第2話
わたしには、二歳上の姉がいる。
子どもの頃から顔がよく似ていて背丈もあまり変わらなかったから、双子と間違えられることも少なくなかった。わたし自身、自分によく似たもう一人の女の子を「お姉ちゃん」と呼んだことは一度もなかったように思う。わたしは彼女のことを「サキ」と名前で呼んでいた。
授業を終えて家に帰ると、サキがリヴィングのソファに座ってテレビを見ていた。化粧もせずに呆けた顔をしていた彼女は少し驚いたように振り返り、わたしの顔を見てゆっくりと一度瞬きをした。わたしは視線を落とし、ただいま、と小さな声で言う。
「お帰り。早いのね」
「今日は四コマまでだったから……お母さんは、まだ仕事?」
「今日は遅くなるって。夕飯は昨日のカレーの残り」
サキの答えに、そう、とわたしは頷いた。落とした視線の先には彼女の腹部がある。妊娠七ヶ月を迎えた妊婦の腹部は、大きく膨らんで張り詰めていた。そこにもうひとつ、人間の身体が詰まっているということがまだ、わたしには信じられない。
「じゃあ、わたし課題があるから」
わたしはそれだけ言うと彼女の顔を見ることなく自分の部屋へ向かう。サキが応える声は聞こえなかった。自室のドアを開けて後ろ手に鍵を閉める。
サキが家にいることが、窮屈だと思った。
一度大きく深呼吸をして、わたしはそっと視線を上げた。わたしの部屋には、ものが極端に少ない。勉強机には電気スタンドが置かれているだけで、引き出しの中には筆記用具以外何も入っていない。隣の本棚には大学の授業に必要な本と、漫画本とCDが数枚。漫画とCDは新しいものを買うと古いものをすぐに売ってしまうから、いつもごく少数しか並んでいない。ほとんどの空間ががらんとしていた。
わたしは殺風景な机の上に鞄を下ろし、授業のレジュメと教科書を取り出す。それと一緒に痩せたクロッキー帳が滑り落ちた。拾い上げて、また息を吐く。机に向かう気が削がれてベッドに寝転んだ。横たわったまま目を閉じる。
ほんの少し、昔の話をしよう。
二年前、わたしとサキがまだ、仲の良い姉妹だった頃の話だ。
サキは二十歳になる年に、三つ年上の恋人と婚約をした。結婚のためにサキがこの家を出ていく準備を始めた当時、わたしは高校二年生だった。
毎日、絵ばかり描いていたのを覚えている。あの頃はこの部屋ももっと雑然としていて、自分が描いた絵や好きな画集で溢れかえっていた。
「秘密基地みたいね、リサの部屋は」
引っ越し前、わたしの部屋を訪れたサキは楽しそうな声でそう言った。彼女はベッドに座り、すぐそばの棚を見ている。棚には使い終わった古いスケッチブックやクロッキー帳が並んでいた。棚の上には額を付けた絵やカンヴァスが剥き出しになっている絵が飾られていたり、無造作に置かれたりしている。
わたしはベッドの脇にある勉強机の椅子に座って、サキの横顔を眺めている。
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ」
眉間に皺寄せたわたしを見てサキは一層愉快そうに笑い、棚の上に手を伸ばした。カンヴァスに描かれた小さな風景画を手に取る。それは、わたしがはじめて描いた油彩画だった。わたしたちが住む、この家の絵。全体的にぼんやりしているし、赤い屋根の色なんてくすんでいる。車を洗う父と、夜勤を終えて仕事から帰ってくる母、庭でままごとをする幼いサキとわたしの姿を描き込んだけれど、何だかモザイク模様のようになってしまっていた。
それでも、描いている間とても楽しかったので大切に取っていた。サキは少し笑って「いい絵ね」と言う。
「そう? 問題点だらけだよ」
「わたしにはわかんない。綺麗だよ。わたしリサの色使いが好きなの」
サキは恥ずかしげもなく言う。わたしはすっかり照れてしまい、
「そんなこというの、お父さんとサキくらい」
と、わざと口先を尖らせて応えた。サキは苦笑を漏らす。
「お父さん、リサは美大に行くもんだと思ってるよ」
「あのひと子どもの趣味に寛容すぎでしょ」
「いいじゃない。リサだってそのつもりなんでしょう」
サキの言葉に、わたしはふふと笑う。「受かるか知らないけどね」と続けた。サキはわたしの絵に視線を落としたまま、
「リサが好きなことできると良いな」
と、朗らかに言う。彼女の優しいまなざしがわたしの絵に注がれていることが、何だか幸せだと思った。わたしは彼女の表情を焼き付けるようにゆっくりと一度瞬きをして、口を開く。
「それ、お父さんにも言われたよ。好きなことしなって。お母さんとは俺が戦うからって」
「戦うって何」
「わかんないけど」
わたしの答えにサキは愉快そうに声を上げて笑う。それから息を吐くように、
「弱いくせにね」
と、続けた。わたしは少し視線を泳がせ、小さく頷く。
「弱いよね。泣いてたよ。昨日も」
「泣いてた?」
「サキが遠くに行くから」
わたしの言葉に、サキはまた苦笑を漏らすように目尻を下げた。そのまま彼女は、わたしの絵をもう一度見つめる。わたしたちの家。わたしの家族。わたしは、この絵を父が大層褒めてくれたことを思い出していた。
「遠くに行ったってずっとお父さんの子どもなのにね」
サキが、やけに落ち着いた優しい声で言った。
わたしは、想像する。ヴァージンロードを父と歩く彼女の姿を。
純白のドレスに身を包んだ彼女の、ベールに隠れたその横顔のことを。父の手から、彼女の手が離れていく瞬間、サキは笑うのだろうか。泣くのだろうか。
彼女は、笑う気がする。
「それでも、寂しいんだよ」
父は泣くだろう。わたしは俯く。
「わたしもそうだよ」
サキには聞こえないように、小さく呟いた。
わたしとサキと父は、時々三人でひとつのように行動していた。小さい頃、わたしとサキは何処に行くにも手を繋いで並んで歩いていた。その前には、決まって父の背中があった。たくさんのことを覚えている。朝早く起きて父の車に乗っていった海も、父が回した遊園地のコーヒーカップのスピードもサキの笑い声も、三人で人混みを抜けて見た、動物園のトリケラトプスも。
前をいく父を頂点に、わたしとサキを底辺にして線で結べば、いつも綺麗な三角形ができた。
わたしは、わたしの絵を見つめるサキの横顔を見ている。自分によく似た女の子。もうすぐ遠くに行くわたしの姉。視線を落とした彼女の長いまつげが影を作って、何だか一瞬泣いているように見えた。
「ねえ、リサ」
急にサキが顔を上げる。わたしはどきりとして目を見開いた。一拍遅れて、
「なに?」
と、応える。サキは目を細めてわたしを見ていた。
「餞別に絵をちょうだいよ」
そして、彼女はそう言った。
「新しい家に、リサの絵が欲しい」
喉の奥がぐっと熱くなった。それを誤魔化そうとして、誤魔化しきれずにわたしは泣き笑いのような変な顔で「わかった」と言った。
「サキのために描くよ」
わたしの言葉に、サキは目を細めて頷く。今までで一番良い絵を描こうと、わたしは思う。サキの新しい生活が幸せであるように祈る気持ちと、どうかわたしたちを忘れないで欲しいという気持ちを全部、一枚の絵に託そうと思った。
その気持ちに何の嘘も偽りもなかった。サキのためにカンヴァスと向き合うのは本当に楽しくて、あの絵を描いていたときがもしかしたら、わたしは一番幸せだったかもしれない。
けれど結局、サキのために描いていた絵は完成しなかった。
わたしが自分のスケッチブックと絵を全て捨てたのは、父が別の女性との間に子どもを作ったことを知ったからだった。相手の女性の顔は知らない。ただ、わたしやサキと大して変わらない年齢だと母から聞いた。父は必死に堕胎を勧めたが、彼女は頑なに産むと言ったらしい。
そのことが判明したのは、サキが引っ越すひと月前だった。彼女に渡す予定の絵はもう下塗りが終わっていて、今日から色を重ねる工程に入ろうと思っていて、でも、これ以上は描けないと、わたしは思った。
カンヴァスに描かれていたのは父の背中と、その後ろで手を繋いで歩く幼いわたしとサキの姿だった。下塗りの色はやわらかなオレンジで、それはあたたかな、過去の象徴だった。けれど今、目の前の線はただの歪みとなり、目の前の色はただのくすみとなり、わたしの目に、絵は絵として映らなくなった。
わたしは力任せにカンヴァスをカッターナイフで突き刺す。
カッターの刃が折れても構わず、何度も、何度も刺した。あんなに捨てがたかったはじめて描いた油彩画も執拗に切り裂いて捨てた。歯止めが利かなくなったわたしは、スケッチブックのページを全て千切って、父に買ってもらった画集のページを引き裂く。油彩用のペインティングナイフを机に何度も叩きつけて、水彩用の細い絵筆を折った。三十六色の色鉛筆を床にぶちまけて、大事にしていたクレヨンを全て砕いた。
自分の中の何かが、音を立てて崩れる気がしたのだ。それは世界の崩壊のようで、足場が酷くぐらついた。わたしは誤魔化すように、あるいはとどめを刺すように部屋を荒らす。大事にしていたものをすべて切り裂いて叩き割った。もう壊すものがないと気付いたとき、わたしはようやく我に返った。
荒れた部屋の真ん中に立ち尽くし、墓場みたいだと、思った。
「リサ」
部屋のドアを開けたサキが、疲れた顔でわたしの名前を呼んだ。彼女は部屋の惨状を見て、けれど何も言わなかった。
「お母さん、やっぱり離婚することに決めたって」
そう告げた彼女の視線が一点で止まる。その先にあるのが、ナイフで滅多刺しにされた絵だということにわたしは気付いていた。彼女の門出を祝うはずだった、そしてもう二度と修復することのできない絵だ。
「そう」
わたしは短く応える。それから、
「サキはどうするの」
と問いかけた。自分の声に何の感情もこもっていないことに少し驚いていた。サキは視線を上げる。能面のような表情で、わたしの目を見た。
「どうするって?」
「結婚」
父の裏切りが発覚して、両親が離婚して、こんな状況の中それでもサキは結婚するの。ひとりで、わたしたちを置いて、ここを出て行くの。わたしの言葉にサキは一瞬顔を歪め、それから吐き捨てるように笑った。彼女のこんな顔を今まで一度も見たことがなかった。
「するに決まってるじゃん。式だってちゃんと挙げるよ。でもあの人とヴァージンロードを歩く気はない」
はっきりと、サキは言う。
わたしは視線を落とした。やっぱりここは墓場だと思った。わたしたち家族の、子どもだったわたしの、墓場だ。
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