その時、樹の根本に、地面から何か白いものが生えているのが見えた。
いや違う。
生えてるんじゃない。立ってるんだ。
そこに白い服を着て、白い日傘をさした人が立っているのが分かった。
ゆっくりとした足取りで、僕はその人の元へと近づいていく。
あの……と、最初に声をかけた。
白い服はワンピースだった。日傘の下からは、黒く長い髪が窺える。
その人が女性だと認識してから、僕は話続ける。
ここで何をしてるんですか?
女性は返事をしない。
ここは何処か知ってますか?
女性は返事をしない。
この樹の事知ってるんですか?
……………………
「カゲ……」
それだけ──ただそれだけ、女性は言った。
あまりにも突然の事で、そして思いもよらない事だったからか、頭で『カゲ』が中々漢字に変換されない。
「影を見ていたのよ」
慌てる僕に目は向けず、女性は再び口を開いた。今度はしっかりと『影』に変換出来た。
影を──?
僕の問いかけに、女性はとある方向を指差すことで答えた。僕は素直に指を差された方向に目を向ける。
僕が通ってきた道に向かって、この樹の影が伸びている。樹が大きい分、影もとてつもなく大きい。
すごい……。
思わず口にした。その言葉を聞いて、女性は日傘の奥で笑ったような気がした。
「すごいでしょう? こんなに大きな樹は、貴方も見たことが無いんじゃないかしら?」
確かにそうだ。CMで『この木なんの木』みたいな大きな樹は見たことがあるが、実物を見たことなどあるわけ無い。
これって何の樹何ですか?
先ほどの質問を少し変えて、再び尋ねてみた。
女性はこう答えた。
「『風格』と呼ばれる樹よ」
風格……?
その言葉の意味は知っているが、風格と呼ばれるとはどういう事だろう。
「貴方の周りに、沢山の木が生えているのは見えるでしょう?」
僕はコクりと頷く
「この樹もね、最初はその中の一本だったのよ」
その言葉に少し驚いた。
だってこの樹は、高さも大きさもまるっきり違うじゃないか。
「でもね、この樹だけは周りよりも大きくなって、一際目立つ巨木になったの」
すごい、幼い僕は素直にそう言った。
これだけ大きいなら、何でも出来そうですね。とも言った。
しかし女性はこちらに顔を見せず、そのまま首を横に振った。
「何でも出来る──そんなこと無いわ。むしろその逆よ」
逆……?
「この周りの木はね、美味しい実をつけるの。もちろんこの樹もよ」
でもね、と女性は続ける。
「この樹は大きくなりすぎたから、誰も実が取れなくなったの」
女性の言葉を聞いて、僕は見上げた。
緑の葉に混じって──何か茶色い物がぶら下がっている。
「あれはこの樹がつけた実なの。本当は美味しいのに、誰の口にも入らなかったの。樹が大きいせいで」
枯れたんですか?
「腐ったのよ。多分あの実を割ったら、蜘蛛や毛虫が出てくるんじゃないかしら」
その言葉の意味を想像してしまい、僕は壮絶な吐き気に見舞われた。
「可笑しいでしょう? 私はこの樹が大きくて好き。でも実用性から考えると、役に立つとは言えない」
せいぜい大きなカゲボウシが、太陽から守ってくれる事ぐらいね。
その言葉を最後まで僕は聞けなかった。
頭が何かぐらんぐらんとして、耳に入ってこない。
何故だろうと考えて──一つ思い当たった事があった。
似てるんだ。
この樹は、僕によく似てるんだ。
小学校の時──僕、自慢じゃないけど足が早かったんですよ。
クラスの中では本当に早くて、小さい頃から、運動会が大好きでした。
そんなある時、初めて組対抗のリレーでアンカーに選ばれたんです。
勿論ワクワクしましたよ。凄く楽しみでした。絶対一位になってやるって思ったんです。
結果──僕達のチームは最下位でした。
僕が転んだとかじゃありません。前の人間が、皆揃いも揃って遅かったんです。
僕は彼らの分も挽回しようとしたけど、それも結局無理だった。
悪いのは僕じゃないです。でも僕達の負けが決定打になって、その年僕達は運動会で負けてしまいました。
そのせいで責められたのは僕です。お前が一位を取れなかったから負けたんだぞって──
お前なんか、足の早さしか取り柄が無い癖にって──
……人間って不思議ですね。あれだけ好きだったはずの運動会が大嫌いになった。
足も次第に遅くなって、今じゃ下から数えた方が早いんですよ。
そこまで一気に口に出した。
聞かせようと思って話したわけじゃない。ブツブツ言ってるようで、しっかりと女性には聞こえてもいないかもしれない。
でも言いたかった。口に出したかった。
この樹が、あまりにも他人のように見えなかった。
その時、樹の幹の方からミシミシと嫌な音が聞こえてきた。
「とうとうきたわね。この瞬間が」
訳の分からない僕に、女性は教える。
「あの実の中には沢山の虫がいるわ。その虫達が、実から茎を通じて、幹を喰い千切っているのよ」
幹を──?
「それだけじゃない。根本からは白蟻も住み着いているわ。まもなくこの樹は──倒れる」
女性が話す間も、幹の悲鳴は大きくなっていく。風も吹いていないのに、枝が大きく揺れていた。地面に伸ばされた根も、ただのお飾りだったようだ。
「とうとうこの樹はカゲボウシも無くなる──風格なんて名前も、これ限りね」
その言葉に、僕は心臓をギュッと掴まれたようだった。
カゲボウシだけが、この樹の存在意義だったはずだ。それが無くなるってことは──
この樹はその後どうなる? 蟲の住み着いた樹なんて、再利用も出来ないはずだ。
腐った実と、腐った幹だけ残して──この樹は──?
この樹は──僕は──
──何がしたかったんだ?
樹が、
とてつもなく大きく、しかし役に立たない樹が、
風格なんて大層な名前が、剥がれ落ちようとしてる樹が、
僕らに、倒れてくる。
そこで目が開いた。
今この瞬間、たった今までいたはずの草原は存在していない。
目の先にあるのは、見慣れた寝室の天井だけだ。
心臓がバクバクと鳴っている。
全力で運動してもいないのに、身体中の穴という穴から汗が噴き出しているようだ。
「なに?」
荒い息をたてながら目を覚ました僕に気づいたのか、隣で寝ていた妻が目を覚ましたようだ。
不意に聞こえた女性の声に動転したが、驚くことは無い。あの女性の声ではないじゃないか。何を驚くんだ。
「どうしたの? 何かうなされてたみたいだったけど」
妻が心配そうな声で、僕の顔を覗き込んでくる。その妻の顔を見てると、次第に心拍数も平常に戻ってきた。
大丈夫、疲れただけだよ。とだけ答える。
「そう……私てっきり、ワリカタでも見たのかと思ったわ」
ワリカタ……?
聞き慣れない言葉を、おうむ返しに尋ね返す。
「都市伝説なんですって。人の姿をしたワリカタが目の前に現れると、死期が近いとか周りの人間に不幸が訪れるとか」
都市伝説……ワリカタ……
いつもなら馬鹿馬鹿しいと言って笑うところだが、今の僕はそうならなかった。
あの女性──結局顔を見れなかったあの人が──
ひょっとして──ワリカタ……?
あり得ないと言いたくて、僕は内心首を横に振る。
そうだ、僕は疲れてたんだ。
三年前に就職した会社から様々な案件を押し付けられて、心身ともに疲労していたんだ。
だからあんな夢を見たんだ。夢の中で僕は苦労を知らない小学生になって、祖父母の暮らしていた田舎を思い出させる夢を見たんだ。そうに違いない。
だってそうでもなきゃ……あんな……
そこで夢の事を思い出しそうになって、背筋がゾクリとした。
再び震えそうになった僕の手を、妻が優しく握ってくれた。
「大丈夫?」
心の底からそう思ってるというような声で、妻は僕に囁いてくれる。
その声にあるのは、付き合っていた頃と同じような優しさだ。
もちろん妻は今も優しい。子供が欲しいと、執拗な程に望んでくる事以外は。
妻の手を握り返し、僕は幸せを噛み締める。
安定した収入もあって、帰る家と妻もいて──僕は本当に幸せだ。
あんな夢の事は忘れよう。
たまには気分転換に、どこか遠出するのも良いかもしれないな。
ただその時は、あんな野原のような所はごめんだけど。
そんな事を考えてると、妻がどこか恥ずかしそうに顔を顔を布団で隠した。
「ねぇ……」
布団の中に顔をうずめた妻が、少し甘えた声で話しかけてくる。
その姿が可愛くて、愛しくて──妻の顔を、僕は胸元に寄せた。
妻の頭に手を回す。それに答えるように、妻も僕を抱き締める形で腕を背中に回した。
なに、と問い返すと、妻は顔を隠しながら言った。
「ドコマデ夢ダト思ッテルノ?」
その声は僕の知ってる妻の声じゃ無かった。
風格のカゲボウシ ぴろ式 @tel_kandori
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