ふたつの一目惚れ
宮森 篠
読み切り
一目惚れとは、なんて不思議なものでしょう。
いままで恋をするというのは相手を深く知り、短くない時間を共に過ごした先にあるのだと信じて疑っていませんでした。
実際、わたしの両親も恋仲になるまでに長い時を経たのだと聞いてましたし、親友のヨミちゃんはもう8年も同じ人に焦がれています。
だからこそ、自分もそうなのだろうと。
「髪飾り、落としましたよ」
その日は小さな桜の形をした髪飾りをつけていて、そのサイズ故に落としたことに気づきませんでした。
そっと髪飾りがあった場所を触ると確かになにもついておらず、その声の主の方へ振り返ると――息を飲みました。
落ち着いた蒼の着物に、ほんの少しだけ茶を帯びた髪は真っ黒な瞳と対照的で、あまりに美しいと見惚れてしまいました。
すらりと長いのは身長だけでなく手足も同じく長くありましたが、きれいに纏まっておりました。女性であるわたしよりも間違いなく美しいもので作られた人でした。
あまりに返事をしないもので、その方は「あれ、違いましたか?」と不安そうな声で訪ねて来たところでハっとし我に戻りました。
「は、はい、間違いなくわたしのです」
「ああ、良かった。目の前で落ちたから君のものだと、変に確信してしまっていたんだ」
そっとわたしの手の中に返された髪飾り。
「傷はついてなさそうだから、どうか大事に」
「あ、ありがとうございます!」
その方はひとつ、頭を小さく下げ、何事もなかったように足を進めました。
ああ、なんて美しい方でしょう。動作ひとつひとつが神様すら見惚れてしまうのではないでしょうか。
拾ってくれた髪飾りをあるべき場所へ飾り、わたしはしばらく頬を赤くしていたのです。
***
名前も年齢も、住んでいる場所もなにひとつわからないまま想いだけは膨らみました。
わかるのは180はあるでしょう背丈と、少し茶を帯びた髪色、真っ黒な瞳。きっと一目見たら忘れることのできない美しさ。
声は穏やかで低すぎず、まるで雪の結晶のように透き通り綺麗でした。あの方は青が似合う、いいえ、きっと落ちついた色なら何色だって。
そんなふうに想いを重ねていると、飼い猫のサクラが間延びした鳴き声を上げました。
「あら……ふふ、桜の花をつけてきたのね」
にゃあお、と自慢するように出された声は褒美を強請るようで、そっと首元を撫でました。それが嬉しくてしょうがないのかすっかりその場に座り込んでしまったのです。
せっかくだから花びらを中に入れた栞でも、と思った矢先、春風が小さな淡いそれをどこか遠くまで運んでしまいました。ああ、残念だと思うわたしをよそにサクラはちっとも気にしていないようでなんだか笑ってしまったのです。
風に持っていかれたのなら自分で拾いに行くしかないと思い立ち上がると、サクラは再び庭の外へと姿を消してしまいました。
靴を履き、春の甘い香りを肺いっぱいに楽しんでから近くの桜並木へと足を運びました。お隣の娘さんがとても桜がいっぱいで楽しかったからまた行きたいと言っていた事を思い出し、少し目をあちらこちらへ向けるも今はいないようでした。
風が吹き、枝が揺れる。すると茶色の地面が瞬く間に可愛らしい桃色へと変わります。春はなんて甘く美しいのでしょう。冷たく、生物が鎮まる冬を越えるとこんなに素晴らしい景色を作り出してくれる。自然とはなんて不思議でしょう。
選び放題の桜の花びら――もちろん、地面に落ちたものです――を眺めていると見慣れた黒色と、見慣れない緑の着物が視界に入りました。
きっとあの黒はサクラでしょう。右足だけ少し白が混ざっているので、きっと間違いありません。ですが、サクラを撫でている方は……ああ、そんなまさか。
神様が大事に大事に作り上げたとした思えないその美しさは見間違えのしようがありません。
「あれ、君は……先日の」
その方はサクラを撫でていた手を離し、腰を上げるとやはりそうでした。
「はい……髪飾りを拾っていただいたもの、です」
急に心臓がはやくなり、頬が熱くなりました。あまりに突然の事で、彼の目を見るなんてとてもできそうにありません。
きゅっと手を握り、ああ、どうしよう、あれほど聞きたいことがあったのになにも出てこないなんて。
「髪飾りは大丈夫だったかい?」
「は、はい! 傷もなく、汚れもありません」
「良かった。きっと大事なものだと思ったから」
「両親が16の誕生日にとくださったもので……拾っていただけてなかったら、きっとわたしとても困り果てていました」
確かに大事なものですが、どうして分かったのでしょう、と目線を左上に向けるとその方は「実はね」とその謎を口にしてくれました。
「それを作ったのは僕なんだ。とても時間をかけて、手間もかかったので少し値が張ってしまったのだけど。購入した方はそれでも娘へ贈るものだからと笑っていたんだ」
「え、ええっ。そうだったのですね……」
なんと奇妙な偶然でしょうか。一番お気に入りの髪飾りをこの方が作っていたなんて。
「大事にされてて、嬉しい。僕はね古都咲祐郎。この桜並木を越した先にある、小さなお店で髪飾りや鞄を作っているんだ。あ、女性の年齢を知っておいて教えないなんて失礼だね。歳は21になったばかりだよ」
これは夢でした、と言われてもおかしくないほど知りたかった事が聞く前に本人の口から花びらのように落ちてくるではありませんか。
あまりの出来事になにも言えないでいると「ごめんね。話し過ぎてしまったかな」と気を使わせてしまい、必死に頭を横に振りました。
「わ、わたしは佐倉ツバキと申します! 今は17になりました」
ヨミちゃんやほかの友人と話すときはこんなに言いよどんだり、言葉が少なくなったりしないのに、恋というのはここまで人を変えてしまう事に驚きました。
「ツバキさんだね。うん、覚えたよ」
聞きなれた名前なはずなのに、古都咲さんが口にして空気を揺らすだけでこんなにも特別なものに思えてしまいます。
ふと、ゴロゴロと甘えた様になにかがすり寄って来たので視線を落とすと案の定サクラでした。
「黒猫って忌み嫌う人が多いけど僕は好きだなぁ」
「わたしも、わたしもです。この猫……実は我が家の飼い猫で」
「え、そうなの? そっか、どうりで人なれしてるなって思ったんだ。名前は?」
わたしの緊張なんて知るわけがないサクラは地面に転がり風圧で舞った桜を取ろうと躍起になっています。
もう口がカラカラで、ずっと走っているような気がしてなりません。
「サクラと、申します。桜の木の下に捨てられていたのです」
「いまの時期にピッタリの名前だね。似合っているよ」
そういうと古都咲さんはしゃがみ込み、サクラへと手を伸ばします。そんなありふれた動作すら、惚けて目で追ってしまうのです。
「良かったら、時間あるときにでもお店に来て」
「あ、あのでもわたし、お金が……」
「買わなくてもいいよ。こうしてサクラの話……あ、黒猫の方だね。をしてくれれば。周りに猫が好きな人がいないんだ」
お店に人は来るし、ありがたい事に常連さんもいるけど、こんなに猫に話をできたのは初めてだと、どんな美術品にも勝るくらいの美しい笑みを浮かべられたら……わたしは断れるはずがないのです。
***
すっかり葉桜になってしまってもわたしは古都咲さんのお店にはいけないでいました。
お店の場所は母に聞いて、わたしも知っている道なので行こうと思えば迷う事なく行ける場所ではありました。……どうしても気持ちが追いつかないのです。
人に恋をするというのは、下手な運動よりもよっぽど疲れる事を知りました。
人に恋をするというのは、どんな風景や芸術よりも輝く事を知りました。
古都咲さんへ会うため、可愛い髪形を研究したり、次は言いよどまないように会話の練習をしたりしましたが、どうしても古都咲さん本人を目の前にすると考えるとその全部が降り積もった雪のようにまっさらになるのです。
もしかしたら、ただの大人の会話で「来てね」なんて言ったのかもしれませんし、本当に足を運んだら迷惑になってしまうのでは……。そう思うとどうしても怖くて仕方ないのです。
恋とは、人を臆病にさせてしまう事も、知りました。
「一人でなんて、そんな勇気は……」
だらしなく、畳の上に体を預けると染みの多い天井がまるでわたしを笑っているように感じました。
そこに朝ご飯を食べ終えたサクラが隣に寝そべり、食後を満喫しはじめて、本当に自由だなあと感心した所で「サクラも一緒なら、どうでしょうか」と考えが浮かんだのです。
きっと猫が好きというのは本当でしょうから、わたし1人でなくサクラも一緒なら迷惑にはならないはずです。
幸い、サクラはおとなしい性格で滅多な事がない限りは暴れたりしません。
「サクラ、ごめんね」
ひょいっと腕の中へサクラを入れると不思議そうな顔をしたあと、眠たそうにあくびをされました。
あとひと月もすれば緑がもっと鮮やかになり、雲は入道雲へと変わるでしょう。
古都咲さんと会った日からほぼひと月。風景は桃色から生命の力強さを感じる緑へと変化し、上着もいらないほど暖かくなりました。
20分程歩くと、小さくも可愛らしいお店が見えてきたので、自然と足が速くなりました。あんなに悩んでいたのが嘘のようにです。
それでも中へ入るときはおそるおそる、そっと。
「あのー……」
「はい……あ、ツバキさん。それにサクラも」
白を基調とした着物姿はその色も相まって眩しく感じて思わず目を細めました。お仕事着でしょうか、髪細工と刺繍が施されています。
サクラ、と呼ばれて腕の中で小さく鳴く声はいい加減解放してほしいと言われたように感じました。
「サクラ、おろしても大丈夫でしょうか?」
「うん、大丈夫だよ。棚にさえあがらなければ、どこ歩いても問題ないよ」
静かに地面へとおろすと隅の方へ行き、毛づくろいをはじめこちらを全く見ません。
「いつ来てくれるのかなって待っていたよ」
「ごめんなさい、その、遅くなりました」
古都咲さんに恋してて遅くなったなんて言えるはずもなく、どこか歯切れ悪く答えるも、古都咲さんは気にすることなくあたたかなお茶を用意してくれました。
「お客さんじゃなくて、話相手だから特別だよ」
「ありがとうございます……ちゃんと、ちゃんとお客さんとしても来ます!」
「はは、ありがとう。でもこうして来てくれて嬉しいよ」
隣に座って、お茶を飲んで、あまりの幸福に溺れて死んでしまいそうです。
相変わらず鼓動はいつもと比べ物にならないくらい早くて、こんなに近いと古都咲さんに聞こえるのでは、と思ってしまうほどです。
隣に腰をおろした古都咲さんは穏やかにいろいろな事を話してくれました。サクラはすっかり寝てしまって、古都咲さんは今日は撫でまわせないね、なんて笑っていました。
古都咲さんの小さなときの話では、端正な顔立ちに似合わずやんちゃでよく怪我をしていた事。
両親とは離れて暮らしていて、こちらには2年前から住んでいる事。
猫が好きで、特に黒猫が好きなのに誰も理解してくれなかった事。
手先が器用だったことと、モノづくりが好きでこんな店を開いてしまった事。
たくさん古都咲さんの事が知れて、それがほかでもない本人からの口で、お茶の味なんてわかないほどに緊張して、同時に満たされた時間でした。
間近で見るその瞳はどんな色より真っ暗なのに、温かさがあり、ずっと引き込まれました。
肌はなめらかで、怪我をよくしていたなんて信じられないくらい綺麗です。
髪は生れつきすこし茶を帯びていて、昔はこれで苦労したんだと笑っていました。
「っと、なんだかごめんね。僕ばかりが話し込んでしまった」
「いい、いいんです。わたしも楽しいですっ」
「そろそろお昼になるね。ツバキさんもそろそろ帰る?」
もうそんな時間になるのかと驚き、いままで生きてきた中で一番時間が進んだ気がしました。
さすがにこれ以上いてはご迷惑になると思い、帰る旨を伝えると古都咲さんはちょっと待ってね、と言い奥の部屋へ姿を消しました。
「はい、これ。来たら渡そうと思ったんだ」
桃色の布を開ければそこには桜と椿の形と色をした髪飾り。
「え、え、あの」
「ツバキさん、髪が長いし色もしっかりした黒だから似合うよ」
「いえ、あ、あの。わたし今、手持ちが」
「いいよ。それは商品じゃなくて、プレゼントだから」
「そんな……でも、申し訳ありません」
とても綺麗で、愛らしい。真っ赤な椿に淡い桃色の桜。飛び跳ねたいくらい嬉しいのと同時に、とても申し訳ない気持ちが押し寄せます。
時間をかけて作ったものに対価をお支払いしないなんて、そんな無礼すぎる事が――これ以上の幸せは身の丈にあっていないと思って――許されるはずがありません。
古都咲さんは少しだけ考えたあと、それじゃあと。
「また、こうして話し相手になってくれるかな」
「そんな、そんな事だけで……いいえ、ダメです」
「律儀だなあ。うーん……じゃあ、つぎに来るとき、おにぎりでも持ってきてくるかな。あとは髪飾りの使った感想とか、今日は僕がしゃべり過ぎて聞けなかったサクラの話をしてくれるとか」
全く納得はいきませんでしたがそれ以上は古都咲さんも受け入れず、僕がしたいから良いんだよ、の一点張りでした。
――古都咲さんが提案したことは全て、わたしにとっては幸福の山です。対価にはなりようがありませんでした。
せっかくだから、桜の髪飾りをつけてもいいかな、と言われ、二つ返事をするとまさかの古都咲さんが髪飾りを手に取りました。
「髪、どのくらいまであるの?」
「腰ほどまではあります」
「すごい。手入れも大変なのに、こんなに綺麗なんですごいね。はい、できたよ」
手鏡を渡されると真っ黒の髪にパッと愛らしさが生まれ、ああ、髪を伸ばしていて良かったと心底感じたのです。
「……うん、とっても似合ってる」
目を細めて、ずいぶんと優しい声で言うものですから収まりつつあった顔の熱が一気に駆け上がりました。
耳まで赤く染められているでしょう。それほどまで、古都咲さんの笑みはただわたし1人に向けられていました。
「本当に、ありがとうございます……!」
「いいよ、僕が満足したかっただけなんだ」
「今度来る際はおにぎりと言わず、お弁当をお持ちします」
「そんなに気を使わないで。でも、うん、楽しみにしてる僕がいるんだ」
最初と変わらず隅の方で寝てるサクラを抱き、お店の外へと出ると太陽がさんさんと生き物に生命を注いでいるようでした。
ご丁寧にお店の外まで見送りに来てくれた古都咲さん。この数時間でたくさんの古都咲さんを知れて、思いがけない髪飾りを頂いて、今のわたしは間違いなく世界で一番幸せな女の子です。
「気を付けてね」
「はい。あの、本当にありがとうございます」
「こちらこそ貰ってくれてありがとう。次はツバキさんの話を聞かせてね」
「とんでもないです! そうですね、次はわたしの話をさせてください。また、また来ますね!」
「うん、待ってるね」
そうして一度お辞儀をして、来た道を帰ります。
古都咲さんの見送りはずいぶんと丁寧で、きっとわたしが見えなくなるまで外にいてくれたのでしょう。とても、とても丁寧な方で、同じ道を歩いて来たはずなのに全然違う道に思えて仕方ありません。気持ちが変わると見慣れた景色すら変えてしまうのでしょう。足取りも軽くなりました。
お弁当はどんなものを入れよう、お魚は好きだと言っていたので、お魚をたくさん入れましょう。
恋は相手を深く知って多くの時間を共に過ごしてからするものだと思っていましたが、きっと恋の数だけ「恋」の仕方があって、そこに当たりハズレはないのでしょう。
次の桜が満開に咲き誇る頃、わたしは古都咲さんとどんな関係になっていて、どんな恋を重ねているのでしょうか。
それを知るのは恋の神様だけで、わたしは知り得ようがありません。ええ、でも。それでいいのです。
「人参をお花のように切ったら古都咲さん、喜んでくれるかな」
腕の中で退屈そうにしているサクラに問いかけると「にゃーお」と短く返事がかえってきて、それがまるで「勝手にしろ」と言われているようで全くその通りだと小さく笑ってしまいました。
「ごめんね、次は1人で行ってみるからね」
優しい風が髪を撫で、風もすっかり春の蜜の香りから新緑の青い香りに変化しました。
この風のように、優しい時間を古都咲さんと過ごせるようにと、欲張りなわたしは恋の神様へお願いしたのです。
ふたつの一目惚れ 宮森 篠 @miyamori_shino
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