第3話

 辿っていた記憶が途切れる。

 目を開けると、西日の射す殺風景な部屋が目の前に広がっていた。わたしはベッドから起き上がり、デスクチェアに座る。机の上に投げ出されていたクロッキー帳を鞄の奥にしまった。

 あれからわたしの部屋には、極端にものが少なくなった。

 美大へ行こうなんて考えはいとも簡単に捨てた。志望校を今の大学に――あのトリケラトプスのいる動物園のすぐ側の大学に決めたのは、家から通える範囲にある大学が、ちょうどここしかなかったというだけの理由だ。別に何の他意もない。美しい思い出に縋る気もなければ、あの記憶をトラウマにする気もなかった。

 絵を描くことを辞める気もなかった。

 けれど「続けている」とは言いがたいのもわかっている。わたしが続けているのはクロッキー帳に線を描くことだけ。絵と呼ぶにはあまりに雑で拙い走り描きだ。一番好きだった、色をつける工程をわたしは一切しなくなった。そんな必要はもうないからだ。描いたものも何処にも残さない。誰かに見せる気もない。描いたページは破り捨てられ、クロッキー帳はどんどん痩せていく。そのうち骨と皮だけになって葬られる。

  

 サキは言葉通り、予定を変えることなく家を出て、無事に式を挙げた。

 あの荒れた部屋で話して以来、わたしはサキとも距離を置くようになっていた。サキが家に帰ってきて顔を合わせることがあっても、どこかぎくしゃくとして居心地が悪い。

 一度壊れたものは二度と元に戻らない。彼女は二度とわたしの絵のことを口にしなかったし、わたしはサキの顔をまっすぐに見なくなった。

 だから今、出産のために里帰りしたサキがいることに、息が詰まる。


    *


 動物園の入り口近くには、理学部が管理している標本館がある。わたしはトリケラトプスの柵の前で絵を描いた帰りに、よくこの標本館を訪れた。標本館は古いコンクリートの小さな建物だ。注意していなければ見逃してしまうほど存在感はなく、動物園に訪れる人の半分はこの建物の存在を知らないのではないかと思う。

 扉を開けると、視界の明度が一気に下がり、ひんやりとした空気が身を包んだ。

「こんにちは」

 扉のすぐ脇には事務室があって、いつも若い職員の女性がひとりでいる。彼女はわたしの姿を認めるとそっと笑って見せた。彼女の少し掠れた小さな声は、まるで誂えたかのようにこの建物によく馴染んだ。こんにちは、とわたしは応える。彼女と挨拶以外の言葉を交わしたことはないが、わたしがここを訪れる頻度の高さと他の学生の利用頻度の低さが手伝って、顔なじみになっていた。

 黒髪を後ろでひとつに束ねた彼女は、色白で痩せすぎている。身体の細さと髪型のせいで、大きな瞳がやたらと強調されている印象があった。わたしは会釈をして、事務室の前を通り過ぎる。

 標本館に、今日も客はわたししかいなかった。

 奥の展示室まで、廊下が続いている。壁際にラットの内臓やウサギの胎児、孵化する直前のニワトリの卵の中身、頭が二つある奇形の爬虫類などのホルマリン漬けが硝子ケースに入れられて陳列してある。太陽光が差さないように窓は暗幕で閉ざされ、頼りない蛍光灯の明かりだけがあたりを照らしていた。冷たい空気は淀み、微かに薬品のような匂いがした。

 展示室は小さなホールのようになっていて、動物の剥製標本と骨格標本を見ることができる。古い立て看板には「ヒトの骨格標本以外は全て本物です。お手を触れないようご注意ください」と書かれていた。部屋の中心には骨格標本が並んでいる。ネズミ、ウサギ、ニワトリ、ダチョウ、フラミンゴ、チンパンジー、ワニ、ペンギン、カバ、サイの頭部、バイソンの頭部、そしてヒトの骨格のレプリカだ。フラミンゴは片足で立ち、ダチョウは空を見上げるようにくちばしを上に向けている。チンパンジーは木にぶら下がり、人間のレプリカはこちらに手を振るように右手を挙げている。

 視線を壁際に移せば、キリンの首の剥製標本が壁に掛けられているのが目に入る。その下にはつぶらな瞳をしたツキノワグマの剥製と、羽根を大きく広げた美しいクジャクの剥製と、大きなリクガメの剥製が並んでいた。生きていれば、彼らが隣り合うことなど有り得なかっただろう。そんな、この場所の独特な雰囲気を気に入っていた。

 園内で生きている動物より、ここにいる動物のほうが種類が多い。わたしはぐるりと展示室を回り、サイの頭部の骨格標本の前で足を止める。

 トリケラトプスとサイは、よく似ている。

 鼻の部分の角や、身体のシルエットなどを見ても、ふたつの動物の共通点はとても多い。だが、サイとトリケラトプスは全く別の生き物だ。目の前の骨格標本に、角はない。サイの角は皮膚が硬化したものであって、骨ではないからだ。

 わたしはクロッキー帳を取り出して、サイの頭骨を描写しながら、大学の生物学の講義のことを思い返していた。

――恐竜は絶滅したのではなく、一部は哺乳類へ進化を遂げ、サイなどの祖先になったのではないのですか。

 そう、教授に質問した学生がいた。教授は穏やかな顔で、

――トリケラトプスとサイが似ていることは、もちろん単なる偶然ではありません。

 と、答えた。

――しかし、それは生命としての繋がりの必然性ではなく、生活環境がもたらした必然性です。トリケラトプスとサイは似た環境で生き残るために似たような道筋で進化をしたのでしょう。環境は生物の形を類似に導きます。トリケラトプスは、だからサイの先祖というわけではないのです。彼らは絶滅しました。残念ながら。

 教授の話を聴きながらわたしは――わたしだけでなく教室にいた学生のほとんどは、動物園のトリケラトプスのことを考えていた。トリケラトプスは絶滅した。それは正しい過去の認識だ。あの場所にいるあの生き物は、やはり間違えて生まれてきたのだ。

 わたしは今一度、目の前にあるサイの骨格標本を見つめる。

 この展示室にある骨格標本は、ヒトのもの以外全て本物だ。このサイもかつては生物だった。きちんと父親と母親から生まれ、どこかの動物園で一生を送ったのだろう。彼の(もしくは彼女の)子どもも、どこかの動物園にいるかもしれない。命は連鎖していく。

 クロッキー帳に描いたサイの骨格に、角を描き足してみる。それだけで、これはどこにも存在しない架空生物になる。馬鹿馬鹿しいなと思って、ページを破った。ページを破る度にリングは緩んで、裏表紙が取れかけている。

 近くにゴミ箱はないかと顔を上げると、ちょうど展示室の扉が開いた。音を立てることが許されないとでも言うように慎重に開けられた扉から、事務員の女性が滑り込んできた。目が合うと彼女は少し笑い、

「お邪魔します。すみません」

 と言って、展示室の隅にある掲示板に、理学部のシンポジウムのフライヤーを貼る。そのまま立ち去ろうとして、彼女はふとわたしの手元に目線を向けた。

「それ、クロッキー帳ですか?」

 彼女の言葉に目を見開く。わたしは話しかけられたことに驚き、そして、

「絵が、お好きなんですね」

 彼女が絵のことを話題に選んだことに、困惑していた。

「ええ、まあ」

 曖昧に笑い、破ったページを咄嗟に後ろに隠そうとする。その左手が鞄に当たって、ページが床に滑り落ちた。あっと思ってわたしが手を伸ばすより早く、彼女がそれを拾い上げる。どこにも存在しない架空生物の骨格。その走り描きを、彼女は見つめた。

「一角獣ですね」

 トリケラトプスみたい、と彼女は言った。わたしは何も言えず、ただほんやりと彼女の顔を見ていた。わたしの絵を見るやわらかなその表情に、一瞬だけサキが重なった。わたしは振り払うように視線を逸らす。

「勝手に見てごめんなさい」

 少し申し訳なさそうに、彼女はわたしにクロッキー帳のページを返す。わたしはどうにか笑顔を作って、それを受け取った。

「それでは、わたしは戻ります。失礼しました」

 彼女はそう言って、音もなく扉を開けた。わたしは控えめな隙間をすり抜けるようにして去っていく彼女の後ろ姿をぼんやりと見ていた。扉がゆっくりと閉まったとき、わたしは手の中のクロッキー帳のページを握りつぶした。

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