ネバーランドの標本
村谷由香里
第1話
大人のトリケラトプスは存在しない、と彼女は言った。
*
授業の空きコマを、わたしは決まって動物園で過ごす。
大学から歩いて五分程度、併設されていると言って過言ではない場所にその動物園はある。
園内はそれほど広くなく、動物の種類も決して多くない。入口を抜けるとまず鳥類の檻があって、ウサギ、モルモット、羊、山羊、馬、牛、豚とコーナーは続く。ゾウやキリンといった大型の動物はいない。サイやカバの姿もない。
この小さな動物園が特徴的なのは、最奥にトリケラトプスがいるという点だけだ。
ご存じだろう。白亜紀に栄えた恐竜の名前だ。
この動物園は、市と大学法人が提携して運営をしている。目玉であるトリケラトプスは、十年ほど前に理学部の古代生物研究チームがうっかり作り上げてしまったものだ。わたしは全くの門外漢だから詳しいことはわからないのだけれど、複数の動物の遺伝子を組み換えて作ったものらしい。
生命倫理を問われて当時は大きな問題になっていた。それはそうだろう。だが生まれてしまったトリケラトプスをなかったことにすることもできないということで、飼育環境が整っているこの動物園へ移すことになったそうだ。
あれだけ問題になったものを、開き直って見世物にしてしまった当時の学長は完全に頭がいかれているとしか思えない。しかしその話題性で動物園は一気に集客数を増やした。わたしはこの町で生まれ育ったから、十年前の動物園の盛況を何となく覚えている。
トリケラトプスはたくさんの人間の目にさらされることになったわけだが、別段ストレスを感じることもなかったのか、すくすく成長して今年十歳になった。
平日の動物園は、大学生で賑わっている。
学生証を見せれば無料で入園することができるから、暇を持て余した学生はここにやってくる。入学当初は物珍しかった巨大なトリケラトプスも見慣れてしまえばどうと言うこともないのか、可愛げのあるウサギやモルモットの方が人気である。
わたしはそれでも、いつもまっすぐ園の最奥に向かう。トリケラトプスのいる場所はとても静かだ。他には誰も見物客がいない。
わたしはベンチに腰掛け、A6サイズのクロッキー帳を鞄から取り出した。カッターナイフで軽く鉛筆を削り、目の前にいる生き物の輪郭線を、紙の上に写し取っていく。
トリケラトプスは、柵の中を徘徊している。背の高さはゾウとそれほど変わらないが、全長はゾウの三倍ほどになった、と、柵に掛けられた看板に記されていた。九メートルの巨体に比べると、設けられたスペースはあまりに手狭だった。それでも彼は窮屈そうにするわけでもなく、自分に与えられた場所で当たり前のように生活している。
わたしはたびたび顔を上げて、恐竜の姿を観察した。歩く姿はサイによく似ている。しっぽと頭部を揺らしながらゆっくりと進み、柵の内側を何周も回る。頭部は約半分がフリルと呼ばれる部分で、そこから二本の角が生えていた。鼻のあたりからも短い角が一本伸びている。皮膚はモザイク状の鱗に覆われている。触ったことはないけれど、石のように堅くざらざらした手触りなのだろうと想像する。トリケラトプスは時折木の葉を食み、飼育員さんが地面に転がした胡桃をくちばしで拾い上げて食べる。あごの力は強いようで、いとも簡単に堅い胡桃の殻を噛み砕いた。
そんな様子を眺めながら、わたしは右手を絶えず動かしていた。フリルの美しい曲線と、角の鋭い質感、たくましい四肢とまっすぐ伸びたしっぽを描く。想像していたよりも遥かにつぶらな瞳、つるりとしたくちばし、鎧のような皮膚――。
時折、この部分はどの動物の遺伝子に由来しているのだろうという思考が脳裏を過ぎる。
目の前で完成しているこの生き物は、実際たくさんの動物の要素をかき集めた偽物に過ぎない。間違えて作られた生命体だ。その事実を、わたしははたと思い出す。鉛筆を握る手が止まった。当のトリケラトプスはそんなわたしの思考など知る由もなく、またがりりと音を立てて胡桃を食べる。
トリケラトプスのいる場所は、とても静かだ。
その印象は、何度ここを訪れても変わらない。ここに来るのが何回目なのか自分でも把握していないけれど、わたしはトリケラトプスが声を上げる瞬間を一度も見たことがない。声を発する機能が備わっていないというわけではなく、ただ、声を発する必要性がないというだけなのだろう。彼の声を聞き届ける仲間は世界に一頭もいないのだから。
わたしは少し俯き、自分の絵に視線を落とした。まあこんなところだろうと、鉛筆をペンケースにしまう。それからわたしは描き終わったページを破って、すぐ側のゴミ箱に捨てた。
気付けばクロッキー帳はどんどん痩せて、リングの穴が剥き出しになり歪んでいる。いつもの使い方だった。最後のページまで使い切れば、わたしは表紙の厚紙から歪んだ針金を外し、全てゴミ箱に捨てる。後には、何も残らない。
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