第5話 殺してはいけない理由

前も述べた通り、この世の善悪は多数決で決まっている。殺人が罪なのも同様である。多くの人は、人の死に深い悲しみや恐怖を感じ、他人の死も自身の死も願ったりはしない。

ここで私には疑問が生まれた。自身の死を恐れるのは、生存本能からして至極当然のことだが、他人の死を恐れることの理由がわからないのだ。さらにいえば、牛や豚などの食料とされる動物の死にはとても鈍感で、同種である人の死においてのみ、過剰な反応を見せることだ。種の存続本能といってしまえばそれまでだが、生物の中でも人のそれは過敏すぎるように思えるのだ。それは、人のみが社会を形成する動物だからではだろうか。


この疑問を解決するために、また多数決社会理論が持ち出された。その自論の定義を詳しく説明すると、元々人は個々で存在し、個の利益を追求するもの。基本的に他人のことは考慮しない。それが、社会という母集団に属し、多数派の意見が良しとされ、皆にそれを刷り込まれていく。

この理論を前提として考えると、社会形成以前に、人には他人の死を慈しむ心は存在しなかったのではないかと思われる。個で存在していた時代ならば、他人のことなどに関心は持たない。他人が死のうが自身に損がない場合はなにも感じなかったのでは無いだろうか。

それが今では、尊く、またおどろおどろしものと一般認識されている。つまり、社会において他人の死は多くの人にとって都合の悪いものとされたのだ。何故か?人が死ぬことで社会の歯車が乱れるにしても、すぐ補填することは可能だろう。他から受ける被害などはたかが知れている。

私が出した最終的結論は、人は社会に属するうちにいくつもの錯覚に陥っているということだ。

順を追って説明すると、生物にとって最も都合が悪いものとは自身の死であり、社会が形成されると同時に、人は自身らの安全を確保しようとした。その結果、人同士で危害を加えることが禁止されたのだ。それが長く受け継がれるうちに、自身を守る名目で作られ、自己防衛の延長線上に存在するだけのそれが、独立し、後付け的理由で、他人の死は尊いものという認識が生まれたのだ。

社会に属するものはその錯覚に陥っていることに気づかない。初めから社会に属していなければそんな錯覚には陥らないのだ。例えば、古くから社会から断絶され、独自の文化を持つ民族の中には食人文化があり、彼らにとっては生きるためにとる当然の行動であった。彼らの形成するコミュニティ内では殺し合わないのは生きていく上での利害が一致しているだけであり、コミュニティ外の人を食べている彼らにとって人の死とは自然現象の1つでしか無いのだ。社会に属する人が、牛や豚を殺すのと何ら変わらない感覚である。

私達の社会にとって動物性タンパク質を効率よく摂取できる生物を殺し、食べることは、多くの個人に利があるのだ。そして長く社会が続いていくうちに、人の死と家畜の死は価値が違うものという錯覚に、また陥っていったのである。もし少しだけ、社会の形成が違えば、私達皆、菜食主義だったかもしれない。今の社会において動物愛護団体がそれほど幅を広げられないでいるのも、誤った感覚が社会に広がっているせいかもしれない。


結局、今私達の価値観は、全て社会から刷り込まれたものに過ぎないのではないだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

18 山お @kumahiroto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ