第5話
わたしが朝起きる時間には、母はもう出勤している。わたしはサキのいるリヴィングを通らずに玄関を出て、大学に向かった。
大学は、別に好きでも嫌いでもない。高校までと変わりはなかった。わたしの行くべき場所であり、やるべきことが目の前にある場所だった。多少の取捨選択をしなければならないけれど、それでも与えられる情報を淡々と処理していれば一日が終わった。こうして四年間過ごしていく。一緒に授業を受け、学食で談笑をする友達がいればまあ充分だった。友人たちは、誰もわたしが絵を描くことを知らない。それはそれでいい。そうあってくれたらいい。わたしはこの場所に何も求めない。つまらないという感覚には何の意味もない。生きていくのなんて大体、つまらないこととかったるいことと、後悔を無視することの連続だ。
それでも気を抜けば、昨日の夢のことを思い出した。夢というのは人の深層心理をあらわすと言うけれど、あんなの深くもなんともない。ただのわたしの後悔と、理想がそのまま目の前にあらわれただけだ。もっとわかりにくかったらどんなに良かっただろう。あんなにストレートに刺されて、引きずらないわけがないのに。
授業が終わっても、まっすぐ家に帰る気にならなかった。サキの顔を見るのが億劫だ。わたしは誰もいなくなった教室でしばらくぼんやりしてから、ふと思い至って席を立った。
向かったのは、動物園だった。
空きコマ以外の時間にここに来るのははじめてだった。閉園三十分前の動物園はいつも以上に閑散としている。わたしは他の動物には目もくれず、まっすぐ最奥のトリケラトプスのコーナーに向かう。
自分があの偽物の恐竜に惹かれることを、時々不思議に思う。わたしは毎日のように動物園を訪ね、トリケラトプスの絵を描いては捨てる。もう何の物珍しさもないその姿を焼き付けるように見つめ、右手で刻み込んで最後に葬る。
十年前、トリケラトプスが公開されてすぐに、父はわたしとサキをつれて動物園を訪れた。当時十歳だったわたしはあのトリケラトプスが偽物であるということがわからず、遠い昔に滅んだはずの生き物が目の前に現れたことがただただ不思議だった。
――ずっと昔から、一頭だけ生き延びていたのさ。
そう言った父の声を、覚えている。人は声から忘れていくというのに、まだこんなにも鮮明だ。
――あの恐竜はね、遠い時間を越えてたったひとりになってもここにいたんだ。今はもう寂しくないよ。だって、ほら、ここにはこんなに人がいるんだ。もうひとりじゃないだろ。
あの日、父はわたしに嘘をついた。
もしかしたらあの時から、父はわたしたちに美しい面しか見せていなかったのかもしれない。純粋な子どもだったわたしはただそれを信じて、その美しい幸せはいつまでも終わらないと思っていた。
父の声を振り払い、わたしはトリケラトプスのことを思う。
そこは、今も寂しいだろう。鳴き声のひとつもあげられないで、この十年間みじめだっただろう。どうして生まれてきてしまったのだろう。どんな思いで彼は大人になったのだろう。
わたしは。
わたしはこの右手で、毎日何を葬っているのだろう。
喉の奥が熱かった。わたしは唇を噛んで、それで最奥のコーナーへ向かう足を止めることはない。傾いた夕日が鋭くわたしの目を刺す。視界にあらわれた柵の向こうにはいつものように、恐竜の姿があった。
そしてわたしは、いつもは誰もいないその場所に人影を認める。
そこには、トリケラトプスを見上げながら乳母車を押す女性がいた。
わたしは小さく息を飲んだ。まるで、昨日の夢が現実になってそのまま立ち現れているようだ。
「サキ」
わたしは足を止め、掠れた声で呟いた。
新品の乳母車のベッドの中はここから見えない。けれどそこには、わたしの姪の姿があるはずだ。
夢の中で会うことの能わなかった赤ん坊の姿が。
今も何を思えばいいのかわからない小さな命が。
あの夢と違うのは、過去の幻影の足音が聞こえないことだけだった。
そこではたと、我に返る。ここは現実で、夢ではない。
改めて見れば、乳母車を押しているのがサキではないことにすぐに気付いた。そこにいるのは、いつも標本館にいる事務員の女性だった。乳母車だってサキのものとはまったく別物だ。
息を吐き、止まっていた足を踏み出す。
わたしが近づいても、標本館の彼女はこちらを見なかった。彼女の目は柵の中を回り続けるトリケラトプスに釘付けになっている。その右手は、ゆったりと一定のペースで乳母車を揺らす。
わたしは彼女に倣って一度トリケラトプスの方に視線をやった。恐竜のつぶらな目と視線が合った、ような気がした。うつろな目だ。それだけは夢の中と同じで、わたしは思わず視線を落とす。ちょうど乳母車のベッドの中に目がいく。
そして、息を飲んだ。
ベッドにはやわらかそうな布団が敷かれていて、パステルカラーのタオルケットが重ねられていた。その上には、くまの顔が描かれたガラガラ、小さな靴下、スタイ、昨日彼女が手にしていた青いロンパースがある。けれど、赤ん坊の姿はどこにもなかった。
「あら」
そこでようやく、彼女はわたしの顔を見る。目が合った。
「こんにちは。こんなところでお会いするなんて」
彼女は確かに笑っていたけれど、大きく強調された瞳は泣きそうに潤んでいる。
見てはいけないものを見てしまったような気がした。ここからすぐに立ち去った方が良いと頭ではわかっているのに、足は固まったまま動かない。
戸惑いの表情を浮かべたまま立ち尽くすわたしを見て、彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。しばらくお互い何も言えないまま、トリケラトプスだけが素知らぬ顔で柵の中を歩いていた。
「……誕生日なんです」
しばらくして、沈黙を破ったのは彼女だった。いつもより更に掠れた声に、わたしは顔を上げる。彼女は自分の言葉に苦笑を漏らし、
「息子の。正確に言えば、誕生日になるはずの日、だったんです、今日」
そう言った。彼女は空っぽのベッドに視線を落として、右手で軽く乳母車を揺らした。
「流れてしまいました。もう、性別もわかっていたんですけどね。お腹の中で心臓が止まったんです。へその緒が首に絡まって」
静かな、わたしにしか聞こえないほどの声は、微かに震えている。わたしはショッピングモールにいた彼女を思い出す。赤ちゃん用の服を何枚も買っていた姿が脳裏に蘇る。
あのとき。
わたしは彼女に、母親になるのはどんな気持ちだったのかと聞いた。
その問いはどんなに残酷に彼女に響いただろう。そう思うと眩暈がした。後悔の波が押し寄せて膝を折りそうになる。けれどあの時彼女は、嬉しかったですよと即答したのだ。嬉しかったし、早く会いたいって、そればかり思っていました――彼女は、そう言っていた。本当はどこにもいないはずの男の子の服を手にして。
どんな思いだったのだろう。
わたしは奥歯を噛みしめたまま何も言えない。ふと、彼女の視線が揺らいだ。
「でも、流れるべくして流れた命だったのかもしれません」
わたしは「え?」と聞き返す。目を見開いた。そんな言葉が続くと思っていなかった。
「どうしてですか、そんな」
戸惑いが滲むわたしの声を遮るように、
「相手には――父親になるはずだった人には、他にご家庭があったので」
彼女は続ける。頭の中が真っ白になる。
「不倫相手だったんです」
とどめを刺すような言葉。胸の奥が悲鳴を上げるようにざわめいた。
白く染まった脳裏に浮かぶのは、あの日カッターナイフを突き立てた絵と、荒れた部屋だった。家族の終焉の風景。わたしは父を連れ去った女のことを思う。そしてわたしの家族を壊した、二人の間の子どものことに、顔も知らぬわたしのきょうだいに、わたしの思考は至った。その子は無事に産まれてきたと母から告げられた日、わたしは大人になろうとした。全部を飲み込もうとした。寂しさも不安もすべて。
思考の外側から、彼女の声が聞こえる。
「誰からも堕ろせと言われていました。でもわたしはそんな言葉を全部振り切って産もうとしていたんです。彼は彼の本当の家庭を捨てる気はないと言って、だから、本当にひとりで、ただただわたしは、頑なでした」
西日はその光の強さを徐々に失っていく。東の空が夜の気配に青ざめていた。影は長く伸びて地面に貼りつく。トリケラトプスは足を止めない。告白するように、彼女は吐露する。
「結局残ったのは、あの子が使うはずだったものばかりです。この乳母車もそう。持ち主を知らないまま、二年間変わらずわたしの側にありました。そしてわたしは今も、あの子のための服やおもちゃを買い続けています。これからもずっと変わらないと思います」
彼女は父の不倫相手ではない。それはわかっている。けれど胸のざわめきは止む気配がなかった。視界の端に柵の中を歩くトリケラトプスの姿が映っている。歩く姿は、サイによく似ていた。
わたしはまっすぐに彼女の顔を見る。そして、固く閉じていた口を開いた。
「間違っていたと、思いませんでしたか」
絞り出した声は、縋り付くようだった。わたしの家族を壊したのは彼女ではない。それはわかった。けれど、
「その子が生まれたら、誰かの大事なものが壊れると、思いませんでしたか」
聞きたかった。あなたは後悔していないのか。誰かの父を奪ったことを。望まれない子どもを作ったことを。そしてその子を産もうとしていたことを。
彼女は少し驚いた顔をして、けれどわたしから目をそらすことはしなかった。
「間違っていたと思います」
その目はずっと潤んでいたけれど、彼女は決して涙を流さない。一呼吸置いて、彼女は再び口を開く。
「でも、全てじゃありません。正しかったこともあります」
母親になるのは嬉しかったと言った、あの時と同じ迷いのない口調だった。
「何が、ですか」
「わたしがこの子に、会いたかったことだけは」
そして会えなかったことを今も寂しいと思うことは、間違っていないと思います。
きっぱりとそう言って、それから微かに彼女は笑った。
わたしは表情を歪める。こちらをまっすぐに見る彼女の優しい目が、ずっと見ていないサキのまなざしに似ていた。許せない、とは、もう思えなかった。
憎んだものや遠ざけたものはいくつもあった。沈黙と惰性で毎日を生きていた。同じ場所をただぐるぐる回るみたいに。飲み込んだものを吐き出す術を持たず、自分の感情をなかったものにして葬り続けて、それを間違っていたとは、思わない。けれどもう、声を上げて泣いてしまいたかった。
視界が滲んで、喉の奥が熱くなった、その時。
聞いたことのない、音が聞こえた。それは遠くから聞こえる警笛のようであり、押し殺した叫びのようでもある。そしてどこか、産声に似ていた。わたしは潤んだ目を見開き、顔を上げる。彼女も同じように顔を上げて、二人の視線はそのまま、トリケラトプスの方へ向いた。
トリケラトプスは立ち止まり、顔を上げて空を仰ぐ。鋭いくちばしを大きく開いていた。耳に届く音が彼の鳴き声だということに気付いた。呼び声だ、とわたしは思った。あれは応えを求める声だ。喉を枯らすような咆哮はあまりに寂しく響く。胸の奥を掴まれるようだった。
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