⑤ 舞い降りた副隊長
くぐもった声が僕を呼んだ。確かにそれは僕の名前だった。
目を開けた先に広がっていたのは、無秩序の世界だった。
ここにない世界。だけど僕だけが知っている世界。
混沌。際限のない暗闇と、明滅する真紅に覆われた深淵の果て。
そんな深淵の果てから――ぼんやりと、形のない腕が浮かび上がる。
それはぼんやりとしたシルエットで浮かぶ影に過ぎないのに――
不思議な話だが、僕はそれを腕だと認識していた。
形のない腕は、ゆっくりと僕に向かってくる。
来ることは分かっている。緩慢な動きだ。回避することは造作もない。
なのに――逃げることはできない。
立ち向かう事すらできない。
動け。動け。いくら命じても、僕の体は動かない。
そうか――
この体は最初から僕のものではなかったのだ。
だとすれば、動く方がどうにかしている――と。
そう理解したとき、形のない腕は、僕の心臓をゆっくりと貫いていた。
それは、夢にしてはあまりにも生々しく――
この世のものとは思えないほどゾッとする冷たさだった。
※
胸に激痛を覚えて、僕は飛び起きた。
痛みの先に視線を向けると――そこには縫合の跡があった。胸の中心からへそまで真っ直ぐに走る線。どうやら痛みの正体はこれらしい。
僕は、深く息を吸い、そして吐いた。
なんだか、とんでもない悪夢を見たような気がする。はっきりとは思い出せないが、とても不吉な夢だった。
……どうしてそんな夢を見たのだろう?
案外、メイデンに飲まされた紅茶が原因かもしれない。鈍い頭痛がするのもそのせいだと考えると、いくらか気は紛れた。
何度か深く呼吸する内に、冷静な思考力が戻ってきた。
僕は現状を把握するべく、視線を周囲に巡らせた。
全てが石で覆われている牢獄のような空間。どうやら、ここは僕が最初に運ばれてきた場所のようだ。
僕の隣では、燈火が寝息を立てて転がっている。
……正直、彼女の無事を確認してかなり安心した。
いつの間にか、僕の手を拘束していたピンクの色の枷は外れていた。
これでいくらか動きやすくなった。
……と思ったのも束の間。
「おはようございます」
天井から、少女の声が降り注ぐ。
慌てて天井に視線を向けると、そこには――
メイド服姿の少女が、ゴキブリみたいな恰好で天井に張り付いていた。
「……えっと」
どこから突っ込めばいいのだろう。
「……そんな体勢だと、パンツが見えますよ」
「ご自由にどうぞ。見られて困るものではありませんから」
僕の失言も淡々と受け流し、音もなく天井から降り立つメイドさん。
琥珀の瞳に、鉄の籠手。
どうやら彼女は、ひょうきん丸の執務室で紅茶を飲ませてくれた少女のようだった。
確か――メイデンと呼ばれていたか。
「……えっと、あなたは」
「自己紹介が遅れました。私は秘密結社十字軍、空架町支部、第三遊撃部隊、副隊長――名前を、アイアン・メイデンと申します。以後、お見知りおきを」
名乗り終えると、メイデンは礼儀よくお辞儀した。
――こんな
そういえば、ひょうきん丸も彼女をそう呼んでいる場面があった。あれはどうやら冗談やフェイクの類ではなかったらしい。
つまり、こんな可愛い見た目をしていても油断は出来ないということ。
音もなく天井から着地するほどの身軽さ、そして気配を消す技能――
彼女が只の人間でないことは、既に明白である。
「そうですね。油断も隙もありません。まさか私という女が在りながら、他所の女を可愛いなどと……」
いつの間にか目を覚ましたらしい燈火が、欠伸混じりにそう言った。
「大体あざとすぎるんですよ。メイド服、敬語、淡々とした口調……こういうお淑やかな女性、男に好かれないわけがないんです。あなたそういう女に騙される平々凡々な男に過ぎなかったというわけですか」
一体何の話をしているんだ。緊張感を忘れてしまうからやめてほしい。
「しかし――可愛いからといって手心を加える理由にはなりませんよ、あなた。彼女は十字軍、それも遊撃部隊の副隊長を務めるほどの人間です。油断していれば、きっと痛い目に遭います」
どうやら、燈火が言いたいのはそういうことらしかった。なんだかんだ言って、いつも僕を気に掛けてくれる。根が優しいのだ。
それに――彼女が油断ならないというのは、僕も同意だ。
口ぶりからして、彼女はひょうきん丸を相当慕っている。
だとすれば――「油断を誘う」という彼の戦法をリスペクトしている可能性は、考慮するべきだ。
見た目に惑わされて痛い目を見るなどという、二の足を踏むのはこりごりだ。
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