⑪ 内なる声と声
くぐもった声で、誰かが僕の名前を呼んでいる。
最初、それが僕の名前であることに全く気付かなかった――僕の名前を呼ぶ人なんて、ずっといなかったから。燈火ですら、僕のことは「あなた」と呼ぶ。
「おい……おい……目を覚ませ。いつまで眠っているつもりだ……」
次第に声はクリアになり、鮮明に僕の鼓膜を突いた。地の底から湧き上がるような、腹の底から絞り出すような低い声だった。
僕はその声の正体を確かめようとしたが――諦めた。そこは僕の知っている世界ではなかった。
混沌。夢のように無秩序。強いて言えば――無限に続く暗闇。その中で点滅する紅い色。どこでもあって、どこでもない。そんな場所に引きずり込まれたのだと、僕は瞬時に理解した。
「お前は誰だ」
試しに声を出してみると、混沌に僕の声が広がった。すると、その空間がぐしゃりと笑ったような気がした。
「誰だ、などとつれないことを言うな。儂とお前は生まれた時から一心同体――いや、生まれる前から深く結びついておるではないか――血と血で出来た鎖、二重螺旋、運命の
混沌から、
白眼、角、逆立った髪の毛、縄のように浮き上がる血管、筋肉――そして、躍動する殺意。
僕は本能的に理解した。
「お前が――羅刹か」
「如何にも。――儂自身の名前を耳にするのは久しいな。グフフフ……」
羅刹の残滓は、酔いしれるように笑った。
「僕をこんなところに引きずり込んで、何の用だ」
「何の用も何も――深い眠りから目覚めてみれば、お主随分と楽しいことに巻きこまれているようじゃからな。儂も混ぜてほしくなった。どうじゃ? その体、しばし儂に貸してみんか?」
「……断る」
僕は即答していた。羅刹の残滓から発せられる邪悪と関わってはいけないと、本能が察していた。きっと一度でも体を貸せば、羅刹は僕の体を乗っ取るだろう。そんな予感があった。
「つれない奴じゃのう。……しかし、つまらん意地を張っている場合か?」
「なに?」
「気付いてないようだから教えてやろう。お主はな、いま死にかけておるんじゃよ――ひょうきん丸と言ったかの。奴によって、心臓に豆を撃ち込まれたせいでな」
「ま、豆……?」
「左様。だが、ただの豆じゃあない。ご丁寧に神前で儀式を施され、祝福を授かった聖なる豆じゃ。そんなものを心臓に打ち込まれてみろ。大抵の鬼ならたちまち滅せられてしまう」
遅ればせながら、僕はようやくその本質を理解する。
理解するも何も、読んで字の如くに過ぎないのだが。
「かの銃は邪気払いにして鬼殺し――そのために存在する逸品よ。一度その力を目にしておきながら、正体を見抜けぬお主の迂闊。なんと情けないことか」
「うるさい、黙れ」
羅刹はわざと、僕の動揺を誘うような言葉を選んでいる。
惑わされるな。
心の隙を見せれば最後――羅刹は容赦なく、僕を乗っ取ろうとするだろう。
「ククク、そう怒るでない。……今、お主の体は、刻々と死に向かっておる。どうやら儂以外の何者かの力も働いておるようだが――その力も徐々に弱まりつつある。このままでは、お主は死ぬ。このままではな」
死ぬ。
僕が死ぬということは、魂を共有している燈火もただでは済まされない。
それだけは――避けなければいけない。
しかし、羅刹の残滓に身を任せるのも危険。
「グフフフ、グフフフ、グフ、グフフフフフフフフフフフフフフフフ」
「……」
選択肢は二つに一つ。
羅刹に身を委ねるか。
何もせずにこのまま死ぬか。
「……燈火」
呼びかけても返事はなく、僕の声は混沌に吸い込まれて消えた。
燈火――
もしここに彼女がいたら、どんな風に笑うだろう。
殺してくれてありがとうございます、なんて言う女の子は、この局面でどう笑う?
きっと自分が死ぬことになっても、彼女は「残念でした」と言いながら、微笑んで死んでいくだろう。
そんな終わり方が許されるのか?
僕は、それでいいのか?
否――
そんな光景を見るくらいなら、僕の生きる意味など何処にもない。
「……分かった」
羅刹の残滓が、血走った眼をこちらに向けた。
「それはつまり……お前の体を借りてもよいということか?」
「ああ。背に腹は代えられない」
「グフ、グフ、グフフフフ、ッフフ、ウフフフフフフフフ」
羅刹の残滓が。混沌が。僕に向かって手を伸ばす。
「安心せい。儂の力、その全てを開放すれば、豆の呪縛など糸の拘束程度に過ぎん。あの餓鬼も瞬く間に捻り潰そうぞ。何、儂の拳が触れようものなら、たちまち血飛沫となって爆散しよう。安心せい、悪いようにはせん。お主は正しい判断をした。実に賢明、賢明――」
そしていよいよ、混沌が僕の肩を掴んだその時。
「ならぬ」
と。
誰かが、僕の耳元で囁いた。
次の瞬間、眩いほどの光が差し、闇が消え去った。すぐ傍まで迫っていた混沌は霧散し、無秩序は朽ち果てた。
その光は僕の知らない世界の出来事で――つまりどこでもあって、どこでもなかった。
不思議と、その光に嫌悪感を覚えることはなかった。
「鬼の誘惑に負けてはいかん。奴は宿主の人格を食い殺し、
その声がする方向を見ると、光の中心に白装束の女性が立っていた。
凛、と音がしそうなほどに真っ直ぐ、背筋を伸ばして。
風もないのに黒髪が、そよ、となびく。
自信に満ちた笑みを浮かべた彼女は、真っ直ぐに僕を見据えていた。
僕は不意にひょうきん丸の言葉を思い出した。
『――結局、阿倍野 晴禍は自らの命と肉体を依代に、羅刹を坂上田村麻呂の内に封印した――』
依代――つまり、阿倍野自身が楔の役割を果たし、羅刹を繋ぎとめているということ。
そうか――どうしてもっと早く思い至らなかった。
吸血鬼の血が僕の中に眠る鬼を復活させているなら、鬼と同時に、太古の陰陽師のDNAも復活しているということ。
光の中で佇む白装束が、僕に語り掛けた。
「余は
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