第4話

 わたしたちの母は兼業主婦で、大学病院の看護師として働いていた。幼い頃からの母の印象は「忙しい人」で、それは今も変わっていない。父は公務員で、家にいる時間が長かったのは母よりも父の方だった。わたしたち姉妹を外に連れ出すのも父だった。

 母には感謝しているけれど、この家族の結び目になっていたのはやはり父だったから、彼が家族を捨てればあっという間に家は壊れた。父が消え、サキが家を出たあと、母とわたしの二人暮らしがはじまった。けれど看護師長に昇進した彼女はそれまでよりも一層忙しくなったし、わたしも大学受験の準備を始めたからお互いが顔を合わせる時間はほとんどなかった。高校生にもなってさすがに寂しいと思うことはなかったけれど。

 母からメールで、父の不倫相手の子どもは無事に生まれたようだと聞かされた日のことを、今もまだ覚えている。

 わたしはメールの返信をすることもなく、残り物のカレーをレンジで温めながら、浅はかな感覚で「大人になる」ということを考えていた。大人になること。好きなことを諦めること、過去への執着を捨てること、時々不意に襲ってくる不安感を、見て見ぬ振りをすること。

 一人の食卓でテレビも付けず、わたしは黙々とカレーを口に運んだ。スプーンを置いて視線を移すと、メール画面を開いたまま放置された携帯電話が目に留まる。

 わたしは無意識のうちに電話帳を開き、「サキ」の名前を検索していた。電話番号が表示されている。通話ボタンを押そうとして、そこではたと我に返る。携帯の画面を閉じた。改めてスプーンを持ち、わたしは最後の一口を口に入れ、麦茶で流し込んだ。大人になるということを、考えていた。吐き出さないこと。すべて飲み込んで、涼しい顔をしていること。

 あの日のことを、今もまだ、覚えている。


    *


 サキは家にいる間、子育てに関する本を読んだり小さな靴下を編んだりしている。それは絵に描いたような母親像で、わたしはリヴィングのソファに座るそんな彼女の姿と、膨れあがる腹部を横目で見てから、自分の部屋に戻る。

 近所の奥さんが今日、「サキちゃんはお母さんの顔になってきたね」と言っていた。母親になると顔つきもかわるのだと。母親になったことのないわたしにはわからない。けれどサキは日に日に、知らない人のようになっていく。

 週末、母方の祖母からサキ宛に大きな荷物が届いた。受け取ったのはわたしだった。玄関先に置き去られた荷物を見てぼんやりしていると、お腹を抱えたサキがリヴィングからやってきた。

「あら、もう届いたの?」

 彼女は言う。荷物の内容を知っているようだった。わたしは段ボールの方に視線を投げたまま、これなに、とサキに問う。サキはガムテープを剥がしながら、

「乳母車」

 と短く答えた。

 箱の中から出てきたのは、かご状のベッドに四つの車輪がついた乳母車だった。日よけの蛇腹にはレースがあしらわれ、押し手の部分はアンティークを思わせる美しい曲線のデザインが施されていた。それは遠い異国の、全く別の時代に生まれた赤ん坊が使うもののように思えた。それほど、目に馴染みがなかった。わたしもサキも乳母車になど乗ったことはない。全く縁のないその道具を、サキはそっと撫でる。

「ベビーカーも買う予定なんだけど、乳母車が欲しくて」

 独り言のように彼女は言った。わたしはサキの顔を見ない。視線を落とせば視界の端に、サキのお腹が見える。もうすぐ生まれてくる、わたしの姪がそこにいる。正しい道筋で生まれてくる正しい子どもだ。誰からも望まれ、祝福され、美しい乳母車まで彼女の誕生を待っている。

 母親になるのはどんな気分なの。

 わたしはサキに尋ねようとする。けれど口は動かなかった。飲み込んだ言葉は喉の奥に落ちて、わたしはふと、どこかで生まれたはずの自分の弟だか妹だかのことを思う。父の子どもであり、知らない女の子どもである。わたしたちの家族を壊した命だ。間違ってできてしまった命だと、わたしは思っている。

 父がわたしたちを捨てた後、どこでどうしているのか知らない。もしかしたら、もう一人の子どもの父親をやっているのかもしれないし、すべてを捨てて一人でいるのかもしれない。

 母親になるのは、どんな気分なの。わたしは黙って、新品の乳母車に視線を落としている。聞こえない声で、ねえ、とサキに呼びかける。ねえ、サキは自分の弟か妹のことを考えたりしないの。自分の知らない場所で、誰かが同じように膨らんだお腹を撫でてわたしたちをバラバラにしたことを、思い出したりしないの。サキはわたしを置いて、どこまで遠くに行くの。言葉を飲み込み、わたしはただ乳母車を見つめていた。


 家にいることが落ち着かなくて、携帯と財布だけを持って家を出た。何となく人の多い場所に行きたくなって、バスに乗って一番近いショッピングモールへ向かう。

 週末のショッピングモールは学生や家族連れで賑わっていた。自分と全く無関係の人たちが楽しそうに買い物をしている姿は、何となくわたしを現実から乖離させてくれる気がして心地よかった。フードコートでチーズバーガーを食べて、文具店に入る。まっすぐクロッキー帳のコーナーへ歩いて行き、いつものA6サイズのものを手に取る。

 ここに来る度、絵を描くことは嫌いではないのだと確かめることができた。クロッキー帳のページが少なくなれば、わたしは迷わず新しいものを手に取る。どこに行くにも鞄の中にはこの小さな無地のノートがあり、それはわたしを形成する重要な要素だと自覚していた。

 しかしそれを惰性と呼ばれたら、わたしはきっと何も言えない。

 文具店のすぐ側には子ども服のテナントがいくつか並んでいた。わたしは真ん中の店でふと足を止める。店頭のラックには、女の子用の小さなロンパースが掛かっていた。かわいいウサギの刺繍とフリルで装飾されている。そっと触れると、生地は驚くほどやわらかい。無防備な赤ん坊のために作られた服だった。

 姪は、こんなかわいらしい服を何枚も持つことになるのだろうと思う。今朝の乳母車も、目の前の服も、わたしには何の実感もない。生まれてくる命に大してまだ、何を思えば良いのかまるでわからなかった。

 しばらくその場でぼんやりしていると、ふと視界の端に見知った姿が映った気がしてわたしは顔を上げる。すぐ側で、男の子用のベビー服を選ぶ女性が目に留まった。彼女は黒髪を後ろでひとつに束ね、色白で痩せた体躯をしていた。身体の細さと髪型のせいで、大きな瞳がやたらと強調されている。標本館の事務員の女性だと気付くまでに、そう長い時間はかからなかった。

 わたしの視線に気がついたのか、彼女はこちらを見た。彼女もわたしのことがわかったようで、「あら」と目を見開く。

「お買い物ですか?」

 騒がしいショッピングモールで、彼女の控えめな声は掻き消されてしまいそうだった。わたしは曖昧に頷いて、

「暇つぶしです」

 と、答える。彼女は別の店のビニール袋を既に手に提げている。微かに透けた袋には、やはり男の子用のベビー服が入っていた。

「お子さんがいらっしゃったんですね」

 わたしが顔を上げると、彼女はやわらかく笑った。

「何枚でも買ってしまうんです。可愛くて、つい」

 彼女の応えに、わたしは目尻を下げて頷いた。沈黙が流れる。このまま会釈をして別れるか少し迷ってから、結局わたしは途切れそうになる会話の糸を繋いだ。

「もうすぐ、姪が生まれるんです」

 なるべく明るい口調で告げると、彼女は「それはそれは。おめでとうございます」と、少し大きな声で言った。「血の繋がった赤ちゃんは、きっとびっくりするほど可愛いですよ」と、彼女は心から祝福するように続ける。ええ、と視線を落としながら笑った。

 それから、

「お母さんになるときって、どんな、気分でしたか」

 わたしは問う。語尾がほんの少し震えたような気がしたけれど、彼女は気付いていないようだった。彼女は自分の手中にある青い小さな服に視線を落とす。やわらかなその布をそっと撫でて、優しく目を細めた。

「嬉しかったですよ」

 迷いなく、彼女は答える。

「嬉しかったし、早く会いたいって、そればかり思っていました」

 わたしは、リヴィングのソファに座るサキの姿を思い出す。同じなのだろうと思った。ただ純粋に、サキは子どもに会うのを楽しみにしているのだろう。過去を引きずりながら戸惑って、立ち止まり続けているのはわたしだけだ。サキが日に日に遠ざかっていくのは、当然だった。

 黙ってしまったわたしを見て、標本館の彼女は少し首を傾げる。それに気付き、

「すみません。ありがとうございます」

 と、わたしは笑顔を作って見せる。会釈をして立ち去ろうとするわたしに、

「姪っ子さん、元気に産まれてこられるように祈っております」

 彼女はそう言って、優しく手を振ってくれた。


 その日の夜、夢を見た。

 わたしは夕暮れの動物園にいる。いつものようにクロッキー帳と鉛筆を携えて、トリケラトプスの柵の前に立ち尽くしている。すぐ側のベンチに腰掛けようとしたその時、わたしは視界の隅に乳母車を認めた。

 すっきりと痩せたサキが、乳母車を押して少し離れた場所からトリケラトプスを眺めている。彼女のいる場所は逆光になっていて表情までは窺うことができない。けれどわたしは、彼女が穏やかな、わたしが今まで見たこともないような優しい顔をしていることを知っている。

 サキは、わたしに気付かない。わたしもそこに立ったまま、彼女に近づくこともできない。トリケラトプスは柵の中をゆっくりと回る。同じ景色の中を、何度も。

 ふと、後ろから誰かが走ってくる気配がした。けれどわたしは振り返らず、ただぼんやりと恐竜の姿を見ていた。トリケラトプスの目が一瞬、わたしを捉える。視線が合った。こんなにきちんと彼の目を見たのはこれが初めてで、思ったよりも遥かに、その瞳はうつろだった。

「サキ」

 わたしの後ろから走ってきた誰かの、明るい声がした。彼女が誰なのかなんて振り返らなくてもわかっていたのだ。高校の制服を着た、十七歳のわたしだ。彼女はスカートを揺らしてわたしを追い抜いていく。サキは彼女の顔を見て手を振った。高校生のリサは乳母車の前で立ち止まり、かご状のベッドの中を覗き込んだ。わたしと同じ顔で無邪気に笑う。彼女は毎日絵筆を握っているはずの右手をそっと、ベッドの中に差し入れた。乳母車の中にいる姪の姿はわたしからは見えない。

 視線を逸らした。

 わたしは再び、トリケラトプスを見る。うつろな目。鏡を見ているようだなと思った。わたしもきっと同じ表情を浮かべている。

「どうして、こうなっちゃったんだろうね」

 聞こえない声で、わたしはトリケラトプスに問いかける。彼は応えない。当たり前だ。聞こえていない。聞こえていたって届きはしない。トリケラトプスはゆっくりと柵の中を回り始めた。しっぽを揺らし、地面を踏みしめて、時折転がっている胡桃をくちばしで砕く。いつもと同じように。彼はここからどこにも行けない。彼に行く場所なんてない。

 ねえ、と背を向けるトリケラトプスに向かって、わたしは口を開く。

「わたしは大人になりたかったよ」

 呟いた声に、一瞬、サキがこちらを見たような気がした。わたしは身をこわばらせる。けれどやっぱり彼女からはわたしが見えていないようで、すぐに乳母車に視線を落とした。

 姉妹の穏やかな笑い声が耳を刺す。もうひとりのわたしがクロッキー帳を取り出した。一枚たりともページが破られていない、綺麗なクロッキー帳。そこで、目が覚めた。

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