契約、完了

 心なしか、雨脚が強まったように感じたのは、この状況が作り出した錯覚だろうか。


「君の特技である記憶力は、ただの記憶力と称するには余りある、超記憶力。7日間の内に起きた出来事、会話、情報の全ては、君の脳内にインプットされている。その代償なのか否か、8日以上が経つと途端に忘れる為、完全にインプットする迄、何週も掛けて記憶の刷り直しを要する。つまり覚えるのは早いけど、忘れるのも早いと」


 読み終わると、パタンと手帳を閉じる鐘刻さん。

 自分は、何も言わない。


「便利そうで実に不便だね。一般企業でバイトなり就職なりするなら、致命的になりかねない特技だ」

(知ってるよ)


 だからこそ、PW内で行ったバイトは、全て短期のものばかりなのだ。8日目には、初日に覚えた仕事内容などすっきりさっぱり見事に白紙同然に忘れるのが目に見えているのだから。

 現に、試しに挑戦した8日目は、見事に惨敗した記憶は今だ自分に根強く刻み込まれている。

 普通に考えれば、まともな企業ならこんな欠陥品は雇わない。


「単刀直入に言おう、私ならそんな君の特技を活かしてやれる」

「はい?」


 だがしかし、鐘刻さんから放たれた言葉は、そんな欠陥など大した事ではないと言わんばかりの台詞だった。


「君にその気が有るなら、採用しようということだよ。社長が直接手掛けているカフェは不採用だけどね。私が手掛けている御魄屋は人手不足で、一人募集している所なんだ」


 言われ、まだ消していなかった不採用通達を確認すれば、確かにそこには『cafe mitama』では不採用と、記述してあった。


「社長さんに話は通さなくていいんですか」

「それは君の答え次第だよ」


 そんなの、決まっている。

 一生を費やす企業に就職するにあたって、自分の特技が致命的な欠点となるのは理解していた。7日しか覚えていられないのだから、つまり刷り込みが完了するまでは延々と入社1日目を続けなければならないのだ。

 そんな事実を、大手企業として名立たるPW関連会社様方に話せる筈がない。

 だからこそ、自分の就職活動は相応の覚悟の上が要した。

 だというのに、目の前の人物は、その特技たる欠点を考慮した上で、採用するという。

 願っても無い話だ。


「採用頂けるならば、最大限御社に貢献致します」

「堅苦しくしなくていいよ。これにサインしてくれるかな」


 すいっと指を宙で動かす鐘刻さん。おそらく、目の前にARを表示させていたのだろう。

 直ぐ様届いた通達に、自分は目を馳せる。

 表題には、採用証明書、と記載されていた。

 自分は何も言わず、空欄となっている氏名や生年月日などの個人情報を電子媒体上で記入していく。最後に、電子印を捺印し、鐘刻さんへと送り返した。


「これで君も立派な社会人だね。おめでとう」

「ありがとう、ございます」


 言うと、鐘刻さんは手に持っていたコートを羽織り、自分の真正面に立つ。ヒールを履いているせいか、自分の目線と差して変わらない。


「よろしく、彰紘くん」

「よろしくお願いします」


 差し出された手を握り返せば、その手はひんやりと冷たい。


(この人)


 降り注ぐ雨が、風に攫われ通路を塗らす。

 通り過ぎた鐘刻さんを見送るべく振り返れば、既にそこに彼女の姿は無かった。


「あの人、本当に、生きてるんだよな?」


 冷たい汗が、背筋を伝う。

 生ぬるい風が、雨と共に頬を撫ぜた。

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御魄屋探偵事務所の備忘録 大鷹悠之助 @ootaka_tooonda

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