さざなみ

緑茶

さざなみ

 背中が痒く、傷ついて血の垂れる足の間が痛んだ。

 それでも足を止めるわけには行かなかった。


 彼女は逃げていた。逃げ続けていた。

 暗闇の中聞こえるのは掠れた自分の吐息。そして。



 ざあああああああああああん。



 ざあああああああああああん。


 

 後方から聞こえてくる一つのさざなみ。鳥のざわめきのように甲高く、金属を引っ掻いたような響きも混じったそれが、どこまでも後ろから追いかけてくる。


 ――そんな、どうして。

 ――私は違う、私はやっていない。


 足元も擦り切れて血が滲んでいたが、それでも疾走をやめる訳にはいかない。さざなみはどこまでお追いかけてくる。

 彼女の中に幾つもの言葉がきれぎれに、浮かんでは消えていく。

 それは時に弁明になり、時に謝罪となった。


 逃げている、逃げ続けている。



ざあああああああああああん。



ざあああああああああああん。



 ――嫌だ、嫌だ……私は、こんな所から……。


 彼女は、叫ぼうとした。


 ――そこで、足が止まる。


 背筋に氷が差し込まれたようになり、立ちすくむ。全身を震えが貫く。時間の流れが……緩慢になる。



ざあああああああああああん。



ざあああああああああああん。



 ――そこは。


 いきどまりだった。手に触れれば、冷たいコンクリートの感触。残酷なまでに、無機質な。



ざあああああああああああああああああああああああん。



ざあああああああああああああああああああああああん。



 近づいてくる。


 さざなみが近づいてくる。


 彼女は歯を震わせる。背中がかゆい。かゆい。かゆい、かゆい、かゆい。

 思考がきれぎれになり、まとまりをなくしていく。熱に浮かされたようになって、内容が過去へ未来へ次々と飛んでいく。

 過去の光景がいくつもならんで、彼女の目の前を通り過ぎていく。



ざあああああああああああああああああああああああん。



ざあああああああああああああああああああああああん。



 ――やってない。

 ――私はやってない。

 ――……だから、こんなことはおかしい。



ざあああああああああああああああああああああああん。



……待って。


――だったら。


 

ざあああああああああああああああああああああああん。



――



 ……そこで。

 そこで全てが明確になった。彼女の中で時間が元通りになって全てが分かってしまった。分かってしまった。背中のかゆみがすっかりなくなってしまった。

 そうだ――あまりにも簡単なことだったんだ。何故自分は、そんなことにも気付かなかったのだろう――。


 彼女は。


 ――あぁ。私は、私は……。


 振り返った。




「おがあざあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん」


「おがあざあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん」




 濁流のように積み重なった薄桃色の肉の塊は一つ一つが独立していた。それはさざなみではなかった。

 眼球が剥ぎ取られ、ぽっかりとした深淵の空洞になった目から血を流す赤ん坊が積み重なって、しきりに彼女の名を呼んでいた。

 彼女の背中には冷たいコンクリート。もう逃げ場はなかった。

 ……逃げる必要など、なかった。


「おがあざあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん」


 その甲高い混声合唱……薄桃色の肉の群れが押し寄せると、彼女は全てを引き裂くような悲鳴を上げた。


 間もなく、彼女は赤ん坊達に飲み込まれた。

 とこしえの闇がやってきて、すべてを飲み込んでいく。




 それからの話は、誰も知らない。

 だが、実際にあったことだと、誰かが言っていたらしい。


 その人は、先日自殺したそうだ。

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さざなみ 緑茶 @wangd1

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