第6話
「トリケラトプスは、みんな子どもなんです。ご存じでしたか」
トリケラトプスの鳴き声は続いている。その隙間から彼女の声が聞こえた、彼女はわたしに視線を向けている。
「トリケラトプスとよく似た、トロサウルスという恐竜がいるんです。長い間トリケラトプスとトロサウルスはよく似た別の種だと思われていたんですが、近年になってトリケラトプスはトロサウルスの幼年期の姿であると言う説が出てきました」
もしこの説が正しいのであれば、大人のトリケラトプスは存在しない、と彼女は言った。わたしは噎び泣くような声を上げる恐竜に視線を戻す。
ゆっくりと、目を閉じては開いた。
瞬きをする度、トリケラトプスの姿に二重写しになる影が見えた。それは荒れた部屋に一人で立ち尽くす高校生のわたしであり、生まれてしまったわたしの遠いきょうだいであり、生まれてこられなかった彼女の息子であり、今サキのお腹の中にいるわたしの姪であった。
わたしは震えた声で呟く。
「彼は、ずっと子どものままなんですか」
彼はどこにも行けず、大人になりきることもできず、ずっとここにいるというのか。独り言のようなわたしの問いかけに彼女は頷いた。
「そうです。でも、それで良いと思うんです」
恐竜の鳴き声は、誰にも届かない。
「そんなの、」
寂しいじゃないですか。悲しいじゃないですか、と続けようとしたけれど、声にならなかった。目を細めて、彼女はトリケラトプスを見上げる。
「それでも、彼はちゃんと生まれてきたから。生きているから。それは、正しいことだから」
彼女の右手は、ずっと空っぽの乳母車を押していた。
家に帰り着く頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。わたしは玄関を抜けて、まっすぐリヴィングに向かう。ソファにはいつものようにサキがいる。
「おかえり。今日は遅かったのね。お母さんは、」
まだ帰ってないよ、と言おうとしたサキがわたしの方を見て、大きく目を見開いた。ような気がした。
「リサ」
ソファから立ち上がり、彼女はわたしの顔を覗き込んだ。
「どうして、泣いてるの?」
問いかける声は懐かしい優しさに満ちている。一層、涙が零れた。
久しぶりにサキと向き合ったのに、彼女の顔がよく見えない。何も応えられないわたしの手を、サキはそっと握った。そのままソファの方へ戻る。並んで座って、わたしは子どものようにしゃくり上げながら泣いた。サキは何も聞かなかった。ただ、わたしが何か言うのを待っているようだった。
「寂しかったから」
口に出せなかった、たった数文字の言葉を吐き出す。ずっと寂しかったのだと。
「ごめんね」
ひとりにしてごめん、ごめんね、と、サキは何度も繰り返す。その度に、嗚咽が漏れた。わたしが泣き止むまで、ずっと背中を撫でてくれていた。
発作のような涙がようやく治まると、わたしは腫れた目で二年ぶりにまっすぐサキの顔を見た。母親の顔つきと言われて、彼女がどんどん知らない人のようになっていくと思っていたけれど、改めて見ればサキはサキのままだった。
「サキ」
泣きすぎてくたびれた声で、わたしは彼女の名前を呼ぶ。
「なに?」
「おなかさわってもいい?」
問いかけにサキは笑って頷き、わたしの右手をそっと自分の腹部に導いた。張り詰めた腹部はあたたかく、奥から微かに胎動が伝わる。ここにちゃんと新しい命があるのだと、今、ようやく実感した。
「お母さんになるんだね」
確かめるようにわたしは言う。そうだよ、とサキはわたしの右手に自分の右手を重ねた。
かつて彼女のために絵を描いていたわたしの右手だ。
「早く会いたいよ」
サキは目を細めてそう言った。
惰性で動かし続けていたこの右手はまだ動くだろうかと、わたしは考える。葬るためではなくて、生きているひとのために使えるだろうか。生まれてくる命のために、わたしは、絵が描けるだろうか。
本当は、考えるまでもなかった。
「絵を、描くよ」
迷いなく、はっきりとわたしは言った。サキの目を見る。やっとわたしは、二年前のあの部屋から出ることができる。そう思った。ずっと大人になろうとしていて、結局そんなものにはなりきれなかった。今だってまだ子どものまま、それでも、
「サキのために、サキが産む赤ちゃんのために描くよ」
もう一度、わたしは家族を描こうと思う。わたしの言葉に、今度はサキが顔を歪めた。
「ありがとう」
二人で顔を見合わせると、また涙が出てくる。
右手に伝わる二人分の体温が、あたたかかった。
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