ボツ原稿

とりあえずボツ原稿一括公開

『ほらアナタの足元にも…』

 なんでいきなりハマったのかと言いますと、二次沼というのはそういうものですとしか言いようはございません。観たからハマった、そういうものです。

(二次創作において、どっぷりファン活動にハマりこむことを沼ると言います)


 二次には戻らない覚悟でずーっと他の創作物からは離れていたのに、よりによって、観たら絶対ハマる予感がしてたHiGH&LOWですよ。これはもう運命に違いない。


 なんで、と言われるかもですが、そんなアナタの足元にだって、どんな沼が待ち構えているか解かりませんよ~。沼は透明で、アナタの歩く人生という道の、どこにぬかっているかなど見えないのです。はたと気付けば足の下に沼。(笑



 また、最近の物書き事情を鑑みますと、まぁ、そういうルートからこの道に入ったという方のほうが圧倒的ではないのかなと思う次第。二次創作から小説を書き始めた、そういう方は多いと思いまして。

 いずれ、この、二次から書き始めた人がオリジナルへ移行する際に気を付けるべきポイントやノウハウといった部分にも取り組んでいかねば、と思っていたのでちょうど良かったと考えることにしたわけです。


 書き方エッセイに関しては、他にも幾つか書いたものの、実をいえば全部失敗作と思っていて、どうにも巧くいかないなと思っていたところだったりもします。

 これはこれで、二次から一次への話に集約しておかないとまた失敗する予感が大。なので、短期集中というカタチを予定しております。




 三代目JSBの岩田くんことガンちゃんは、評判の演技力で今期放映中の「崖っぷちホテル」でも安心して観てられます。そんで何気に怪奇芸人のふっきーさんが演技派だったことに驚いてました。芸が細かい。

 最近の芸能人さんたちって、なんか演技力平均値高くないですか?て思うのでした。長文台詞の時くらいしかボロ出さないしね。声優事情は今どうなってんのか解からないですが、こないだ偶然観たアニメは酷かったのでアタリハズレは大きいのかなぁ、なんて思ったりしてました。

 よくジブリ映画で声出演した俳優さんとかが、アテレコは難しいと仰ってたんで、そういうの鑑みても声優って職業も技術が高いトコ求められるのかもしれません。


 で、崖っぷちホテルのホテルマン、ピエール役をやってた役者さんなんだけど、日本で活躍する海外の血を持つタレントさんの苦労話でよく聞く話を思い出したのですが、流暢な日本語は求められていなくてたどたどしく喋らないといけない、というのですね。で、このピエールさん、第二回放送時に長台詞をすんなり演技高めで喋ってらして、第一回目の時のあの妙なたどたどしさも演技だったんだ、と気付いて「大変だなぁ…」と思ったのでした。ここまで余談。


 これから、二次創作小説と一次創作のオリジナルとの違いに言及していこうと思っております~。


『二次は虹とも書く』

 語感を重ねてるだけですけどね。このエッセイのタイトルも掛けてみました。


 それと、HiGH&LOWのようなドラマや映画、あとジャニーズや吉本芸人などの、芸能人とかリアル現実に存在してて今も存命の人物のファンジン活動は、二次界隈では「ナマモノ」ジャンルと呼ばれます。


 これ、ほんとに昔は隠れキリシタン並みに同人界隈でも忍ぶ者たちでした。


 だって、現実に生きてらっしゃる方ばっかりだもん、それをBLにしたりエロ同人にしたり捏造設定で好き勝手に創作しているわけなので、見つかっちゃいけない同人活動の最たるものでした。(今はほんとイイ時代になったよね~)


 しかし、現実に生きて存在する方を対象とするわけなので、そこはやっぱり今でも節度は守ってあんまり非道な行いをしないように気をつけるという点は変わりないと思います。見逃してもらっている身であることを胆に命じておかないとね!


 そして、せっかくファンジンを作るのなら、自身の創作でまた誰かが原作を好きになってくれるよう、そういう恩返し的な感謝を忘れずに二次は行いたいものです。


 どんなストーリーにするのか… 誰をリスペクトしたいのか…


 二次創作が創作の入り口として優れているというのは、こういう明確さがあるからです。ここを曖昧にするのだったら入り口にする利点もない。たいがい、二次は好きになった登場人物一人にスポットが集中しますよね、それこそが一次においても肝要なのですよ、初心者はW主人公などのいきなり高度なトコを狙わないのが無難という意味において、二次創作は初心者向けなのですね。


 とまぁ、ちょっと堅苦しいトコを語ってみましたが、好きというこの気持ちを表現したい、皆で盛り上がりたい、誰かに彼らを広めたい、という想いが二次創作へ向かわせただけなので、「好きだから二次やる!」で構いません。




 今回、私は本編のHiGH&LOWではあまりスポットが当たらなかった雨宮長兄とMIGHTY WARRIORSの後発組、ジェシーとフォーに活躍してほしいなーと思っていたりします。マイティはほんと謎が多くて本編でも消化不良なんですよねぇ…

(たぶん続編可能の状態で終わらせてあるからで、だけど綺麗に終わっているという稀有な企画に仕上がっている摩訶不思議なハイロー)


 HiGH&LOWがスゴいのはね…、普通はこんなに消化不良の謎設定が沢山散りばめられたまま終わったりしたら、駄作のレッテル貼られるトコなのにそうじゃなくて、なんとなく納得してしまえるトコなのですよね…、どういうコトなの?と思いますわ。(あんまりカッチリとして設定に隙がない作品はヒットしないという謎法則もあるんで、ハイローがヒットしたのはおそらくこの謎設定の揺らぎもある、とは思うのですけどもね。)


『二次は「詰め込みすぎ」にご注意』

 HiGH&LOWですよ、HiGH&LOW! 


 だいたいいつものことで、つらつらと適当な冒頭部分を書いた後にぜんぶ捨てて、大まかな話が出来上がったところで、改めて冒頭を書きなおしたわけですね、まー、いつものルーティンですわ。ここから本題。


 冒頭のわずか三千文字程度のパーツに、特殊な舞台上でキーマンが三名登場。


 一人は完全にオリジナルでしかも殺されてすぐ退場する人物ですけど、物語のキーアイテムを持ち込む人という重要な役どころ。それと作中の中心人物となるうちの二人が同時に登場し、これがわずか一万文字もないうちに一旦退場しちゃうんですよ。


 これ、オリジナルの一次創作だったら何の為に出てきたんだかも解からない。


 てか、展開速すぎ、ぽかーん案件。


 二次だからそのままサクサクとシーンを続けて、舞台変転、雨宮兄弟のターン!てな感じでストーリーを綴っていますけどもね。これ、ラノベや文芸だったらもっと文字数割いて過去シーンとかも入れて人物のバックボーン明らかにして、て感じに追加必須の、ぜんぜん説明不足な展開です。


 さらに文学だとしたら、まったくもってなってない、全ボツくらう展開ですわ。


 なぜか? 読者の「既存の知識」で補填してもらうコトを前提として書かれてあるから、ですわね。お好きな参照元を映画なりアニメなり漫画なりで埋め合わせて読んでね、というヤツだからです。

 メタフィクションとかメタ技法とかって言いまして、パロディとかパスティーシュとかに分類されるのかな? からダメってことですね。


 二次小説の場合は単純に、読み手はファンばっかりの前提で書いてるから、説明が要らないってだけの話なんですけど。オリジナルは二次じゃないから派生の体裁で書くな、という感じです。

 ハイローの設定の派生で書くから、二次小説はノットオリジナルであり、二次創作と呼ばれるわけですわ。


『主義主張の一貫性(または違和感の正体)』

(注意:ネタバレ多少アリマス)


「自分次第ですべて変わる」


 これ、作中だけでなくファミリー全体のモットーでもあるんだろうなと思うのですが、HiGH&LOWの世界観でもキッチリ貫かれております。この作品の凄いのって、この主張を一貫したものにするためには、ある行為が問題になるんですが、それをしっかり処理していることなんですよ。ゆるがせにしないのですな。


 そう簡単には「見捨てない」のですよ、このハイロー世界観の中では、誰も。


 だってねぇ、見捨てるってのは、ことに等しいわけなんで、これを手軽に使っちゃうなんてのは、本末転倒、看板倒れもいいトコになっちゃうもんね。だから、気を配ってあります。


 なので、シリーズ全体でも最終盤において、蘭丸が初めてそのものの意味で「切り捨て」をやるのだけども、その問題のシーンですら、蘭丸からしたら別に繋がりあった仲間でも何でもない奴ら、という良い訳が立つように設定されてんですよな。蘭丸が監獄にいる間に増えた連中に関しては彼にとっては仲間じゃない、と言えてしまうわけなんで。

 それもシリーズのラストの方でなんだから、どんだけこのテーマを繊細に扱っているかってのが解かります。


 家村会は、二階堂さんはどうなんよ?という声もあるでしょう。


 あれはしかし、見方を変えれば「ノボルの方が決断して離れた」と取れる演出で、二階堂さんは捨て駒発言の割に最後までノボルにチャンスを与え続けてました。で、ノボルが裏切ったという体裁になったので、撥ねた、と。オトシマエですね。

(だからほら、生きてんのにそれ以上しつこく殺しには来ない、と)


 だからそこへ行くまでのノボルの葛藤もすごい描かれ方だったのだと思いますね、ノボルの方が「捨てた」と誤解されないよう、丁寧に展開されてます。あのシーンは、一歩間違うとファミリーのモットーを崩しかねない難しいシーンでしたねぇ。


 お互い、見捨てたんじゃなくて、決別したんだってコトを表すのは大変ですわ。


 それから徐々に、ムービー2終盤の蘭丸の「切り捨て」シーンが入ってきて、あの世界観の中にも「見捨てる」という行為が少しずつ見えてきました。「変えられるんだ」という辺りをモットーにしている以上、その世界観は夢物語の理想郷であってはならず、現実に即しているならこの見捨てるという行為だって無しには済ませられませんよね。


 ムービーファイナルはまだ観てないんで、最後の最後でどうなるかはまだ解からないんですが、ここまでのシリーズがこんだけ丁寧に構築されているのだから、土壇場でぶち壊しってことはまずないでしょぉ。(笑


 そんでもって、「一貫性」を持たせるってのは言うほど簡単じゃないって事は、このシリーズで充分に伝わるんじゃないかと思いますね。

「自分次第で変えられるんだ」という主張の含みには「見捨てない」という別方向の含みが嫌でも入ってくるってこと、それはしかし「現実には見捨てられるケースもある」というリアルを無視しないことも必要で、というね。


 この複雑な相関関係ですよ。一貫性があるってのはこのレベルできちんと設定が通っているということを指してるわけで、これがどこかで崩れていると、受け手の読者や視聴者は妙に違和感を覚えてしまうのですね。


 違和感があるということは、全面的に賛同できない、共感できない、強いては、ハマれないってことです。


 世界観を貫く主義主張の一貫性、これは作品の土台がしっかりしているという意味で、その強度があればあるほど、その上に載ってるストーリーにちょっとくらい瑕疵があっても、受け手の信頼はビクともしないのですよね。


 昨今は、二次創作が為される作品ほどヒットしやすく、二次になる作品はちょっと設定が緩んでいるくらいがいい、という話もしました。ストーリーの整合性や回収されない伏線なんぞも、土台に強度があれば問題にされないというわけです。そんなほつれ糸みたいな瑕疵ならこのHiGH&LOWという作品にも山ほどありますから。


『援用されるプラスアルファ』

 視覚メディアは他の要素を援用できる点が大きいです。完全に文字だけの小説などのメディアと違って、ビジュアルというダイレクトな手段を使ってより多くの情報を読者に届けられます。ファーストコンタクト時の優位性、ですね。


 常に安定してプラスとして働くのが、「ネームバリュー」です。演者とかイラストレーターさんの知名度とかです。で、このプラスをどう使うかも作品によって違います。客寄せだけでなく、マイナス要素の打ち消しにも使えますから、ドラマや映画ではそこを当て込んで開幕いきなりの鬱展開、なんてのもやれるんですよねぇ。


「見続けてもらえれば、面白さが伝わるんだ、」てのは実はドラマや映画の標語ですわな。ネームバリューを使えるトコはこれが使えます。大家の作家先生とかもね。


 HiGH&LOWにしても、マイナスになりかねない要素は幾つかありました。その一つが、「時代」です。時代設定というのも実は曲者で、「古臭い」とされるか「ノスタルジー」と評価されるかは際どいところで、結構な賭けだったろうと思います。


 EXILEファミリーのネームバリューという保険があるものの、「古い」なんて評価になったら大打撃ですよ、だから世界観の演出にかける工夫も物凄いものがあります。主演にガンちゃんを持ってきて、彼の演技力で安心保障を増やし、それでいてシリーズ取っ掛かりの、ドラマシーズン1の本当の冒頭部を牽引したのはチハル役の佐藤くんだったのは、彼の役どころがTOPクラスの強キャラでない点だろうと思いますわ。普通主人公、の枠に引っ掛かる位置付けに存在するキャラなので。ドラマ1の方の主人公はチハルでした。(このシリーズの特徴として「全員主役、」て表題があり、チハルもコブラも主役というより視点主って感じですが)


 巧いこと時代性も味方につけて、舞台設定、あの暴走族とかのね、アレも古臭いではなくノスタルジーの方へ作用しました。賭けに勝った。(ここ負けてたらかなりダメージ大きかったよね、)

 この勝負を万全にするために、作中ではほんとすごく細かいところまでスタイリッシュになるよう工夫が凝らされ、あのエンブレムや画面を割るような演出とか、その苦労はインタビューでも語られていました。妥協しなかった。だから、世界観においても「カッコイイ」という評価を勝ち取ったわけです。ネームバリューのポイントをマイナスの補填などには使いたくなかった、てことですかね。大きな賭けだったと思いますわ。


 演出でも、ドラマ構成、シリーズ構成でも、参考にすべき点が満載なのが、このHiGH&LOWシリーズですね。(もっと早くに沼ってたらよかった…)


『どこでもまずやる前置き』

 さてさて、ワタクシ、書き方に関するエッセイばっかり何本と書いてきておりますが、まずはどこでもこれを最初に言及しております。


 小説は形態によってロジックや構造が異なってくる、という点にご注意。


 さて、テンプレ小説と二次小説とは似た部分がありますが、文学・文芸・ラノベはロジックからがまったくのベツモノになるので、区別をしておかないと危険だという考えは、ワタクシ、いささかも変わっておりません。


 テンプレと二次も違う部分は違いますし、それは対比でひと括りにした文学文芸ラノベの三者もそれぞれ、別のリトマス紙使えば違う部分が出るという当たり前の論理は、今さら私なんぞが言う必要もないことでしょう。


 テンプレや二次小説と他のジャンル小説との違いですが、他媒体のコンテクストをがっつり取り込んでいるかどうかという点にあります。

 引用範囲がものすごく大きくて、ほぼ「単体では成り立たない」レベルであるってところにご着目ください。知っていることを前提に造られていく形式の小説です。


 そう、二次小説というのは原作を踏まえた上で、原作を知っている人に向けて、その原作のに行われる形態だという点が重要なのです。補助的ストーリーとして語られるので、その元々の作品の原本を知らないと置いていかれてしまうわけです。


 テンプレでしたらほぼ、そのテンプレート部分が原本に当たります。それら原本にてすでに語られた事柄は了承済みと解釈して、補足の位置付けで物語が始まります。


 平たく言い換えますと、続編の体裁で始まる書き方だ、ということです。


『路上のアマチュアシンガー』

 オリジナルの小説ですと、読者の立場としてはまったくの初対面ということになります。路上の、アマチュアシンガーの弾き語りに似ています。どんなに人通りの多い場所でやっていても最初は誰も見向きもしないものです。


 孤独なシンガーだと考えれば、SNSで相互の交流など作品そのものではない部分で客を呼んでくることに対しても、ちょっと見方が変わりませんか?

 サクラでもいいから、ちょっとした賑やかしがあれば、見ず知らずの通行人だって足を止めやすくなるというものです。だ~れも居ないところへ、最初の一人としてその場に立ち止まるにしても、ちょっと勇気が居るというものです。


 もともとリアルでの友達に来てもらうとか、ツイッターやラインで付き合いのある人々に来てもらうとか、そういうことは別に悪いことではないでしょう。ましてや、好きになった作品の二次創作を通じて知り合いになれた人々というのは同志です。その人々が二次作品を通じてアナタ自身にも興味を持ってくれ、友達になれたというなら、それは原作公式だって喜んでくれると思いませんか。人と人の繋がる環の中心に、その原作作品があったということになるわけですから。


 二次創作というのは、とても魅力ある活動には違いありません。しかし、そこから飛び出して自身のオリジナルを生み出したいとなった時には、少しばかり注意が必要になります。皆でわいわいやっていた環から抜けて、一人孤独なシンガーになって路上に座るということだからです。


 私は二次小説を書くことを初心者に勧めてきましたが、唯一、この落差にだけは注意してほしいと願っています。二次小説と一次小説はまったくのベツモノだとして、認識を新たに、無駄な遠回りなどしないで欲しいのです。


 そのための試行錯誤を、性懲りも無く、また始めてみたいと思います。


『看板を借りてライブ!』

 さてさて、オリジナルでしたらまず読者にキャラクターなり世界観なり何なりと、とにかく何でもいいから何かを気に入ってもらうところからの開始です。


 と・こ・ろ・が。


 二次創作というのは、これのキャラクターと世界観っていうのが既に、お客さんにしたらガッツリ好感度MAXのシロモノです。それを借りてくるわけです。

 無名のシンガーだったら素通りの通行人の足を止めるところから始まるわけですが、これはもう、公式から等身大看板をお借りしてライブするようなものです。


 通行人がふと気付いてふらふら寄ってきて立ち聞いてくれるところから始まるのとは違い、こちらはもう最初からスタンバイ、体育座りでガッツリ最前列キープの勢いです。ファンというのは常に餓えておりますので。


 ファンといういじましい生き物は、もうパネルだろうが、ただの1ファンの妄想語りに過ぎなかろうが、大好きなキャラの名前を冠してあるならそれで喜べます。

 ……ファンって、すごく健気な生き物なのですよ、解かりますよね?


 自炊という同人用語があります。同志の声が聞こえないから呼びかける為に拡声器(自作同人誌)を持っちゃったり、餓えに耐えかねて自分でゴハン(自作同人誌)を炊いちゃう人々のその行為を「自炊」と言います。


 元々誰かのファンというその層に向けて声をかければ、もう場合によっては喜び勇んでスキップしながら来てくれようというものです。ファンは常に餓えてますので。

 しかし、ファンでも何でもない、まったくの通りすがりの人の足を止める方法は、ファンに声を掛けてこちらへ来てもらうのとはまったく勝手が違うのです。


 私はこれから高低(ハイローのこと)の二次を書こうと思っています。高低は、作品そのもののファンと、EXILE TRIEBのファンのダブル、二重の層を持っています。この、バックボーンがあるか否か、これが二次とオリジナルの最たる違いです。


『幸せのサイクル』

 二次をやる場合、看板があるのでお客はガッツリその気です。読む気満々状態からの開始。ここが、あらゆるオリジナルと二次の違い、またTVドラマなどでも考慮される利点になっています。

 人気アイドルとかを起用してくるのはそういう点で、彼らのファンを当て込んでいるからですね。


 さて、二次を読もうという読者と、一次を読もうという読者ではハングリー度合いが違います。腹が減っている人間は文句を言う余力など残されていません。それが些細なことならなおさらです。装丁がどうとか文体がこうとかは気にしません。


 実は書き手の力量などよりよほどに大事な点があるのですね、作者が作中に込めた「原作への愛」に共感したいものなのです、二次創作は儀式に近いのです。

 同志がここに居る、私は一人じゃない!と胸中で雄叫びを上げる、炎を囲んで呪術を叫ぶ、それこそが究極の目的なのです。愛の報告会場です。


 壁サークルなど大手の、その作者さん自身もファンを持っているというようなケースなら、なおさらその相乗効果はすごいものがあります。入れ食い、フィーバー、文字通りのお祭り状態ですわ。


 人気のアイドルが演じるその役柄が、ピタリとハマって人気を呼び、その役柄や作品自体にまた新たなファンが付く、それを同人サークルたちが二次創作で作品にしてさらに人気を盛り上げる、これが理想的な末広がり幸せのサイクルです。


『幸せがあるなら不幸せも…』

 さて、幸せなマッチングは「役柄と役者さんとがピタリと合う」というところにありまして、もうイメージそのものだったらファンとしては喜びの舞です。


 しかし、そうそう幸せな出会いばかりではありません。また、人によって理想は違っていたりもします。そういう時、ハズレたファンは涙に暮れるわけです。これはもう仕方がありません、万民に文句の出ない解決など存在しませんので。


 これ、実写化に限った話ではありません。アニメ化でもゲーム化でも、絵柄や声や演出がファンの理想としていたカタチとは違っていた、なんて話はよくあります。

 それがまたファン心理の複雑なところでもあり、イメージと違ってしまったメディアミックスや、それで増えた新たなファンという層にも、微妙な反応を返すしかなくなってしまうわけですね。人間は難しいもんです。


 それとは別件に、二次創作から見習うべきが三つあり、嫌われる三大ネタというものは、オリジナルやエッセイの文章でもやはり嫌われます。


 褒めるために他者を貶す行為


 事実と異なる上に改悪


 興味もないくせに売名で利用



 事実と異なる上に改悪、といえばBL設定というものが最たるものでしょう。対の存在に夢小説があり、これも反対陣営から双方で改悪と呼び合っていたりします。

 しかしながら、個人の価値観は別の個人からすればまったく共感できないものだったりしますから、ファンと言っても、同じ作品内で派閥があるのは普通です。お互い、不干渉というか、不可侵条約でもって均衡を保っていたりします。(SWORDみたいっすね)


 ま、これは二次界隈の話ですので詳細は省きます。(二次のやりかたエッセイじゃないですんで)


『そのキャラの良さはまだ知られていない…』

 さてさて。二次だったら、登場人物の魅力というものはもう読者に改めて宣伝する必要はないというくらいに浸透した状態からの開始がほとんどです。


 オリジナルに移行した場合に、ここの感覚を新たにしてもらわないと、途端に困ることになってしまうのですね。そのキャラと読者は初対面です!


 考え方を完全に変えてほしいのです。二次での登場、冒頭の文章というものはそんなに気を張る必要もなく、気軽に構えていいものです。しかし、一次での冒頭箇所というものは、そこで読者が逃げてしまいかねないデッドゾーンなのです。


 キャラの魅力を伝えるのは話を進めるうちでいい、なんて考えてませんか?


 世界観や謎に興味を持ってもらうにしても、ぼちぼちでいいと、話を読んでいるうちにだんだん面白くなっていくから、なんて考えてしまいがちなのです、二次をやっていた作者さんは。これが落とし穴だったりします。


 路上のシンガーに喩えた通りですよ、読者はです。いつでも歩き出せる、通り過ぎるスタンバイがOKなのですよ!


 なので、二次創作のように、という読みは捨ててください。通りすがりなので立ち去るほうが早いのです。


 キャラの良さを描写するのに、どの程度の文字数を費やせばよいか、どこまで読ませることに成功したら魅力が伝わるか、この感覚が甘いと読者を逃がすのです。


 読者をより強く引き止めるには登場人物の魅力で繋ぎ止めるのが一番です。しかし、人物を魅力的と感じるためには相応にエピソードが重ねられねばなりません。


 ただエピソードが増えればいいわけではなく、共感を呼ばねばなりません。共感を呼ぶには箇条書きのような書き方では不足です。読者の感情を動かす書き方を覚えねばなりません。


 そこまでに至るまでの場繋ぎも必要です。読者がキャラに共感し、好感を抱いてくれるようになるまで、なんとしても読み続けてもらう、オリジナル一次創作というものは、そこが難しいのです。




 はい、昨日今日で書いたうちのボツ原稿10000文字弱、邪魔なんでマトメました。そのうち消します。ノシ

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虹の水を得たサカナたち 柿木まめ太 @greatmanta

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