第四章 決戦、ひょうきん丸狂死郎

① 追憶――かつての僕の人間関係

 高校三年生の十二月に、僕は全てを台無しにした。


 それまでは、概ね普通の高校生活を送っていた。ただ、一般的な高校生と比べると一人の時間が圧倒的に多かった。


 高校生活ならぬ、孤高生活。


 恰好を付けていたわけでも、他人を見下していたわけでもない。

 ただ単に、「人付き合い」が分からなかった。


 小学生の頃からずっと一人暮らしだったから、孤独に慣れ過ぎていたのだろう。

 それは僕にとって普通だったし、寂しさを覚えることもなかった。


 むしろ、集団の中にいる時こそ寂しさを覚えた。


 クラスメイトは優しい人ばかりだった。斜に構えた気に食わない奴だ、と言われることも、いじめの標的にされることもなかった。


 みんな「一人でいるのが好き」という僕の個性を容認してくれていた。


 ――たった一人を除いては。


 そう。

 たった一人だけ、僕に突っかかってくる変な奴がいたのだ。


 日宮ひより。


 眼鏡をかけ、艶のある黒髪を垂れ提げた淑やかな姿は、黙っていれば深窓の令嬢に相応しい。


 そんな見た目からは想像もできないほど、底抜けに明るくて、誰よりも優しくて、とにかく行動力のある女の子だった。


 物事の本質を見抜くのが異様に早く、なのに成績は下から数えた方が早かった。それすらも、彼女の愛嬌となっていた。


 日宮は周囲のクラスメイトと比べて、異様に大人びていた。高校生とは思えないほど落ち着いていた。時折、影のある表情を浮かべていた。それが印象的だった。後輩から告白された回数は数知れず、教師すらも彼女に憧れているなんて噂すら流れていた。


 そんな誰からも好かれる女の子が――どうして僕に付き纏うのか。

 きっと、誰もが不思議に思っていたことだろう。


 かたやクラスの人気者、かたやクラスの傾奇者。

 ――正直なところ、傾奇者であるところの僕に、日宮が興味を惹かれた理由

など、最後まで僕には分からなかった。

 

 いつだったか、一度日宮に訊ねたことがある。

「どうして僕に付き纏うのか」と。



 悩んだ末に、彼女は答えた。


「なんというか、君と一緒にいると安心するんだよ。きっと、本質的なところが似通っているんだろうな――それが何なのか、私には分からないけどね」


 日宮は自嘲的な笑みを浮かべていた。諦観と後悔に満ちた、陰のある表情だった。


「……変な話だけど、私は時々、自分が誰なのか分からなくなるんだ。じゃあ、それが何に起因するのかと言えば――分からないんだよね。私は、私のことがよく分からない。それが怖い――だけど君と一緒に居る時だけは、そんな不安を忘れることができる。たぶん君は、私と同じものを見ているんだろうね。そんな風に思うのは、私だけかな――」


 なんてね、と日宮は笑った。


「しかしそう考えると、君は本当に優しいよね」


「優しい? 僕が?」


「そうだよ。こんな訳の分からない話も黙って聞いてくれるし、しつこく付き纏ってるのに文句の一つも漏らさない。単に器が大きいのか、何事にも無関心なのか――どちらにしても、。私は君の優しさに、付けこんでいるとも言えなくない――迷惑かな?」


 迷惑だとは思わなかった。

 むしろ日宮と似たような感情を、僕も抱いていた。


 日宮と一緒にいるときは自然でいられた。窮屈さを覚えることも、寂しさを覚えることもなかった。それは――考えてみてば、不思議な話だったのだ。不可解、ともいえる。


 本質的なところが似通っている。

 その表現は、僕の中にすとんと落ちた。


 だから、僕は。


「……別に、迷惑だなんて思ってないよ」


 そういうと、日宮は「そっか。正直でよろしい」と言って笑った。

 物憂げな表情は、いつの間にか消え去っていた。


 それが僕と日宮の間で交わされた、唯一の真面目な会話だったと記憶している。後はほとんど、ふざけた会話ばかりしていた。


 何もかもが終わった後――

 僕は、どれだけ日宮に支えられていたか思い知った。 


 虚しさに心を食い尽くされず、日々の退屈に押しつぶされつこともなく、どうにか高校生活を送ってこれたのは――日宮が傍に居てくれたからだ。


 二年間かけて、ようやく気が付いた。


 青春と呼ぶにはあまりにも灰色に近い日々だったけど、決して戻りたいとは思わないけど、それでも確かに輝いていた。


 思い返せば――楽しい毎日だった。


 そんな日常を、僕が台無しにした。


 殺傷症候群。他人を傷つけずにはいられない、原因不明の症状。


 センター試験も間近に迫った十二月。


 気が付くと、僕は血に染まった教室に立たされ、茫然と立ち尽くしていた。

 見慣れた風景は地獄と化し、聞こえるのは呻き声だけだった。


 その地獄に――日宮もいた。


 お腹を真っ赤に染めて、血だまりの中にぐったりと横たわる日宮の姿。口からは、ぼたぼたと血が零れている。


 僕の手には割れた眼鏡が握られていた。


 その瞬間――僕の中で何かが壊れてしまった。

 未だに僕は、その「何か」を上手く言葉で表現できないが――しかし、一度壊れた以上、二度と元に戻らないものであることは確かだった。


 以来、僕は誓った。

 二度と誰も傷つけない。ましてや、誰かを殺すことがあってはならないと。


 どうしようもない自分だが、そんな誓いを護り続ければ、いつか許される日が来ると信じたかった。


 僕に縋れるものはそれしかなかった。


「君は本当に優しいよね」という日宮の言葉が、ずっと胸の奥に刺さり続けている。


 僕は、彼女を嘘つきにしたくなかった。


 本当の優しい人になろうと思った。

 日宮に向かって、堂々と誇れるくらい優しい人間に。


 ――彼女に会うことは、もうないだろう。


 取り返しの付かないほどに、関係性は破綻した。


 今や僕に、彼女のことを想う資格はない。

 そんな立場の人間じゃあない。

 

 それでも――

 それでもたまに、考えてしまう。


 もしあの時、殺傷症候群に罹らなければ――


 もしあの時、日宮を傷つけることが無ければ――


 もし日宮が、今も僕の隣にいてくれたら。


 在りもしない「もし」を何度並べて、後悔したか分からない。


 僕はずっと、僕自身の事が怖かった。

 

 燈火と出会ってからも。

 心の片隅には、いつも正体不明の自分に対する困惑があった。

 焦燥があった。

 疑念があった。

 不安があった。


 ――だけど、それももう終わりだ。


「さぁ、種明かしの時間と行こうじゃねぇか」


 ひょうきん丸の楽しそうな声が、僕を空想の時間から引きはがす。


 殺傷症候群。

 その謎が、いま明らかになろうとしている。


 ……正直に話そう。


 僕はこの期に及んで、まだ自分が「普通の人間」である可能性を見捨てられなかった。


 否定できない――それだけは。


 在りもしない、もしもの日々を思うなら。



 その時僕は、「自分がただの人間だったらいいのに」なんて思ってしまった。


 そんなこと、あるはずがないのに。

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